累計1000万本超の大ヒット「こどもびいる」から始まった…次々と人気商品を生み出す知られざる夫婦の物語

2024年4月30日(火)16時15分 プレジデント社

福岡・能古島を拠点に活動するプランナー、浅羽雄一さん(左)と八智代さん夫妻 - 写真=戸高慶一郎

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次々とヒット商品を生み出す夫妻が福岡にいる。「こどもびいる」や「カバ印アイスキャンデー」といった人気商品を手がけてきた浅羽さん夫妻は、もともとはもんじゃ焼き店のアルバイト仲間だった。なぜ2人は「売れっ子プランナー」になったのか。フリーライターの川内イオさんが取材した——。
写真=戸高慶一郎
福岡・能古島を拠点に活動するプランナー、浅羽雄一さん(左)と八智代さん夫妻 - 写真=戸高慶一郎

■ヒットの仕掛け人の意外な前職


「こどもびいる」という商品がある。瓶のラベルがビール風の炭酸飲料だ。佐賀県小城市の友桝飲料が2004年に発売し、一時期は年間100万本を超える大ヒット商品になった。


画像提供=浅羽雄一
浅羽さん夫妻が考案した「こどもびいる」。発売から20年を迎え、これまで1000万本以上が売れた - 画像提供=浅羽雄一

素朴で懐かしい雰囲気の「カバ印アイスキャンデー」は都内でも売られているから、見たことがある人も多いだろう。これは福岡県柳川市にある椛島氷菓が2011年に発売したもので、現在は年間80万本売れる看板商品だ。


画像提供=浅羽雄一
椛島氷菓のカバ印アイスキャンデー。カバ印のロゴは八智代さんがデザインした - 画像提供=浅羽雄一

佐賀県小城市の老舗和菓子店、村岡総本舗が2019年に売り出したのは、伝統の羊羹(ようかん)をカステラで挟んだ「シベリア」。レトロなデザインの包装や缶が注目を集め、人気商品になった。現在も年間1万2000個のペースで売れている缶入りのシベリアは、ガチャガチャ(カプセルトイ)として企画された「全国のかわいいおやつ」で採用されている。


画像提供=浅羽雄一
カステラで羊羹を挟んだ菓子「シベリア」。伝統製法の切り羊羹は自家製の餡に挟まれており、計5層になっている - 画像提供=浅羽雄一

この3商品の共通点は、九州発ということ。そしてほとんど知られていないことだが、開発の舞台裏にはひとりの商品プランナーがいる。


博多湾に浮かぶ能古島で暮らす、浅羽雄一さん。彼はデザイナーで妻の八智代さんとともに数多くのローカル商品の開発やパッケージデザインに携わり、思わず手に取りたくなる「ちょっと気になる商品」を生み出してきた。意外なことに、浅羽さんはもともと博多にあるもんじゃ焼き店のオーナーだった。


なぜ、飲食店の店主がヒットの仕掛け人に?


■30歳までに3回退職


浅羽さんは1966年、福岡市内で生まれた。中学1年生の時、自転車で北九州を走ってからひとり旅にはまり、中高時代、そして西南学院大学に入ってからもあちこちに出向いた。


1990年、大学を卒業。寝ても覚めても旅のことばかり考えていた学生の就職先は、東京の旅行会社だった。大学卒業後すぐに結婚した浅羽さんは妻を連れて上京し、不動産業者に勧められた千葉県松戸市のアパートで暮らしながら、新入社員として働き始めた。しかし、毎日終電で帰宅する生活に嫌気がさし、4カ月で退職。


「次はもっと早く帰れるところがいい」と転職したのはオーストラリアの肉メーカー。ところがその会社がアメリカの同業他社に買収されることになり、入社して2年で再び転職する。


3社目は、光ファイバーの部品を作っている松戸の町工場。就職情報誌に掲載されていた「海外営業」という言葉に惹かれた。急成長していたその会社の営業は、「楽しかった」と振り返る。ところが、海外出張の合間に現地を堪能するうちに、旅好きの虫がうずき始めた。


「仕事中心だから、現地であまり時間が取れなくて。だんだん、もうちょっと旅行したいなと思うようになって、最終的には、これはもう会社をやめて旅に出るしかないなと(笑)」


