“組織と個人”の狭間で「東海テレビのドキュメンタリー」ブランドはどう作られたのか――重松清×阿武野勝彦<前編>

2024年2月3日(土)7時0分 マイナビニュース

●“東海テレビ的なもの”という考えはない
指定暴力団に密着した『ヤクザと憲法』、ミニシアターで異例の観客動員28万人超を記録した『人生フルーツ』、自局の報道部にカメラを向けた『さよならテレビ』など、社会的に高く評価され、大きな話題を呼んだドキュメンタリー作品を制作してきた東海テレビの阿武野勝彦プロデューサーが、1月末で同局を退社した。局員として最後のプロデュース映画『その鼓動に耳をあてよ』が、東京・ポレポレ東中野ほか全国で順次公開され、退社後の2月10日(14:15〜 ※東海ローカル)に最後のテレビ作品『いもうとの時間 名張毒ぶどう酒事件 裁判の記録』が、仲代達矢のナレーションで放送される。
東海エリアで放送を終えたテレビ番組に映画という形で再び命を吹き込み、全国の人たちに作品を届ける「東海テレビドキュメンタリー劇場」は第15弾となるが、この取り組みに熱い視線を送り続け、「ここまで来たんだね」と感慨を述べるのは、作家の重松清氏。そんな同氏が、新たなスタートを切った阿武野氏に、東海テレビドキュメンタリーの真髄やテレビの現状と今後、そして今後の活動まで、様々なテーマで切り込んだ——。(第1回/全2回)
○経営トップとの考え方の相違で…
重松:『その鼓動に耳をあてよ』は、東海テレビの人間として最後の映画作品になると意識して企画したのですか?
阿武野:それは全く考えていなかったんです。20作品ぐらいまで公開して、海外展開も考えていました。これまでの作品は半分以上が英語化されているので、全部英語化して世界に出して、日本のドキュメンタリーの面白さが逆輸入されてスポットライトが当たるという構図です。そのためにもう少しやれるかなと思ったんですけど、東海テレビの経営トップと私の考え方がずいぶん違ってたんで(笑)、(樹木)希林さん(※)も「時が来たら、誇りをもって脇にどけ」とおっしゃっていましたし、誇りをもって仕事ができないなら、これは脇にどくタイミングなんだと思って、辞めることにしました。
(※)…樹木希林さんは、東海テレビのドキュメンタリーに数多く携わってきた。映画では『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』『神宮希林』に出演、『人生フルーツ』でナレーションを担当している。
重松:なるほど。サラリーマンとしての晩年にあたるこの数年間、新型コロナによって、やろうと思っていたことができなかったりしたことはありましたか?
阿武野:ほとんどなかったですね。ただ1つだけ、演劇をずっと名古屋でやってきた老夫婦の晩年を描こうと思って、当初は家の中にも入っていたんですけども、コロナ禍に老夫婦のところへスタッフが出入りすることにご家族の懸念もあって、それができなくなったんです。そのうちに主人公が亡くなってしまいました。いくつかニュース企画にして放送はしましたが、番組化はできませんでした。
重松:あと数年の時間があれば、新型コロナの感染者に対する差別や偏見といったところも含めて、総括して描けるということも視野に入っていましたか?
阿武野:それは考えてなかったですね。コロナを描くということでは『その鼓動に耳をあてよ』がそのものです。これからも名古屋掖済会(えきさいかい)病院との付き合いが深まっていくと思うので、その途上で出てくる題材なのかなと思いますね。
重松:これまでの「東海テレビドキュメンタリー劇場」の作品を観てきて、一貫しているものがいっぱいあると思うんです。その1つの大きな主題が、「司法シリーズ」が分かりやすいですが、“公”であるものと“私”であるもののぶつかり合いではないかと。一方で、テレビ局は組織でありながら公じゃない、私性を持ちながらフリーでもないですよね。そんな“私以上、公未満”の媒体がドキュメンタリーを作るということの意味を、どのように捉えていましたか?
