全国に7つある「旧帝大」に序列はあるのか…北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州の「政治的な位置付け」

2024年2月24日(土)11時15分 プレジデント社

「旧帝国大学」とは戦前に設立された帝国大学を指し、現在では日本を代表する難関国立大学となっている。評論家の八幡和郎さんは「1886年に最初の帝国大学が東京に設立され、これを唯一の帝国大学にすることが模索されたが、立身出世に燃えていた時代だったので、結局は全国各地につくられることになった」という——。

■「地元の旧帝国大学」が人材流出を防いでいる


進学校の高校が大学受験の合格者を競うとき、東京大学合格者や東京大学・京都大学合格者の合計が話題になるが、大都市圏以外では、旧帝国大学合格者数が基準にされることが多い。


たとえば、東北地方を見てみると、人口が多い宮城県を除く青森、岩手、秋田、山形、福島の5県では、東京大学の合格者数は合計36人だが、東北大学の合格者数はその10倍以上の479人に上る(2022年度)。北海度における北海道大学、九州地方における九州大学も似たような傾向がある。


しかも、山形県の場合だと東京大学合格者は3校からしか出ていないが、東北大学には11校から合格者を輩出している。一握りのトップ層は東京大学や京都大学を目指すものの、一般の生徒たちが目指す「頂点」は東北大学であり、人材流出のダムの役割を果たしているのだ。


ところで、この旧帝国大学がどういうものなのかを知っている人は、意外に少ないのではないか。そこで、この記事では、明治時代における誕生から終戦後に帝国大学という名称が消えるまでの歴史と、今日の姿を紹介したいと思う。


■京城と台北を合わせて9校あった


戦前の帝国大学は、北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州のほかに、京城帝国大学(現在のソウル特別市)と台北帝国大学があって「九帝大」だったが、国内にあるのは7校である。その枠組みが残っているのは、これらの大学の体育部の対抗戦である全国七大学総合体育大会で、「七大戦」というのが正式の略称だが、「七帝戦」と呼んでいる人も多い。


まずは、各帝国大学がどうやって誕生したかを振り返っていこう。


明治新政府は、維新から間もない1872年に「学制」を制定した。フランス法学者で文部省・司法省官僚の箕作麟祥が中心となっていたので、その内容は濃厚にフランス的なものだった。


これは全国を8大学区に分け、各大学区に大学校1校を置き、1大学区を32中学区に、1中学区を210小学区に分けて、全国に大学校8校、中学校256校、小学校5万3760校を置いてピラミッド式の整然とした秩序をつくるというものだった。


ただ、明治政府が最優先としたのが小学校教育の普及だったため、わずか3〜4年の間に、2万6000ほどの小学校が設置され、これが地方自治の最小単位にもなっていく。


■高等教育を普及させるには課題山積


一方、大学や中学の設置は構想通りには進まなかった。とりあえず代替物で間に合わせて、中学校については1886年、各都道府県に尋常中学校を置くことでようやく軌道に乗り始めたことは、〈47都道府県の「旧制一中」の栄枯盛衰…地元トップを維持する名門22校と凋落した元名門17校の全リスト〉などの記事で紹介してきたとおりだ。


大学など高等教育については、本来の構想からすれば、フランスやドイツの制度にならい、全国に8つの総合大学をつくって、単位の互換性を認めるのが理想だったのかもしれない。だが、そんな予算も教師もその勉学の基礎となる中等教育を受けた学生もいなかった。そこで、まずできることから始めるということになった。


また、開国間もない当時の状況では、日本や東洋の歴史・文学を別にすれば、あらゆる学問領域で、過去の蓄積などほとんど役に立たず、外国語をマスターして留学するか、お雇い外国人の教官に学ぶしかなかった。それに加えて、促成栽培で各分野の中堅専門家を養成する必要もあった。


■東京大学のルーツは外国文献調査と医学教育


そのなかで、京都にあった皇学所と幕府の昌平坂学問所を統合した「大学本校」、洋学を教え、洋書・外交文書の翻訳も担当した幕府の蕃書調所から開成所などを経て発展した「大学南校」、幕府の種痘所から発展した「大学東校」が運営されていたが、本校は新時代には無用だったので消え、あとの2校が1877年に合併して「東京大学」ができた。当初は法・文・理・医の4学部からなっていた。


ここに、原敬も学んだフランス法学を教える東京法学校(前身は司法省明法寮)が1885年に合流し、さらに、工部省の組織から出発した工部大学校が一緒になって1886年に日本最初の帝国大学(のちに東京帝国大学に改称)が成立した。さらに、1890年には東京農林学校も合流した。


国内2番目となる京都帝国大学の発足は、第三高等学校から分かれたものだというところが特殊だ。ルーツは1861年設立の長崎養生所という見方も可能だが、普通には1869年に創立された大阪舎密(せいみ)局と同年に開設された洋学校で、これが、開成所、大阪専門学校、大阪中学校、大学分校、第三高等中学校と改称し、1889年に京都に移転、1894年に第三高等学校となり、1897年には京都帝国大学が設立された。