筆者撮影
プランナーの浅羽雄一さん。対岸には福岡タワーが見える - 筆者撮影

同じく旅好きな妻と「長男のオムツが取れたら旅に出よう」と話し合い、息子が3歳になる頃、退職届を提出。浅羽さん30歳の1997年2月、家族で世界一周の旅に出た。


■異色のもんじゃ焼き店で修業


世界約20カ国を巡り、日本を発ってから約1年後に帰国。間もなくして、名古屋にひとりで住み始めたのは、フィジーでの出会いがきっかけだ。フィジーの海岸沿いの安宿にいた時、サーフボードを抱えた日本人のグループに会い、一緒にご飯を食べることになった。そのうちのひとりが、名古屋でもんじゃ焼き店を経営しているOさんだった。


「お前、帰ったらなにやるんだ?」
「まだわかんないです」


という会話をきっかけに、「日本に帰ったら俺のところに来て、もんじゃ焼きをおぼえればいいじゃん」と誘われた。もらった名刺を旅の間も持ち歩いていた浅羽さんは、帰国後、「見るだけ見てみよう」と連絡。夜行バスで名古屋に行くと伝えると、「迎えにいく」と返事があった。


待ち合わせの朝、Oさんは名古屋のバスターミナルに純白のポルシェで現れた。その姿を見た瞬間、浅羽さんの心は決まった。


「おれももんじゃ焼きをやろう!」


Oさんは名古屋で2店舗を経営していて、いかにも羽振りがよさそうだった。すっかり前のめりになった浅羽さんに、気前のいいOさんは「上の事務所が空いてるから、そこに住んでいいよ」と言った。こうして1998年2月、福岡に妻子を置いて名古屋に出てきた浅羽さんは、単身赴任のアルバイトとして働き始めた。


■アルバイトで学んだ接客術、帰郷し開業


そのもんじゃ焼き店の接客は、「ジャングルクルーズ的な感じのエンターテイメント」だった。一般的なもんじゃ焼き店は、注文された具材と道具の一式をお客さんに渡し、あとはお任せだ。しかし、Oさんの店では注文を受けると、従業員がお客さんのテーブルで焼く。その間、お客さんが楽しめるように話しかける。


もちろん、こういうトッピングをしたらおいしい、こういうお酒があるという営業も忘れない。ただし、決して押し付けず、自然な会話の流れでおススメするイメージだ。お客さんも「それなら……」と追加の注文が入る。ひと通りの接客を終える頃には友人のような関係になっていて、リピーターが絶えない店だった。


浅羽さんは、半年間ホールを担当。調理場のことはほとんどなにも知らなかったが、繁盛の秘訣を知ったことで覚悟が決まり、妻子が待つ福岡市に帰郷して1998年11月、福岡市博多区美野島にもんじゃ焼き店「下町屋」を開いた。


筆者撮影
浅羽さんがオーナーを務めたもんじゃ焼き店「下町屋」 - 筆者撮影

開店費用は、約1000万円。祖母が遺してくれた300万円と、日本政策金融公庫から借りた500万円をあてた。それでも足りず、エアコンや冷蔵庫などは200万円のローンを組んで購入。まったく資金に余裕がないうえに、周りになにもない場所に店があり、知り合いからは「すぐに潰れる」と言われた。それでも、浅羽さんは自信を持っていた。


「どう考えても人気になるだろうと思っていたんですよね。こういうお客さんが来て、こういう店になるというイメージがしか湧かなかった」


■「すぐに潰れる」と言われた店が繁盛した理由


接客は、修行先と同じスタイル。お客さんの興味を引くために、お酒やソフトドリンクも珍しいものを探して仕入れた。従業員がお客さんに自信を持ってフードやドリンクを勧めるために、月に一度、お店を早く閉めて従業員と「もんじゃ会」を開いた。そこでは「食べたことがないものと、飲んだことがないものを経験すること」がルールだった。従業員には、お客さんの様子を常に確認し、なにか注文したそうな素振りを見せたらすぐに駆け付けるよう指導した。


こうした細かな取り組みが功を奏し、お店はオープン直後からお客さんで賑わった。独特の接客が口コミで広がり、リピーターが順調に増えていった。平均してひと月に250万円ほど売り上げるようになって、経営は軌道に乗った。


