朝ドラではスルーされた笠置シヅ子VS美空ひばりの楽曲使用トラブル…自伝から読み解く二大歌手"確執の真相"

2024年3月8日(金)6時15分 プレジデント社

美空ひばり(1948年)『戦後20年写真集』(写真=共同通信社/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons)

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3月末で完結するドラマ「ブギウギ」(NHK)。物語はクライマックスに向かい、笠置シヅ子をモデルにした歌手のスズ子がブギのヒット曲をひっさげてアメリカ公演に行くくだりが描かれた。当時の顛末について調べたライターの田幸和歌子さんは「1950年に笠置が渡米した時点で、美空ひばりがデビューしていた。しかし、美空がひと足先にアメリカ公演に行き、笠置の歌を歌おうとしたことで、ひと騒動が起った」という——。

■「ブギウギ」でもヒロインの渡米前後が描かれたが…


ドラマ「ブギウギ」(NHK)第23週では、福来スズ子(趣里)にアメリカ公演の話が舞い込む。羽鳥善一(草彅剛)は乗り気だが、スズ子は娘・愛子(小野美音)と4カ月も離れ離れになることを心配し、愛子もアメリカに行かないでほしいと泣きじゃくる。


スズ子は悩みに悩んで、麻里(市川実和子)に相談。同じ母親としてスズ子の葛藤に理解を示す麻里に背中を押されたことで、アメリカ行きを決意し、留守の間に愛子が伸び伸び遊べる庭つきの家に引っ越すことを決める。そして渡米当日、泣き叫ぶ愛子に、歌手としてもっともっと大きくなりたいのだと伝え、思いを振り切るように家を出た。そして、得難い経験を重ね、予定どおり帰国している。


ドラマでは「親子の愛情」を強調し、渡米の理由を同じ母親である麻里の助言に求め、肝心のアメリカ公演の描写はすっ飛ばして、スズ子の父・梅吉(柳葉敏郎)との「父と娘の愛情」の物語につなげている。ドロドロした部分に念入りにフタをして、人情物語に仕上げる「ブギウギ」らしい作為的な展開ではある。


なぜなら、スズ子のモデルとなった笠置シヅ子の渡米は、相当な混乱を伴ったものだったためだ。


■本当は美空ひばりに先を越されてしまったアメリカ公演


昭和25年(1950)。俳優・山本富士子が読売新聞社・中部日本新聞社・西日本新聞社主催の第1回ミス日本となり、翌51年にミス日本として公式渡米している。この頃、芸能・文化界隈(かいわい)ではアメリカに行くことがある種の箔付(はくづ)けになっていたらしい。


笠置と羽鳥のモデル・服部良一がハワイをはじめとするアメリカ各地に興行に行ったのも、50年。「服部・笠置ブギウギコンビ」というキャッチフレーズで公演をする予定だった。しかし、その1カ月前に渡米を決めたのが、美空ひばり一行だった。


美空ひばり(1948年)『戦後20年写真集』(写真=共同通信社/PD-Japan-organization/Wikimedia Commons

1914年生まれの笠置と、1937年生まれのひばり。ひばりが笠置シヅ子のモノマネで頭角を現したこと、ひばりが笠置の歌を歌うことを笠置から禁じられたことなど、この20歳以上年齢差のある二人の「因縁」と「確執」はしばしば語られてきた。ドラマではひばりをモデルにしたと思われる水城アユミ(吉柳咲良)が今後、登場するが、帰国後に初めて会うという設定に。しかし、実際のところはどうだったのか。


■美空ひばりは11歳のとき笠置シヅ子のものまねで注目された


笠置の自伝『歌う自画像 私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)には、渡米のことも、ひばりのことも一切登場していない。また、史料によって笠置とひばりを巡る記述はいろいろ食い違う。


美空ひばり公式ウェブサイトの年表には、「1948年5月1日〜」の項に「横浜国際劇場快感一周年記念特別興行で、子唄勝太郎の前座として出演、笠置シヅ子の『セコハン娘』を歌い、同劇場支配人福島博(後、通人)に認められる」とある。そして同年10月には「横浜国際劇場に笠置シヅ子が来演。同じステージで歌い、自分の物真似をおもしろがられ、可愛(かわい)がられる」とある。


この共演については、服部良一の自伝『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)にも登場している。同書では、笠置とひばりが同じ舞台に出演したのは、昭和22年(1947年)9月、横浜国際劇場でのこととされていた。ひばりは前座に「セコハン娘」を歌うといったが、笠置は「セコハン娘」を発売したばかりだったため(ブギはまだ出ていなかった)、同じ舞台で同じ曲を歌うのは困るということで、ひばりが『星の流れ』を歌ったとある(註:1947年10月に発売された菊池章子の『星の流れに』のことと思われる)。