京都大学(写真=Soraie8288/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

■帝国大学を全国各地にもつくる動きに


この背景には、尋常中学卒業後の高等中学において、大学予科のような語学中心の部門だけでなく、日本語で専門家を育てる学校をつくる動きがあり、高等中学を専門学校化する道も模索されたことがある。極端に言うと、帝国大学は東京だけにして外国語での講義を主にし、各地の高等中学を大学予備門コースと専門学校で構成しようという狙いだった。


ただ、「末は博士か大臣か」という立身出世に燃えていた時代だったので、結局は、高等中学は語学中心の大学予科としての性格が強いものになって名前も高等学校となり(旧制高校の話は別の機会に詳しくしたい)、帝国大学を各地にもつくろうという方向に収斂していったのだ。


また、東京帝国大学では、法学部の学生が非常に多くなった。これは、福沢諭吉による慶應大学や大隈重信による早稲田大学の卒業生ばかりが政治家や官僚になり、彼らの政治的影響力が強くなっているのを嫌った伊藤博文らが、帝国大学の卒業生を試験免除で官僚にするなどした事情にもよる。


そして、最初のころは分科大学(たとえば法科大学や理科大学)と大学院で構成されていたが、のちに学部制になり、さらに大学院における教育も学部の科目ごとの講座の教授が支配するという日本独特のあり方になった。


■札幌農学校から分かれた北海道大学と東北大学


東北帝国大学は、1876年創立の札幌農学校(東京で1872年設立の開拓使仮学校が1875年に移転した札幌学校を前史とする)を東北帝国大学農科大学とするだけで1907年に発足した。1911年に理科大学が設置され、翌年には宮城県立医学所をルーツとする仙台医学専門学校を吸収した(1736年設置の仙台藩藩校「明倫館養賢堂」に淵源を求める人もいる)。


東北帝国大学(写真=ノーベル書房株式会社編集部『写真集 旧制大学の青春』1984年1月20日発行/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

九州帝国大学は、1911年に創立された。まず、1月に古河財閥の支援を受けて工科大学を設置し、4月に京都帝国大学福岡医科大学(1867年設立の黒田藩賛生館の流れをくむ県立福岡病院が前身)を移管して加え、9月から工科大学の講義がスタートした。なお、設置に当たっては、長崎や熊本も誘致していた。


北海道帝国大学の前身は東北帝国大学と同じく札幌農学校で、東北帝国大学農科大学と称された時代を経て1918年に北海道帝国大学となり、翌年に医学部を設置した。


そして、後述する京城と台北の帝国大学が続き、関東大震災や世界恐慌などが起きた後、大阪と名古屋で地元の寄付によって帝国大学が設置されることになる。


■緒方洪庵の適塾から続く大阪帝国大学


大阪帝国大学(1931年設立)は、1724年に町人たちがつくった学問所である懐徳堂もルーツとしているが、「精神」としてはともかく連続性は認めがたい。1838年に緒方洪庵により設立された適塾のほうがそれなりの連続性はある。


大阪府が1869年に設立した仮病院と仮医学校に、緒方洪庵の次男である緒方惟準ら適塾の関係者が参加していたからである。それが大阪府立医学校、府立大阪医科大学を経て1931年に大阪帝国大学医学部となった。また、1896年設立の大阪工業学校をルーツとする、大阪工業大学を1933年に吸収した。


名古屋大学は、尾張藩種痘所の人たちが提案して名古屋県仮病院・仮医学校が設置された1871年を「創基」とし、名古屋帝国大学となった1939年を創立としている。これが国内7番目の帝国大学だ。さらに、1940年には理工学部が創立された。


次に、外地に設置された帝国大学について見ていこう。


京城帝国大学(1924年設立)は、朝鮮総督府の管轄で最初に予科が、ついで法文学部と医学部が置かれた。文政学部、理農学部でスタートした台北帝国大学(1928年創立)も台湾総督府の管轄で、終戦後そのまま国立台湾大学になった。京城帝国大学は京城大学と改称したものの、1946年に米軍により廃止されたため、現在のソウル大学は施設等を継承しているだけで連続性はないと自称している。


京城帝国大学と台北帝国大学(写真左=新光社『日本地理風俗大系 第16巻』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons、右=毎日新聞社『昭和史 別巻1 日本植民地史』/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

■韓国・台湾における帝国大学の評価


こうした外地における帝国大学などについて、主に保守派は「日本の外地統治が欧米のような植民地からの収奪でなく、地元の発展を願ったものだ」と指摘するが、韓国人などからはいろいろと反論がある。


たしかに、総督府監督下の日本語で教える学校は現地支配に役立つし、学生数も当初は日本人のほうが多かった。しかし、韓国の場合で言えば、近代的な初等中等教育の発展が内地より半世紀近く遅れて始まったため、帝国大学の教育についていける学生がはじめは少なかったのだから致し方なかった。


終戦後、日本の無条件降伏と、米占領軍や中華民国政府が邦人の引き揚げを強要したことによって日本人教官が引き継ぎなしに退去したのは残念なことだったし、幼少期から日本語で教育を受けていた学生は突然、習熟しない言語で学ぶという犠牲を強いられた(そのため、戦後しばらくは日本語文献が広く使われていた)。