阿武野:やっぱり自分の中では最後の最後まで会社員でしたので、“組織と個人”という問題があり続けたんだと思います。組織人ではあるけれど表現者ですから、その組織を超えて外から見て“これはいかんよ”というものは描こうとする。しかし、組織の中にどっぷり浸かっている人間からしてみると、裏切り者という視線で見られる。それが『さよならテレビ』が内包している組織と個人の問題だと思います。
 組織の中で、「自分は何なのか」「私たちはどう働いていけばいいのか」という問いに対して、ディレクター、カメラマン、編集マンみんな違う考え方を持っていると思うんですけども、やっぱり報道マンという社会的存在であることは間違いない。この社会を少しでも生きやすい世の中にするために、何かメッセージを出していく必要があるし、そういう存在でありたいのですが、組織にとっては面倒くさい存在になっちゃうっていうことがあるんですよね。
○ドキュメンタリーにおけるプロデューサーの役割
重松:阿武野さんはアナウンサーとして入社され、ディレクターや営業もやられて、最終的にプロデューサーという立場になりました。ドキュメンタリーにおいては、自分がカメラを回すディレクターのほうが撮りたいものが撮れて、隔靴掻痒(かっかそうよう)にならずに済むとも思えるのですが、プロデューサーの立ち位置というのはどのように意識されていたのですか?
阿武野:もともと僕がディレクターの時代は、プロデューサーがいなかったんです。プロデューサーの不在によるやりやすさは確かにあったのですが、テレビを取り巻く時代は大きく変わりました。会社の中の縦割りもあるし、外の人たちの個の意識も変わってきて、取材者に対して「なんでそんな扱い方したんだ」というようなクレームも増えてきたので、煩雑なものをなるべく少なくする役割として、プロデューサーが必要だと思います。
重松:食い止めるという感じですか。
阿武野:そうですね。どうやって作りやすい環境を整えてやれるかというところから、プロデューサーの仕事が始まるんだと思います。まず、長い時間をかけて自由に取材できるという環境を確保するために、プロデューサーが立つ。その後は、画を観る力のあるディレクターだったらそこに口を出さなくていいですし、ナレーションが上手なディレクターならば僕が書く必要もない。組んだスタッフによって足りないところを補い合う中で、自分の形を変えていく。それはプロデューサーだけじゃなくて、ディレクターにもカメラマンにも編集マンにもタイムキーパーにも、それぞれのスタッフワークの中で「自分の形を変えていこうよ」と呼びかけながらやってきた仕事なので、ある時は半分ディレクターみたいなことやったり、ある時はものすごく働かないプロデューサーだったりするような立ち回りをしていました。
重松:伏原(健之)さん(『神宮希林』『人生フルーツ』)、齊藤(潤一)さん(『平成ジレンマ』『死刑弁護人』『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』『眠る村』『おかえり ただいま』)、土方(宏史)さん(『ホームレス理事長 退学球児再生計画』『ヤクザと憲法』『さよならテレビ』)といったディレクターの皆さんの作品にはそれぞれの属人的なものがあるけど、それをまとめて“東海テレビのドキュメンタリー”という一つのブランドが出来上がったのは、やっぱり阿武野さんの存在が大きいと思うんです。例えるなら、原酒を集めて調合するブレンデッドウイスキーのブレンダーみたいに、この15本の作品群を作っていったんじゃないかと思うのですが、いかがですか?
阿武野:ものすごくうれしいお言葉なんですけど、作ってみた結果こうなったというのを繰り返しただけで、自分の色に染めようとか、“東海テレビ的なものを作ろう”とかは全くなくて、“東海テレビ的なものは何だろう”ということすら考えたことはないんです。作品づくりを重ねていくうちに、ディレクターもカメラマンも編集マンも一本一本番組を創ることで、磨かれていく。それを伴走者のように横で見ているというのを繰り返しているうちに、劇場公開が15本まで来たという感覚です。
●ドキュメンタリーを作れば、異動が凍結される
重松:テレビ局の社員となると、人事異動もあるじゃないですか。そうすると、継続的に作っていくという難しさもありますよね。
阿武野:難しいですね。鈴木(祐司、東海テレビプロダクション所属)くんの場合は、異動させようという動きがありました。それで、「何か企画を出して取材にかかりなさい」と勧めたんです。それが『チョコレートな人々』になりました。ドキュメンタリーをやれば、その途中では異動させないという会社なので、異動したくないタイミングのスタッフには、ドキュメンタリーをやりなさいと(笑)
