産総研の中国人研究者によるスパイ容疑、何があったのか

2023年6月18日(日)6時0分 JBpress

 6月15日、茨木県つくば市の「産業技術総合研究所」から、研究データを中国企業に漏洩したとして、警視庁公安部が中国籍の同研究所上級主任研究員、権恒道容疑者(59)を逮捕したという報道がありました。

 この出来事について、大手を含む報道メディアの「理系音痴」ぶりが全開しています。

 また、ネット上では陰謀説的なマンガも出回っているのを目にし、過不足ないきちんとした情報の交通整理が必要だと思います。

 以下、何があったのか、私たちは何に気を付ける必要があるのかなど、チェックしてみたいと思います。


どんな「情報漏洩」があったのか?

 報道に従うなら、「権容疑者」は2018年4月13日の午後4時頃、自身が研究開発に携わっていたフッ素化合物の合成技術に関する研究データを、産総研の電子メールアカウントから中国企業に送付し、「営業秘密」にあたる研究情報を漏洩したとされます。

 ちなみに権容疑者はフッ素化合物の研究者で、地球温暖化・地球環境変動を引き起こした犯人物質と考えられるフロンへの対策など、環境化学の分野で30年来研究を続けてきた専門家です。

 警察の取り調べに対して、権容疑者は「営業秘密にあたらない」と容疑を否認している様子が伝えられています。

 大手メディアを含む報道が、「この容疑者は2002年から日本の研究機関に入り込んでいた」的な表現、あるいは「フッ素化合物は半導体に関係し、軍事転用も可能な技術である可能性も・・・」的な煽り方をしているのは、科学リテラシーの低さ加減において、やや滑稽です。

 過不足なく、報道されている内容をチェックしてみましょう。

 まず、産業技術総合研究所(以下「産総研」)の「上級主任研究員」というポストについて、面白い報道が目立ちます。

「研究の取りまとめ役か」(テレビ東京)とか「逮捕中国人が研究の中心」(東京新聞)といったユーモラスな表現が並び、思わず苦笑してしまいました。

 なぜこういうことになるかというと、日本のマスコミ記者は新人時代から「お前の考えなど書かなくてよい、すべてぶら下がりで発表された内容を取ってこい」と教えられるからでしょう。

「捜査関係者」つまり警察で、科学も技術も何もわからないサイエンスリテラシー水準で語られる内容をさらに伝聞で書くから「まとめ役か?」などという面白い表現になるのでしょう。

 産総研のホームページを見てみると、権容疑者がトップを務めていた触媒化学融合研究センター、革新的酸化チ—ムのホームページは、現在閲覧できなくなっています。

 しかし、触媒化学融合研究センターのページは閲覧可能です。

 このセンターが2013年に設立されたこと、元来は8つのチームからなっていたらしく「ケイ素化学チーム」「官能基変換チーム」「ヘテロ原子科学チーム」「触媒固定化設計チーム」「固体触媒チーム」「フロー化学チーム」「デジタル駆動化学チーム」の7チームについては、活動状況を確認できます。

 1つのチームにはチーム長の「上級主任研究員」のほか「主任研究員」が3人程度在籍し、独立した研究を進めているので、これは大学で言えば「教授」に相当します。

 これに加えて研究員(助教授)、テクニカルスタッフ(技官)、リサーチアシスタント(助手)、などが6〜7人、派遣研究員が総勢20〜30という所帯らしい。

 昔の大学でいうところの「大講座制」の1講座より規模が大きく、いってみれば「一つの教室」の主任教授といった役割が、「権容疑者」のポジションでもある「上級主任研究員」ということになります。

 例えば東京大学*学部****大講座・教室の「主任教授」ないし「教室主任」という役割は、単なる研究の「取りまとめ役」でもなければ、研究最前線の「中心」であるとも限らない。

 最も正確な表現は「総責任者」「トップの教授」というのが適切と思います。

 公安警察は、意図してか意図せずか知りませんが、そういう表現は取っていない。「中国人の容疑者が、研究所に入り込んでいた」的なニュアンスで伝えられています。

 この人は普通に勤続20年以上、当該分野の責任ある立場でラボラトリーグループを率いているシニア・リサーチャー、当該部門の責任教授というのが、過不足ないところと思います。

 そして、彼がトップを務める「革新的酸化チーム」は十分アクティブに研究成果を出しており、チームに所属する洪達超研究員が国際学会でポスター賞をとった、などという情報はまだアクセスが可能です。

 それは当然でしょう。まともな研究成果を挙げているのであれば、告知を取り下げる必要はありません。

 ポスターセッションの賞ですから、それほど大変なものではないけれど、地道に結果を上げていることが分かる一面と思います。

 ちなみに、名前から察するに、洪研究員も中国人である可能性があります。つまり産総研の当該チームでは、トップ以下、中国人研究者が何人も在籍し、日本の研究所の成果として、中国人科学者が業績を上げていたことが分かります。

 こうした話は、いま流れている報道からは、およそうかがい知ることができません。


権容疑者の行動の何が問題なのか?