お客さんをしっかりと楽しませ、リピーターを作る従業員も、効率よく調理場をまわす裏方も、お店にとって不可欠な戦力だ。とはいえ、相場を大きく上回るような時給は出せない。そこで浅羽さんは、従業員に「飯はいくらでも食っていいぞ。バイトが休みの日でも、飯だけ食べにきてもいいから」と伝えていた。


学生や若手のバイトにとって、「いつでもご飯を食べに来ていい」というオーナーの言葉が、どれだけ安心感につながったことか。それだけが理由ではないだろうが、下町屋の従業員は定着率が高く、繁盛店を支えた。


■「こどもびいる」誕生秘話


実は、「こどもびいる」は、浅羽さんと従業員の会話から生まれた。ガラナという炭酸飲料をご存じだろうか? 北海道、鹿児島、宮崎ではメジャーながらほかの地域ではあまり目にしない、コーラに似た風味の飲料で、下町屋で瓶入りのものを仕入れて販売していた。


浅羽さんはある時、宮﨑出身の従業員から「宮崎では、焼き肉に行くと大人はビールで、子どもはガラナで乾杯するんです」と聞いた。その話を聞いて、「ガラナを『こどもビール』として売ったら面白いのでは?」と閃いた浅羽さんは、メニューを「こどもビール」と書き直した。その反応は顕著で、それまでまったく注文が入らなかった380円のガラナが売れ始める。


これはいける! と手応えを感じ、名古屋での修業時代、アルバイト仲間だった八智代さんに連絡を取った。浅羽さんが店を開いた後、八智代さんの両親が転勤で福岡に引っ越してきたこともあって交流が続いていたのだ。浅羽さんは、趣味でイラストを描いていた八智代さんに、「こどもビール」と書いたラベルのデザインを依頼した。


「僕は、いわゆるビールな感じのラベルを考えていたんですよ。そうしたら、なんかすごくふざけた感じのイラストがきてね。キリンの絵に『十番搾り』と書かれていたよね。でもまあ、仕方ないから、これでいいかって(笑)」


筆者撮影
「こどもびいる」が生まれた経緯を振り返る浅羽さん - 筆者撮影

そのイラストを5万円かけて印刷し、もとのガラナのラベルを剝がして瓶に貼った。すると、あっという間に毎月200本売れる人気商品になった。それを喜んでばかりもいられない。ガラナはリターナブル瓶のため、「こどもビール」のラベルが貼られたままの瓶がガラナを製造していた某飲料メーカーに戻され、「これはなんだ?」と話題になっていると卸業者から耳にする。


そこで浅羽さんはその飲料メーカーを訪ね、「こどもビール」を商品化できないかと相談した。しかし、相手にとって浅羽さんは単なるもんじゃ焼き店のオーナー。「うちは10万本単位で作ってるから、ちっちゃい話はやれんよ」と追い返された。これで「こどもビール」の運命が途絶えたか……というところで、追い風が吹く。


■友桝飲料との出会い


訪問からしばらく後、飲料メーカーが廃業。下町屋にガラナを卸していた業者から、「佐賀にまだガラナを作っているところがある」と聞き、仕入れ始めた。そのメーカーが、友桝飲料だ。


2003年のある日、なんとなく友桝飲料のホームページを見たら、「オリジナル商品作ります」と書かれていた。「話だけは聞いてもらえるかもしれん」と連絡すると、「明日、伺います!」と返信があり、翌日、作業着姿の社員が訪ねてきた。それが今の社長、友田諭さん。友桝飲料はちょうど新規事業としてオリジナル商品の製造を始めたところで、「こどもビール」の話をすると、「やりましょう!」と快諾してくれた。


正式に作るなら、「十番搾り」のラベルは使えない。浅羽さんは再び八智代さんに連絡し、改めてラベルのデザインを依頼した。新しいラベルには、男の子と女の子が描かれていた。よく見ると胸の名札に、名前が記されている。


「下町屋が本当に忙しくて、昼夜逆転の生活になってね。家族とすれ違って、離婚する直前だったんです。これで長男、長女ともお別れかと寂しく思っていたら、八智代がうちの子どもの名前を小さく名札に入れてくれました。いつか子どもたちが親になった時、このラベルを見て『じいちゃんが作ったんだよ』と自分の子どもに言ってくれたらいいなと思いましたね」