■美空を見て「子供と動物には勝てまへんなあ」と苦笑した笠置


スター歌手の新曲を前座の少女が歌うのは少々違和感もあるし、結果的に別の曲を歌ったひばりは観客に大いに受け、笠置も「センセー、子供と動物(いきもの)には勝てまへんなあ」と語ったとされているだけに、この時点では大きなトラブルはなかったようだ。


しかし、関係性が変化するのは、1949年に日劇に出演した頃から。


横浜国際劇場でひばりを見初めた支配人の福島博がひばりのマネージャーとなり、日劇に出演する際、稽古場にいた服部のもとにひばりが母親に連れられ、挨拶に来たのが服部との初対面だったという。服部自伝から一部引用したい。


「この子は先生の曲が好きで、笠置さんの舞台は欠かさず見ています。どうぞ、よろしくお願いします」とあいさつされた。横で、ピョコンと頭だけ下げてニヤッと笑った少女に、ぼくは不敵な微笑を感じた。この自分からすでに大物の片りんがうかがえたのか、ともかく、本舞台に現われたひばりの『東京ブギウギ』は歌い方も間奏の踊りも笠置そっくりで、観衆はヤレ『豆ブギ』だの『小型笠置』だのとヤンヤの拍手である。ぼくも舞台のそでで見ていて、その器用さと大胆さに舌を巻いた。
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)


服部良一(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1950年12月13日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

■渡米のタイミングで関係が悪化、服部良一は楽曲使用を禁止


問題が起こったのはその翌年、1950年の7月。ハワイの松尾興行の招きで服部と笠置がアメリカに行くことになったとき、ひばりたちはハワイの二世楽団に招かれて1カ月早く渡米することになったという。二組の渡米先での“ニアミス”について、服部の自伝ではこう記されている。


松尾興行から急な連絡が入った。せっかく「服部・笠置のブギウギコンビ」のキャッチフレーズで宣伝を進めているのに、ひばりが一足先にブギを歌ってまわり、そのあとで同じ曲目で笠置が回るのでは興行価値は低下する。なんとかして欲しいという要請である。中間に立ってぼくは困った。だが、ブギは笠置シヅ子というパーソナリティーを得てこそヒットしたのだ。美空ひばりが歌うことは自由だが、それによって最初に歌った人が迷惑をこうむるのは、作曲者としてみるに忍びない。相手が子供だといっても理由にはならない。やむを得ず音楽著作権協会を通じて、今回の渡米中のみ作品の使用を停止する旨通告した。
服部良一『ぼくの音楽人生』(日本文芸社)


■美空の本番5分前に笠置が電話して歌うのを止めさせた?


笠置とのいざこざについては、ひばりの自伝にも書かれている。


ひばり自伝 わたしと影』(1971年、草思社)では、ひばりは1949年の日劇で当時大流行していた『ヘイヘイブギー』を歌うことになっていて、服部に紹介してもらい、「みっちり三日間仕込んでいただきました。終ったときには、先生にも『よし』と言っていただけて、わたしもすっかり自信を持ち、楽しい舞台にしなければ、と心にきめていました」と記している。ところが、開幕5分前になって、笠置からの電話で、『ヘイヘイブギー』を歌うことを禁じられたという。


ここで途方に暮れたひばりが辞めると言い、母親もおろさせてもらうと言ったことから、劇場が困り果て、問い合わせたところ、『ヘイヘイブギー』はいけないけれど『東京ブギ』なら良いということ折衷案が出された。その経緯については、「ところが、わたしは『東京ブギ』はあまり好きではなかったのでうたったことがなかったのです。(中略)みんなでわたしのことを『かわいそうだ』と言って、同情してくれました」と恨み言が綴(つづ)られている。


続けて、ハワイ公演のときに音楽著作権協会から「服部良一作曲のブギをうたってはいけない」という通知状が来たことについては、「そういうときの悲しさを思い出すと、わたしは、今、若い人たちにあんなことを絶対にしてはいけない、と思います」とも記している。


■2012年に出た自伝には「禁止されて悲しかった」とは書いていない


笠置がひばりに意地悪をしたとされるのは、まさしくこの『ひばり自伝 わたしと影』の影響が大きいのだろう。しかし、1971年に刊行された『ひばり自伝 わたしと影』と2012年に刊行された『美空ひばり「虹の唄」』(日本図書センター)とでは、書き方も、受ける印象もずいぶん違う。


