最愛の人を失った『ブギウギ』モデル・笠置シヅ子が引退撤回、再びステージへ!曲想が湧いた服部良一は喫茶店のナフキンに…戦後復興の象徴「東京ブギウギ」誕生秘話

2024年2月9日(金)6時30分 婦人公論.jp


『東京ブギウギ』が生まれたキッカケとはーー(写真提供:Photo AC)

NHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんいわく「シヅ子のために、戦前、戦中と音楽面で彼女を支えてきた服部良一が作ったのが『東京ブギウギ』だった」そうで——。

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東京ブギウギ


1947(昭和22)年12月30日、正月映画として鳴物入りで封切られた『春の饗宴』(東宝・山本嘉次郎)は、帝国劇場をモデルにした戦前からの劇場を舞台にした一夜の物語。

ここで笠置シヅ子演じる大阪のレビューの人気スターが「センチメンタル・ダイナ」を唄い、満場の歓声を浴びる。

客席からの「東京ブギ!」のリクエストの声に応じて「『東京ブギ』でございますか? まぁ、皆さま余程お好きなんですのね、じゃぁ、やりましょう!」とオーケストラボックスの指揮者を促す。

それまでドレスを着ていた笠置は、カジュアルなワンピースに着替えて、ステージに再登場して「東京ブギウギ」を唄い出す。

レコード発売は、翌1948(昭和23)年1月だが、映画のなかの観客たちは、みんなこの曲を知っているのだ。

日劇ダンシングチームを率いて、舞台せましと縦横無尽に歌い踊るシヅ子のパフォーマンスに圧倒される。

シヅ子は再びステージに立った


映像は雄弁、まさに映画はタイムマシンである。

その全盛時代を知らない「遅れてきた世代」にも、そのパワー、圧倒的なエネルギーが、時代の熱気とともに、ダイレクトに伝わってくるのだ。


『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(著:佐藤利明/興陽館)

このとき、シヅ子は33歳。

最愛の恋人・吉本穎右と結婚してステージからの引退を決意していた。

ところが、かねてから結核療養中だった穎右が23歳の若さで、この年の5月に病没、失意のなかで6月1日に長女・ヱイ子を出産、シングルマザーとなる。

シヅ子は生きていくために、再びステージに立った。

そのシヅ子のために、戦前、戦中と音楽面で彼女を支えてきた服部良一が作ったのが「東京ブギウギ」だった。

服部は、笠置の再スタートを応援するべく、リズミカルなブギウギのスタイルで明るい調子の曲を作ろうと作曲。

それが「東京ブギウギ」である。

「東京ブギウギ」誕生まで


戦時中の1942(昭和17)年、服部は「ブギウギ・ビューグル・ボーイ」に出会い、戦争が終わったらこのリズムを活かしてブギウギ・ソングを作ろうと考えていた。

霧島昇の「胸の振子」のレコーディングの帰途、終電近くの中央線で吉祥寺に帰宅する途中、レールを刻む電車の振動に揺れる吊り革のアフタービート的な揺れに、八拍のリズムを感じて曲想が湧き、西荻窪で下車。駅前の喫茶店でナフキンに音符を書きとめ「東京ブギウギ」と命名した。

作詞の鈴木勝は、海外に禅を広めたことで知られる仏教学者・文学博士の鈴木大拙の養子で、親がスコットランド人と日本人という説もあり、戦前にジャパンタイムズ、戦時中は同盟通信社の特派員として上海で勤務していた。鈴木アラン勝の通称で、進駐軍の将校たちとも交流があった。

1947年9月10日、「東京ブギウギ」のレコーディングが、東京・内幸町の東洋拓殖ビルにあったコロムビアのスタジオで行われた。

当日は、鈴木勝の声がけで、隣のビルにあった米軍クラブから下士官たちが押しかけてきた。スタッフは戸惑ったが、服部は「かえってムードが盛り上がるかも知れない」とレコーディングを断行。


1947年9月10日、「東京ブギウギ」のレコーディングが、東京・内幸町の東洋拓殖ビルにあったコロムビアのスタジオで行われた(写真提供:Photo AC)

シヅ子のパンチのある歌声、ビートの効いたコロムビア・オーケストラ。全身でそのサウンドにスウィングしているGIたち。OKのランプがつくと、GIたちが真っ先に歓声を上げたと、服部は自伝「ぼくの音楽人生」(93年・日本文芸社)で回想している。

こうして「東京ブギウギ」が誕生した。

ブギの女王誕生す!


リリースは翌年の1月に予定された。

その前に11月には前年の「舞台は廻る」の挿入歌「コペカチータ」と新曲「セコハン娘」がリリースされることになっていた。

ほどなく9月、大阪梅田劇場の舞台で初披露され、10月には、杉浦幸雄、近藤日出造、横山隆一たち漫画家のグループ「漫画集団」の企画による東京有楽町・日劇の「踊る漫画祭・浦島再び龍宮に行く」五景(作・演出・山本紫朗)で歌って注目を集めた。

そしてレコード発売に合わせて、東宝の正月映画『春の饗宴』で主題歌としてフィーチャーされることになった。もちろんその間に、ラジオでも「東京ブギウギ」は流れて、巷で唄われるようになっていた。

それがあっての『春の饗宴』での「皆さま、余程お好きなんですね」だったのである。

この「東京ブギウギ」の大ヒットで笠置シヅ子は「ブギの女王」となる。

太平洋戦争直前、内務省による敵性音楽への締め付けが厳しくなり、ジャズ歌手として活躍していたシヅ子も「ジャズはけしからん」との理由で、警視庁から呼び出された。

戦意高揚の時局にふさわしくないと、ステージではマイクの前で「三尺四方はみ出してはならない」と指導を受けたほどだった。

それから8年、「三尺四方」の制約から解放されて、舞台の端から端まで、身体を揺らせてジグザグに動き、踊りながら「東京ブギウギ」を満面の笑みで唄う笠置シヅ子は、戦後ニッポンの復興のエネルギーの象徴となった。

長くつらい戦争、数々の制約と、幾つもの悲しみに耐えて、生き抜いてきた日本の庶民たちが、敗戦のショックから立ちあがろうとする活力の源が「東京ブギウギ」であり、稀有な才能を持つエンタテイナー、笠置シヅ子の「底抜けの明るさ」と、身体と声からみなぎる「爆発的なエネルギー」だったのである。

※本稿は、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)の一部を再編集したものです。

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