「ビール」と書くとお酒と勘違いする人もいるかもしれないと、すべて平仮名に改称した「こどもびいる」が2003年末に完成。下町屋のオリジナル飲料として、最初の半年間、毎月10ケース(240本)仕入れていた。この時まで、中身はガラナのままで瓶のラベルを張り替えたものだったが、友桝飲料からの提案で見た目がビールそっくりのリンゴ味の炭酸飲料に変更した。


こどもびいる。色合いもビールのようなリアルさだ
レトロなポスターが客の惹く

このタイミングで、友桝飲料から「こどもびいる」を正式に売りに出したいと連絡があった。下町屋のオリジナル商品として考案した浅羽さんは最初、断った。どこでも買えるようになったら、下町屋で売れなくなる。しかし、何度かの交渉を経て「販売先は飲食店のみ」「浅羽さんから友桝飲料に、毎月製造する分のラベルを販売する」という形で落ち着いた。これが、大きな転機となる。


■発売初年度に100万本を突破


「どうせ売るなら、しっかり売ろう!」と、浅羽さんと友桝飲料は2005年3月に開催された食品・飲料展示会「フーデックス」に出展した。


八智代さんがデザインしたポップと、八智代さん考案のキャッチコピー「子どもだって、のまなきゃ、やってらんねーよ」で「怪しい感じ」に飾ったブースは、さぞ目立ったのだろう。初日、ハンズやソニープラザなど大手から中小まで、買い付け担当者が押し寄せた。これが縁となって百貨店のギフト商品としても扱われるようになり、7月には月産7.5万本に伸びる。


筆者撮影
妻の八智代さん(左)と浅羽さん。2人のアイデアとデザインがヒット商品を生み出してきた - 筆者撮影

そして8月、共同通信社の記事「ボクたちも乾杯!/人気広がる、こどもびいる」がヤフーに転載されると友桝飲料に注文が殺到し、年間100万本を突破。日経トレンディー誌の「2005年地方発ヒット商品」にも選出された。


当然、「製造本数分のラベルを販売」、要するに出来高制の契約を結んでいた浅羽さんのもとに多額のラベル代が振り込まれた。それを機に税理士から助言を受けて作った会社が「WILLOW(ウィロー)」だ。この時、八智代さんがデザイナーとして正式に参画した。


「最初は社名を『バリウム』にしようと思ってたんだけど、母ちゃんにそんな気持ちの悪い名前やめなさいと怒られてね。八智代に相談しようと思って電話したら名古屋にいて、美容院で髪を切っているところだったんですよ。それで八智代が美容師のお姉さんにその話をしたら、『名古屋だからウィローでいいんじゃない』と言われたから、そうしました(笑)」


■独学でイラストやデザインを手掛ける妻・八智代さんの力


八智代さんに、ウィローを結成時のことを尋ねると、苦笑した。


「誘われたっていうかね、やるよな、みたいな感じやったけん。もうなし崩し的な(笑)」


もともともんじゃ焼き店のアルバイト仲間だったふたりのコンビが、この後、九州に名を轟かせるようになると想像した人はいただろうか?


「こどもびいる」の大ヒットを受けて、2006年春、友桝飲料とウィローに長崎市雲仙の酒店の店主から、「こどもびいるみたいな、オリジナルの商品を作りたい」という相談が舞い込む。浅羽さんと八智代さんは友桝飲料とともに、温泉と書いて「うんぜん」と読む「温泉レモネード(雲仙温泉レモネード)」を開発。


これが発端となり、地域に根差したオリジナル飲料の開発依頼が全国から相次ぎ、「指宿温泉サイダー」、「ゆふいんサイダー」など続々と新製品を生み出していった。浅羽さんが携わったご当地飲料は20種類以上に及び、今日もどこかで誰かが手に取っている。


写真提供=浅羽雄一
指宿温泉サイダー。鹿児島県初の地サイダーとして指宿に誕生した - 写真提供=浅羽雄一

これだけ広まったのは、独学でイラストやデザインを手掛ける八智代さんの力も大きいだろう。自分が描いたデザインが日本中に広がっていくのを見て、どう感じていますか? と尋ねると、意外な答えが返ってきた。