『虹の唄』は冒頭で「いつわりのない自伝」として、あたかもこれこそが本人による初めての自伝のように記している。


同書によると、ハワイ、アメリカ公演で服部良一の全作品の演奏や歌を禁じられた当時、10万枚突破のヒット曲「悲しき口笛」をはじめ、持ち歌がすでにあったが「その数はわずか十曲足らず」だったとある。持ち歌がなかったどころか、すでにヒット曲も持っていたわけだ。


映画『憧れのハワイ航路』(1950年)の美空ひばり(写真=PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

また、実際にはホノルル公演で二世楽団の隊長に「日本では、そうなっているかもしれないが、ここはここだ。だから遠慮なく“東京ブギ”でも“セコハン娘”でもうたって差支えない」といって証明書も作ってもらい、笠置の歌を歌ったそうだ。


■ひばりにとって笠置は「一番尊敬している先生」だったが…


しかし、『虹の唄』によると、ひばりが横浜国際劇場に小唄勝太郎の前座で出た際、ある日、笠置も出演し、共演した。そして、写真も一緒に撮ってもらったことが、そのときの写真を添えて記されている。ひばりは「私が一番尊敬している先生です。うれしさに胸がいっぱい。笠置先生はいろいろ親切に面倒を見て下さいました」とし、そこから福島が“ベビー笠置”として売り込んだこと、自分も「大好きな笠置先生の歌」を喜んで歌ったこと、そのことで後に笠置と服部ににらまれることになったのだろうと推測している。


渡米に関して笠置は『サンデー毎日』(1950年11月5日号)の中で「『ブギの女王』アメリカ土産話」として、ハワイでもブギが歓迎されたこと、機内で服部にトイレの場所を尋ね、教えられた通りに行くと男性用だったが、恩師である服部の言葉に服従する癖がついていて気づかなかったこと、トレードマークの大口を開けずにロサンゼルスを歩いていたら、「あんまりおすましなので分からなかった」と古川電機の社長に言われたエピソードが披露されている。


また、「帰途、ハワイで飛行機を待つ二日間はエイ子(愛子のモデル)のことばかり、羽田についたら涙々でエイ子の顔が見えんかつたわ」と語ったという記述も見られる(『サンデー毎日』2015年1月18日[一億人の戦後史]『サンデー毎日』が伝えた「終戦の情景」ブギの女王笠置シヅ子を悩ませた税金と愛娘の子育て)。


■笠置がハワイに着くと「買物ブギー」の歌詞が流行語になっていた


アメリカ公演自体は充実したものだったようで、ハワイでは「東京ブギウギ」や「買物ブギー」も大評判。日本同様、ハワイでも「ワテほんまによう言わんワ」や「おっさん、おっさん」は流行語になっていて、町を歩いていると、現地の人々から服部は「おっさん、おっさん」と呼びかけられ、笠置は「ワテほんまによう言わんワ」と話しかけられたことが服部の自伝で書かれている。


写真=プレジデントオンライン編集部所有

また、ホノルルの国際劇場の公演では、灰田勝彦も郷土・ハワイに来ていたことで、灰田のスチールギターにより自作の「鈴懸の径」を演奏する場面もあったそうだ。


『ひばり自伝 わたしと影』によると、服部良一とひばりはその後、力道山のとりなしによって和解ができたという。服部も自伝で「美空ひばりの当時の悲憤が、彼女を大きく発展させ、今日の大をなす素因の一つになったという見方もできよう」と、いざこざを振り返っている。しかし、その一方で、笠置とひばりは仲直りできないままだったようだ。


■美空のマネージャーも笠置のマネージャーも元吉本だった


ちなみに、渡米のときにも一緒だった川田義雄は、俳優、歌手、コメディアンで、またの名を「川田晴久」。美空ひばりの「師匠」で「芸能界の育ての親」と言われる人物で、『虹の唄』の中でひばりは「川田のアニキ」としてこの人物の話をたびたび書いている。興味深いのは、川田が戦前は吉本興業に所属していたこと。


笠置が渡米寸前に大金を使い込まれたマネージャーで、ドラマに登場する山下(近藤芳正)のモデルとなった山内義富も、もともと吉本興業所属だった。


笠置が渡米する直前にひばりが渡米し、本人より先に笠置の歌をそっくりの物真似(ものまね)で歌うと聞いたら、笠置サイドとしてはそれを阻止したいと考えたのも自然なことだろう。なぜ笠置とひばりのニアミスが起こったのかは、さまざまな推測がされているものの、事実が明らかになっている史料はない。


しかし、芸能とカネと、そこにまつわるドロドロした人間関係を掘り起こすと、あちこちに吉本興業が絡んでくることは当時の芸能事情を知る上で非常に興味深い事実である。


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田幸 和歌子(たこう・わかこ)
ライター
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など
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(ライター 田幸 和歌子)

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