重松:それをやってる間は人事が凍結されるんですね(笑)
阿武野:そこが東海テレビのいいところかもしれないですね。それでも異動させようとしたら、「社会的な仕事しているんです」「取材対象の人たちをそのまま置き去りにして地域で信頼されると思うのですか?」とやり取りすれば、必ず分かってくれるので、制作現場の最後の一線を守ってくれていると思います。
重松:その一方で、定年というのもあるじゃないですか。それでも、名張毒ぶどう酒事件や四日市公害(『青空どろぼう』)、長良川河口堰(『長良川ド根性』)といった題材について、アーカイブ素材やそれを追っていく精神的なものも含めて、現役が引き継いで取り組んでいけるのは、組織でやっている強みの一つだと思うんです。
阿武野:でも、当初は先輩が取材に行っていたところは入りづらいという意識がありましたね。
重松:逆にそうだったんですか。
阿武野:はい。“これはあの人の題材だから”ということで、そのディレクター一代で終わっていくという傾向があったのですが、これまで蓄積されている映像は、間違いなくこの会社の財産なので、それをどういうふうに解釈していくかを後輩である私たちに託されたんだと思ったんですね。そこで、映像倉庫の中に眠る先輩たちの血と汗と涙の記録である素材を見直して、もう一度現場に入り直して、いまこの時代に新たな形で問いたいエポックメイキングな表現になる可能性があると思って、いくつかトライしてみました。
重松:これは本当に、東海テレビのドキュメンタリーの歴史の積み重ねですよ。関西のテレビ局で阪神・淡路大震災の特番に出演したときに、スタッフの方が「これは1995年から局の財産としてやっていくんです」と言ってたんです。僕のようなフリーの人間のように「本人が死んだら終わり」というのもいいんだけど、残していくことができる組織というのも、悪いもんじゃないなと感じますね。
○着地がピタッと止まらなくてもいい
重松:僕はフィクションを書いている人間なのですが、小説はどこで終わるかというのを自分で決められるんですよ。しかし、ドキュメンタリーにとって、取材をどこで終えるかというのは、決められないものですよね。こういう場合、「もうここで取材を終えよう」と決めるのは、ディレクターとプロデューサー、どちらになるのですか?
阿武野:プロデューサーの仕事でしょうね。ディレクターはいつまでも追いかけ続けたいですから。
重松:そうすると、取材を止める判断のその物差しみたいなものは、あるのですか?
阿武野:スタッフを見ていると、「そろそろ…」っていう空気が漂ってくるので、「作ってみる?」と聞くと、「そうですね」と返ってくるんです。そこで取材は全部終わりだと言わないし、その後もまた取材を続ければいいので、ある意味では、みんな途中経過だと思って制作しているんだと思います。それでも、体操でいうと、最後はピタッと着地したいじゃないですか。でもピタッと決まらなくて、一歩出ちゃってもカッコいいと思って。
重松:一歩はみ出たのが、次の跳馬のための助走になる可能性もありますからね。
阿武野:その通りですね。「もうちょっと、もうちょっと」ってずっと着地しないスタッフはそういないです。だから、僕に声をかけられて「そろそろ番組にするのを考えなきゃいけないタイミングに来たんだな」と思うと、撮れているものと、撮れていないものを頭の中でガチャガチャっとイメージして、みんな着地を考えてくれるんだと思います。
重松:例えば、「もう1日待ったらすごい展開が待っているかもしれない」とか、逆に「今まで描いてきた人物像が崩れるようなものが出てきちゃった」ということもあると思うんですよ。そういうときは、ドキュメンタリーの人はどのように考えるのですか?
阿武野:ケースバイケースですね。「これはどうしても入れたい」っていうディレクターの気持ちはやっぱり尊重しますし、「これがあったら崩れちゃう」と悩んでいたら、「一度入れてみようよ。それが良ければそれをそのまま出せばいいし、今回はないほうがいいと思ったら、その素材は使わなくてもいい」という感じです。生きている人たちを撮らせてもらっているので、私たちのカメラがない状態で、取材対象の人生の物語は続いているわけですから、「今撮れているこの素材を絶対使わなきゃ」とか「使ってはいけない」というものは、一つもないような気がしますね。
●テレビ版と映画版で全然イメージの違う作品に
重松:出版の世界では、単行本を刊行してだいたい3年後に「文庫化」というものがあるんですよ。そこで、文庫版のためのエピローグとか、あとがきとか、補遺といったものを出せるんですけど、東海テレビのドキュメンタリーでもテレビ版と映画版の間にタイムラグがあるじゃないですか。そこでプラスアルファするものなんですか?