「案を考えたり描いている時は楽しいし頑張るんですけど、それをクライアントが商品化する時はもう私の手を離れて『おたくのお子さまです』という感覚なんです。犬のブリーダー的な(笑)」


■他社のアイスクリームを差し入れた日


時計の針を少し戻す。下町屋を続けながら多忙を極めていた浅羽さんは2009年、従業員に店を譲ってウィローの仕事に絞った。この頃、八智代さんと結婚。「いつか島に住みたい」という若い頃からの願いを実現するため、博多の姪浜からフェリーで10分の能古島に移住した。


筆者撮影
福岡市営の渡船「フラワーのこ」。全長31.2メートル、全幅10メートル、169トン。 - 筆者撮影
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姪浜から能古島に渡る。所用時間は10分程度だ - 筆者撮影

それから1年後、福岡県柳川市でフルーツ・野菜・米などを生産している杏里ファームの代表、椛島一晴さんとの仕事が始まる。


浅羽さんは「地方の商品にデザインを」というテーマで動いていた厚生労働省の雇用創出プロジェクト「九州ちくご元気計画」を通して、椛島さんと出会った。自社で育てたフルーツを使ったジェラートの売り上げが思うように伸びず、悩みながらも、「多額の資金を投じてデザインを変えれば本当に売れるの?」と疑問を抱いていた椛島さんのもとに派遣されたのが、浅羽さん。


浅羽さんはある日の打ち合わせで、サーティーワンのアイスクリームをお土産に持っていき、「みんなで食べましょう」と勧めた。自社のジェラートに絶対の自信を持ち、大手のアイスやジェラートを「おいしくない」と見下していた椛島さんは、それを食べて「……うまかね」と認めた。その様子を見て、浅羽さんはこう続けた。


「みんな、うまいもんを作ろうと思って作っているわけだから、どれも普通にうまいはずなんで、うまいだけじゃない部分が必要ですよね。そもそも俺はジェラート買わんしね、どこ行ってもあるし。やっぱり、もっと特徴あるものを作っていったらいいんじゃないですかね」


■友人の一言に、アンテナが反応した


他社のアイスクリームを差し入れ、面と向かって「ジェラートは買わない」という。同席していたら汗が噴き出しそうなやり取りだが、椛島さんと浅羽さんは意気投合。何度目かの打ち合わせの際、たまたま同行した友人がジェラートを食べながら言った一言「ガキの頃に食べとったのは近所の店の安っぽい味のアイスキャンデーばっかりやったはずやけど、やたらうまかったんよねえ」に、浅羽さんのアンテナが反応した。


「気になって調べてみたら、アイスキャンデーで有名なところが福岡に2カ所あったんだけど、飲食店が作っていて、その場でしか売れない商品でした。椛島さんのところはジェラートの製造免許があるから、たくさん作って卸すことができるんです。それでアイスキャンデーがいいんじゃないかと話をしたら、面白いね! と」


八智代さんは、ここに浅羽さんの強みを見出している。


「本当に知識欲が強いっていうか、これってどうなってるんやろっていうのをすごく調べるけん、その過程で、『ひょっとしたらこれ誰もやってねえんじゃね⁉』みたいな案が出てくるんですよ。すごい才能やなと思いますね」


■雑談から生まれた「ようかんアイスキャンデー」


浅羽さんと椛島さんは、戦略を練った。まずは、杏里ファームのアイスキャンデーが話題になるようにする。それを見た他社からOEMを受けて、売り上げを確保する。最初の一歩として、「思いっきりかわいくて、ウケがいいパッケージにしよう」と決まった。


ここからは、八智代さんが本領を発揮。「椛島さんやけんカバでよかろう」と最初に描いたカバのイラストが採用される。統一感を出すため、「椛島氷菓」というブランド名も考え出した。


筆者撮影
カバ印アイスキャンデー。「椛島さんやけんカバでよかろう」の一言でロゴが決まった - 筆者撮影

迎えた2011年2月、真冬の2月に「カバ印アイスキャンデー」の販売開始。仕上がりに手応えを感じていた浅羽さんは、誰も来ない店の前で不安そうにしている椛島さん夫妻に「心配せんでもそのうち絶対に売れますよ」と伝えていた。


