加藤雅也「父にモデルになると伝えたとき、反対されると思いきや…思わぬ反応に自分を恥じた。パリコレに出て俳優の道を決意」
2024年2月28日(水)12時30分 婦人公論.jp
「運が悪いとか出会いがないと思っている人は、自ら動くのはもちろん、その際にちょっと行動範囲を変えてみることをおすすめします」(写真撮影◎本社 奥西義和)
『メンズノンノ』創刊号のファッションモデルを務め、後に俳優として単身渡米し、国内外問わず活躍する俳優・加藤雅也さん。2024年3月には、神津恭介シリーズの舞台『わが一高時代の犯罪』に出演します。60歳を迎えられた今も、舞台から映像作品まで幅広い活動を続ける加藤さんに、これまでの道のりや、今後の活動への意気込みについて伺いました。(構成◎上田恵子 写真撮影◎本社 奥西義和)
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人生を変えるきっかけは雑誌『シティロード』
取材の際に、「加藤さんの転機はいつでしたか?」と聞かれることがあります。でも、人生で起こることはすべて繋がっているため、「このときです」とピンポイントで絞るのが難しいんですね。どれも「この出会いがなかったら、次のあの出会いもなかったな」ということばかりなので。
そんななか、しいて人生を変えるきっかけとなった出来事を挙げるとしたら、大学時代のある出会いでしょうか。
僕はもともと奈良県の出身で、高校卒業後に横浜国立大学に進学。教育学部で教員免許を取得しながら、バイオメカニクスの勉強をしていました。大学2年の夏休み、映画でも観ようと近所の本屋にいつも読んでいる情報誌の『ぴあ』を買いに行ったところ、残念ながら売り切れで。そこで僕はライバル誌の『シティロード』を買って帰宅したのですが、これが後に僕の運命を大きく変えることになるのです。
『シティロード』には読者投稿欄があり、趣味のメンバー募集が掲載されていました。そこに出ていた映画サークルの活動場所が自宅から近かったのでなんとなく行ってみたところ、無名塾を目指していたという俳優志望の代表者が勉強会などをやっていて。映画好きだった僕は、2〜3回ですがそのサークルに顔を出していたのです。
「加藤くん、モデルやってみない?」
大学3年になったある日、大学の掲示板の前を通りかかると、僕宛の貼り紙が目に留まりました。見ると「教育学部で陸上部に所属している加藤昌也(本名)さん、連絡をください。倉谷宣緒(よしお)」と書いてある。倉谷さんというのは件の映画サークルの代表者です。電話を持っていなかった僕と連絡を取る手段がなかったため、大学の掲示板を利用したようでした。僕も普段は掲示板なんか見ないで通り過ぎるのに、この日はたまたま気づいたのです。
「何の用だろう?」と不思議に思いつつ、そこに書いてあった番号に電話をしてみると「俺、モデル事務所のマネージャーに転職したんだよ。加藤くん、モデルやってみない?」と言われて。たぶん新人マネージャーとしてのノルマがあって、誰かいないかなと考えた時に映画サークルで会った僕を思い出したのでしょう。
それを機に僕はモデル事務所に籍を置くことになるのですが、いま振り返ってもあれは実に不思議な縁でした。あの日、本屋に『ぴあ』が売っていたら、そして掲示板を見なかったら、僕はこの世界には入っていなかったので。人生って、人の運命って、本当に面白いですね。
ちなみに倉谷さんは、後に俳優の大沢たかおさんをスカウトした方で、現在は制作会社の代表。僕とは今も親交があります。
帽子を片手に海辺で佇む、1980年代の加藤さん(写真提供◎加藤さん)
父の器の大きさを知ったバスの車中
大学では教職課程をとってはいたものの、なんとなく自分には教師の世界は向いていない気がしていました。なので倉谷さんとの出会いがなかったとしても、教師になっていたかどうかはわかりません。反対にモデル業は面白く、『メンズノンノ』の創刊号のモデルに採用されるなど、頑張ったら頑張っただけ結果が出ました。僕としては、できれば大学卒業後もモデルの仕事を続けたいと考えていました。
それにはまず、父を説得しなくてはいけません。うちの父はごく普通のサラリーマンで、芸能の世界とは縁のない人です。奈良から仕送りして僕を大学に通わせてくれました。そんな父がモデルという、海のものとも山のものともつかない仕事を許すはずがないと思っていました。
そこで僕が考えたのが、この話を実家ではなく、バスに乗っている時に切り出すことでした。周囲に人がいる状況なら、父も僕を怒れないだろうと思ったのです。
バスの中で、恐る恐る話を切り出した僕に対する父の言葉はこうでした。「やりたいことがあるならいいじゃないか。好きなようにやればいい。問題にぶつかったら今まで勉強したことを使って判断すればいい」
父は、生まれてすぐの0歳の時に両親を亡くしています。ずっと苦労してきた人なので、自分の息子には安定した道を望んでいるだろうと勝手に思い込んでいたのです。それがそんなふうに言ってくれるなんて……。父の器の大きさを知るとともに、「自分は人間が小さいなあ」と大いに自分を恥じました。
「人生って、人の運命って、本当に面白いですね」(写真撮影◎本社 奥西義和)
運とは、自ら動くことでつかむもの
昔ある人に「加藤、運っていうのはな、自分の体をその場所に運ぶってことなんだ。だから動いたら動いただけの出会いがあって、それが自分に返ってくるんだぞ」と言われたことがあります。これは本当で、運というのは自ら動くことでつかむものだと強く実感しています。
『メンズノンノ』との縁もそうでした。当時『メンズノンノ』は『ノンノ』増刊号として出版されていましたが、僕は「いずれ単体で刊行されるのではないか」と予測したのです。そこで「もしも創刊号が作られることがあったら、ぜひオーデションに呼んでください」と編集部に電話をかけて売り込んだところ、一人の編集者さんとお会いできることになりました。その後、実際に創刊が決まった際に「まだ他の雑誌に出ていないフレッシュさがいい」と僕を選んでくださったのです。
1987年にパリコレに挑戦した時も、飛行機代や滞在費用を含め最低でも100万円ほど必要だったので悩みましたが、一度は世界最高峰のコレクションに出てみたかった。現地でエージェント探しから始め、その結果、2つのショーに出演することができました。しかし、当時は身長180センチ後半で筋肉隆々のモデルが主流だったため、それより低い自分の身長では一生モデルを続けるのは難しいと感じ「これを最後にモデルは辞めて、身長や体格は関係ない役者という表現者の道に進もう」と考えました。
運が悪いとか出会いがないと思っている人は、自ら動くのはもちろん、その際にちょっと行動範囲を変えてみることをおすすめします。今まで行ったことのない場所に行ってみるとか、自分とは合わないと思っている人と交流してみるとか。ふだん自分が生きている世界だけでなく、別の世界にまで範囲を広げることで思わぬ出会いやヒントが得られることがあります。
「運と言うのは自ら動くことでつかむものだと強く実感しています」(写真撮影◎本社 奥西義和)
<後編につづく>
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