阿武野:最初はテレビの予算で映画にする「0円映画化」ということだったので、限りなくテレビの形に近いものでしたが、だんだん制作者の欲が出始めて、せっかく映画にするならより良くしたいと、今では映画版としてもう1回作り直すということになっています。だから、テレビで放送した後に起こったことを入れたり、テレビでは使わなかった素材を復活させたりということは、よくあります。そうすることで、テレビ版と映画版が全然イメージの違う作品になっていることもあります。
 『その鼓動に耳をあてよ』でいうと、北川(喜己・救命救急)センター長は、テレビ版では映り込むだけの存在でした。北川センター長を主人公に、コロナ真っただ中のERを取材するという構図だったにもかかわらず、です。
重松:そうだったんですか!
阿武野:素材では、センター長に密着に近い状態があったようです。だけど、私に見せる第一稿では一切その映像がありませんでした。テレビ版はそのまま2回放送したんですけど、その間に僕が村田(敦崇)カメラマンと一緒に、北川センター長と何回か会うことになって、そこで話をしているうちに、「このERの医師が置かれている現状をきちんと出せて、超高齢社会で重要度が増すERの脆弱な社会を撃つことができる存在なんだ」と気づき、土方プロデューサーと足立(拓朗)監督と相談して、映画版で北川センター長のお出ましとなりました。
 それと、テレビ版にあったナレーションを、映画版ではすべてなくしています。土方プロデューサーは、ナレーションのない作品が好きなので、「ナレーションなしにしよう」と言うと、急に火がついたように140%くらい仕事に燃えますから(笑)。そうやって、映画『その鼓動に耳をあてよ』ができていったんです。
重松:ドキュメンタリーを作るにあたって、「人」と「テーマ」というのを考えたときに、やはり最初は「テーマ」のほうを強く意識するものなのですか?
阿武野:それもディレクターによって違いますね。『その鼓動に耳をあてよ』ですと、土方も、北川センター長に強いシンパシーを感じていて、頭の中では彼の物語を作りたいとなったはずなんですよ。ところが、そこに反作用が起きて、シンパシーを持ってしまった自分の意識を消さなきゃと思った瞬間に、北川センター長の存在をなくして、テレビ版はERの群像劇になったんだと思います。そこから、映画化でもう1回見直すということになって。一度捨てたものを、どう拾っていくかと揺らめきながら作品の中にシンパシーも投影していくという塩梅だったと思います。そういう揺らめきの中に、「人」と「テーマ」がにじみ出してくれるような気がしますね。
●重松清1963年、岡山県生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、出版社勤務を経て執筆活動に入る。91年『ビフォア・ラン』でデビュー。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、同年『エイジ』で山本周五郎賞を受賞。01年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞した。現代の家族を描くことを大きなテーマとし、話題作を次々に発表。著書は他に、『流星ワゴン』『疾走』『その日のまえに』『きみの友だち』『カシオペアの丘で』『青い鳥』『くちぶえ番長』『せんせい。』『とんび』『ステップ』『かあちゃん』『ポニーテール』『また次の春へ』『赤ヘル1975』『一人っ子同盟』『どんまい』『木曜日の子ども』『ひこばえ』『ハレルヤ!』『おくることば』など。多数。16年から早稲田大学文化構想学部で教鞭を執っている。
●阿武野勝彦1959年生まれ。静岡県出身。同志社大学文学部卒業後、81年東海テレビ放送に入社。アナウンサーを経てドキュメンタリー制作。ディレクター作品に『村と戦争』(95年・放送文化基金賞)、『約束〜日本一のダムが奪うもの〜』(07年・地方の時代映像祭グランプリ)など。プロデュース作品に『とうちゃんはエジソン』(03年・ギャラクシー大賞)、『裁判長のお弁当』(07年・同大賞)、『光と影〜光市母子殺害事件 弁護団の300日〜』(08年・日本民間放送連盟賞最優秀賞)など。劇場公開作は『平成ジレンマ』(10年)、『死刑弁護人』(12年)、『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(12年)、『ホームレス理事長 退学球児再生計画』(13年)、『神宮希林』(14年)、『ヤクザと憲法』(15年)、『人生フルーツ』(16年)、『眠る村』(18年)、『さよならテレビ』(19年)、『おかえり ただいま』(20年)、『チョコレートな人々』(23年)、『その鼓動に耳をあてよ』(24年)でプロデューサー、『青空どろぼう』(10年)、『長良川ド根性』(12年)で共同監督。個人賞に日本記者クラブ賞(09年)、芸術選奨文部科学大臣賞(12年)、放送文化基金賞(16年)など、「東海テレビドキュメンタリー劇場」として菊池寛賞(18年)を受賞。著書に『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』(21年)。24年1月末で東海テレビを退社した。

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