椛島栄子さん(写真提供=浅羽雄一)

その予想は当たり、冒頭に記したように、今では年間80万本を売りながら、OEM(Original Equipment Manufacturer:製品の製造だけではなく、企画や設計までを他社メーカーに依頼する製造手法)の依頼も右肩上がりで、嬉しい悲鳴を上げている状態だという。杏里ファームの椛島さんの妻で、アイスキャンデー誕生の前後もよく知る椛島栄子さんは、浅羽さん、八智代さんとの出会いをこう振り返った。


「私、浅羽さん、八智代さんとのご縁が神様からのプレゼントだと思っているんですよ。小さなアイス屋さんがこんなことになって。皆さんがうちのアイスキャンデーをかわいいって言ってくれたり、たくさんの人に手に取ってもらえるようになったのも、カバさんのロゴのおかげです」


■提案だけでは終わらない


グッズ展開も始まり、2023年末からは柳川本店で「カバ印アイスキャンデー型消しゴム」の販売開始。もちろん、どんなグッズを作るかという企画段階から浅羽さんも参加している。


このインタビューの際、「デザインして終わりじゃなくて、コンサル的に経営相談も受けているんですね」と伝えると、「経営相談っていうか、みんなで一緒にこういうのやりたいねって話してるだけなんです」と照れ臭そうに笑った。


「テレビ局の密着取材が入って、椛島さんのところの打ち合わせに同行してもらった時も、いろいろ話して帰ろうとしたら、『打ち合わせはいつ始まるんですか?』と聞かれました」


明治32(1899)年創業の和菓子店、村岡総本舗の仕事も、社長の村岡安廣さんとの雑談から始まった。ふたりは、佐賀県の食品メーカーが名を連ねる特産品開発の会合で知り合った。


顔を合わせて何度目かの時、「アイスのなかに羊羹が入ってるやつとか作ったら面白いんじゃないですかね」となにげなくアイデアを出したら、「やりましょう」という展開に。


アイスといえば、椛島氷菓。浅羽さんが両社をつなぎ、2016年4月、村岡総本舗の羊羹をミルクアイスで包んだ「ようかんアイスキャンデー」が発売されると、浅羽さんも驚くほど「すっごく売れました」。


写真提供=浅羽雄一
椛島氷菓のアイスキャンデーと、村岡総本舗の羊羹のコラボが実現した - 写真提供=浅羽雄一

「それ以来、社長からときどき『お昼をご馳走します』と電話がかかってきて、ふたりで昼ご飯を食べながらなんだかんだ1時間ぐらい話して帰るっていうのがずっと続いていました。これってコンサルっていうより、お昼を食べる相手って感じですよね」


■「絶対売れる」の粘りから生まれた缶入り「シベリア」


ランチの間に、いろいろな話を聞く。そのうえで、浅羽さんは「この人と組んだら面白いかな」と感じた人を村岡総本舗に連れて行った。そのうちのひとりが、三越伊勢丹の敏腕バイヤーMさん。Mさんはかつて、あんこや羊羹をカステラで挟む和菓子「シベリア」を、虎屋と福砂屋のコラボで作って大ヒットさせた経験があった。


Mさんが「どこかのカステラ屋と組んで村岡総本舗でシベリアを作ることは可能ですか?」と尋ねると、村岡社長が「以前はカステラを作っていたので自社で焼けますよ」と答えた。


こうして2019年に生まれたのが、独特のシベリア。よく売られているのは、あんこか羊羹のどちらかをカステラでシンプルに挟んだものだが、村岡総本舗では自家製のあんこを羊羹とカステラの間に挟み5層構造にした。これをホールケーキのようなサイズにして、三越伊勢丹のお歳暮ギフトとして販売したところ1セット5000円の商品が完売した。


浅羽さんはそのシベリアを、自社店舗での販売用に小型化し、紙で包んで販売することを提案。この時も、八智代さんが「ロシア的な伝統工芸の刺繍の文様とかを調べて」最初にデザインしたクラシックな包装紙が採用された。これが販売されると、大きな反響を呼んだ。