 英語の研究者サイトの情報からは、権容疑者が中国の南京理工大学で学位を取得した、キャリア30年級のフッ素化合物専門研究者であることが分かります。

「権容疑者」の産総研での研究歴をチェックしてみると、やはり産総研関係ではホームページにアクセスできなくなっていたりしましたが、日本語でも権限の外にあるサイトではチェックが可能になっています。

 例えば、古い情報しかありませんが、2001年から2006年までのリサーチマップで見てみても、彼が筆頭筆者である論文として、「表面積の大きな多孔質フッ化クロム触媒の合成」(筆者訳)

Synthesis of a porous chromium fluoride catalyst with a large surface area

HD Quan, HE Yang, M Tamura, A Sekiya

JOURNAL OF CATALYSIS 231(1) 254-257 2005年4月

 など、ごく当たり前の業績が並んでおり、普通に研究員として入所、21年の勤続中に助教授級、教授級、教室主任級とポジションを上げていったらしいことが分かります。

 ではなぜいま、そのような普通の研究者と見える「権容疑者」がスパイ容疑で、よりによって公安当局に逮捕され、全国ネットでその事実が報道されているのか?

 報道から分かるのは「2018年4月13日午後4時頃」、産総研の公式な電子メールアカウントから、中国側の企業に何らかのデータを含むメールが送付された事実があったという点です。

 これがどう、問題なのか考えてみましょう。

 研究室では様々な実験や測定、シミュレーションが行われ、その結果の一部は論文として世界公開されます。

 しかし、公開されないデータや結果もあります。この中で、日本で特に問題になるのは「特許」に関わる案件です。

 特許を申請しようとすれば、審査期間中に発明の内容が公知すると、特許の意味がなくなりますので、厳密に守秘を徹底しなければなりません。

 企業であれば、こうしたことには様々な防御網が張られていますが、日本の国研や国立大学は、そうしたことに予算を使ってくれませんので、およそ研究成果のセキュリティは高く守られていません。

「権容疑者」がどのような研究データをどのような「中国企業」に送ったのか、実際のところは分かりませんが、「地球温暖化対策」の「環境化学」専門チームですから、少なくとも直接兵器製造などに直結する軍事技術ではなさそうに思います。

 論文として公刊されていないデータであれば、すべて可能性としては「特許取得」「知財確保」などの対象になり得ますから「営業秘密」にあたると考えることは可能です。

 また、研究者が、大したことのないデータで論文などには載せていないけれど、企業との打ち合わせに実験結果などを添付するという可能性も、知財管理のゆるい日本ですから、考えられないわけではないでしょう。

 いずれにしても、間違いなく言えることは、この「権容疑者」が「産総研の電子メールアカウント」から送付しているという点です。

 もしこれがスパイであれば、あまりにも間抜けで、お話になりません。

 実際、今回のケースが明らかになったのは、産総研のメールサーバをアーカイブ的にスキャンして、所内の研究情報が外国企業などに送付された例がないかを調べて引っかかった可能性が高いように思われます。

 事実として、そのようなことがあれば、それは立件可能であるし、率直に大学人として言わせてもらえば、そのようなラボの未公刊情報をみだりに学外に持ち出すようなことは「とんでもない」ことです。

 ただ、ことの重大性が明らかでない中、このような報道が全国的に大々的になされることには、別の思惑も感じないわけにはいかず、リスクを懸念します。

 2019年の11月だったと思いますが、自称「東京大学最年少准教授」を名乗る者(これは出版社がキャッチフレーズとしてつけたらしいもので、全く事実ではないのですが)が「特定外国からの留学生はすべて産業スパイ」という意味合いの発言をツイッターなどのネット上、あるいはマスメディア上で不特定多数に発信し、翌年1月15日付で懲戒免職となった事件がありました。

 大変不名誉なことですが、この「自称最年少准教授」が所属していた部署は、私自身が創設に関わった「大学院情報学環」の寄付講座だったので、この事後処理はそれはそれは大変だったわけです。

「大学は自由、公平な知の府として、いかなるヘイトや差別とも一線以上を画する」として、アカデミアの中立性確保に時間と労力を割かざるを得なかった一大学人としては、見るからに「ゼノフォビア」、外国人研究者への偏見や警戒心を増長させうる、こうしたメディアの取り上げ方には、大いに注意せざるを得ません。

 公安当局は、容疑者の「情報漏洩」に対して、中国企業側からどのような「見返り」があったのか、なかったのか、などを中心に捜査を進める、とのことですが、世論全体は深い話以前に「スパイが日本の技術を漏洩」という印象だけを記憶に留める懸念があります。

 高等研究機関の中立性、公正性の観点から、倫理的な対処が必要不可欠な局面であることを、我が国では数少ないAI倫理の研究室主催者として明記し、推移を見守りたいと思います。

筆者:伊東 乾

JBpress

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