こうした変化が、旧宗主国の言語の使用が広く続いた欧米植民地に比べて、韓国や台湾の経済・文化発展の足かせになったことは否定できまい。


■戦後、旧帝国大学は新国立大学に再編


内地では終戦後の1947年、帝国大学令が国立総合大学令となり、帝国大学の名称が廃止された。さらに、1949年の国立学校設置法に基づき、各地域に散在していた旧制学校が新国立大学に吸収されていった。


東大の二工とは千葉にあった第二工学部で、生産技術研究所の前身

たとえば、名古屋大学の場合でいえば、第八高等学校、名古屋経済専門学校(旧名古屋高等商業学校)、岡崎高等師範学校を吸収し、教育学部や法経学部などを増設した新制名古屋大学が誕生した。


このとき、どのような学校が吸収されたかは統一方針がなく、各地の実情によって違う。学部については、東京帝国大学および東京大学では1919年に法学部から経済学部が、1949年に文学部から教育学部が、1958年に薬学部が医学部から独立し、他の大学でもそれに倣ったケースが多い。


■時間切れで幻となった「北陸帝国大学」


こうして創立された九帝国大学に続き、新帝国大学の創設を希望する地域もあった。とくに、金沢では北陸帝国大学をめぐる激しい運動があった。戦後の学制の変更がなかったら、金沢医科大学(各地に高等専門学校より格上の単科大学はいろいろあった)を中心にして実現していたとみられるが、惜しくも帝国大学制度がなくなったことで時間切れとなった。


旧制大学と高等専門学校を同じ大学とし、しかも地域ごとに統合を進めた結果、多くの都道府県にかつての帝国大学に似た総合大学が誕生することとなった。それらのなかで旧帝大は、制度的な裏付けはないが、格上と認識され、予算などでも優遇されていた。


また、一期校・二期校に分けて入試が行われた時代には、旧帝国大学7校は一期校に分類されていたため、東大・京大を第一志望としてほかの5校を滑り止めとすることはできず、地元の旧帝国大学を第一志望とさせるように誘導したともいえる。


■東大・京大→5旧帝大→国立大学の序列に


ところが、1979年にこの制度がなくなり、共通一次試験(現在は大学入学共通テスト)が実施されると、その試験の成績をみてから第一志望を選ぶようになり、大学間の序列化が顕著になった。


旧帝国大学の中では東大・京大が抜きんでて、そのほかの旧帝国大学は第二志望化したが、国立大学全体では、学部に関わらず「旧帝国大学ブランド」がほかの国立大学を引き離すようになった。


たとえば、関西の国立大経済学部では、かつては、京都大学→神戸大学(神戸商大の伝統)→滋賀大学(二期校だったので京都大学を不合格となった受験生に人気だった)→大阪大学だったのが、京都大学→大阪大学→神戸大学→滋賀大学と明確な序列ができ上がったのだ。


■「旧帝大ブランド」を守っていく重要性


もうひとつ、東大・京大以外の旧帝大のなかで序列はあるのだろうか。


理工系は専門別に入試区分が異なる場合もあるので分かりにくいが、法学部では東京→京都→大阪→名古屋→東北→北海道→九州、文学部では東京→京都→大阪→名古屋→北海道→九州、医学部では東京→京都→大阪→名古屋→九州→東北→北海道となっている(※)。


※河合塾「入試難易予想ランキング表


大阪大学については、東京における東工大・一橋大・東京外語大・東京医科歯科を合わせたようなところがある。九州では東京志向が強く、ほかの地方大学も伝統を背負っているところがあるため、九州大学は学部によってはほかの旧帝大よりやや難易度が低くなっているようだ。名古屋大学はノーベル賞に強いことで知られる(卒業生からは3人)。


以上のような経緯をたどり、旧帝国大学はとくに地方において「憧れの大学」であり続けている。こうした大学がブランドを守っていくことが、大都市圏への一極集中を食い止めることにつながるのではないだろうか。


----------
八幡 和郎(やわた・かずお)
徳島文理大学教授、評論家
1951年、滋賀県生まれ。東京大学法学部卒業。通商産業省(現経済産業省)入省。フランスの国立行政学院(ENA)留学。北西アジア課長(中国・韓国・インド担当)、大臣官房情報管理課長、国土庁長官官房参事官などを歴任後、現在、徳島文理大学教授、国士舘大学大学院客員教授を務め、作家、評論家としてテレビなどでも活躍中。著著に『令和太閤記 寧々の戦国日記』(ワニブックス、八幡衣代と共著)、『日本史が面白くなる47都道府県県庁所在地誕生の謎』(光文社知恵の森文庫)、『日本の総理大臣大全』(プレジデント社)、『日本の政治「解体新書」 世襲・反日・宗教・利権、与野党のアキレス腱』(小学館新書)など。
----------


(徳島文理大学教授、評論家 八幡 和郎)

プレジデント社

「東北」をもっと詳しく

タグ

「東北」のニュース

「東北」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