写真提供=浅羽雄一
包み紙はもちろん八智代さんがデザインした。 - 写真提供=浅羽雄一

■出来高制だからできることがある


浅羽さんはそこでさらに、缶入りの商品を作ることを思い立つ。1つ500円のシベリアを缶に2つ入れて、1500円。社長は「それじゃ、誰も買わないでしょう」と呆れた。そこで「お客さんは缶も欲しいから、絶対に売れる」と粘り、最終的には「ウィローが缶を作り、村岡総本舗が必要な分を仕入れる」ことで合意に至る。


画像提供=浅羽雄一
缶入りのシベリアは大ヒット商品になった - 画像提供=浅羽雄一

2020年、缶入りのシベリア発売。最初に用意した3000個の缶は、1年もたたずになくなった。それから4年経った今でも、毎月1000個の缶が浅羽さんのもとから旅立っていく。


これも、先に挙げた「こどもびいる」と同じ出来高制。ちなみに、各地域のローカルサイダー、椛島氷菓とも同じような契約を結ぶ。浅羽さんは、「これほどいいやり方はない」という。


「僕らは、クライアントの意向を確認したうえで、いまなにが売れてるかとか人気だとか一切気にせず、自分たちが欲しいと思う商品を提案します。出来高制にしたら、共同経営みたいな感じになるから僕らも長く売れるようにしたいし、そのために口出しができるんですよね。例えば、そろそろデザインを変えた方がいいんじゃないのか、限定デザインを出したらいいんじゃないのかって提案がしやすい。それで売れれば結果的に僕らにも回ってくるから」


筆者撮影
出来高制だからできることがある。アイデアの提案だけで終わらせないのが浅羽さん流だ - 筆者撮影

出来高制にするのは、浅羽さんの心が動く案件で、なおかつ社長との信頼関係が前提。すべての案件をこの方式で請け負っているわけではないが、それでもリスクを負い、腹をくくってクライアントと同じ船に乗る浅羽さんのようなプランナーは、極めて稀な存在だろう。


■「俺が火をつけんかったら始まらんかったぜ」


常にクライアントに伴走してきた浅羽さんは、商品がいくら売れても、「自分の手柄だと思わない」という。ヒットの要因は企業努力、メディアの影響、SNSの口コミ、時の運など無数に挙げられる。


写真=伊藤敬生
「こどもびいる」の誕生から20年を記念して出した新聞広告。空にかざすと裏面が透けて見える。乾杯だ - 写真=伊藤敬生

浅羽さんの仕事はその前段階で、自分の仕事を「マッチ」に例える。バーベキューをやりたい人たちがいて、場所、素材は用意されている。でも、肝心なものが足りない。それは「火」だ。


「みんながマッチを忘れたって慌てている時に、僕だけがマッチを持っている感じ。バーベキューが盛り上がって成功した時に、俺が火をつけんかったら始まらんかったぜっていうのは言えるかな」


能古島の高台にある自宅からは、海が見える。浅羽さんは家族とともにしばしばその海を渡り、日本各地を旅している。


浅羽さんにとって、わかりあえる企業と組んでプランを練るのは、仲間たちと先の見えない旅をしているようなものなのかもしれない。彼が手にするマッチは火をつけるだけでなく、クライアントにとって暗闇の先を照らす灯りにもなっているはずだ。


今年1月、こどもびいる誕生20周年を記念し、友桝飲料がクラフトビールメーカーの伊勢角屋麦酒とコラボして、「おとなびいる」を限定販売した。


すでに完売したこの商品の陰にも、もちろん、浅羽さんと八智代さんがいる。


筆者撮影
こどもびいるの20周年を記念した「おとなびいる」 - 筆者撮影

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川内 イオ(かわうち・いお)
フリーライター
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、企画、イベントコーディネートなどを行う。2006年から10年までバルセロナ在住。世界に散らばる稀人に光を当て、多彩な生き方や働き方を世に広く伝えることで「誰もが個性きらめく稀人になれる社会」の実現を目指す。著書に『1キロ100万円の塩をつくる 常識を超えて「おいしい」を生み出す10人』(ポプラ新書)、『農業新時代 ネクストファーマーズの挑戦』(文春新書)などがある。
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(フリーライター 川内 イオ)

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