桂由美 93歳「日本で初めてウェディングドレスのデザインを手掛けてから60年。絵本の白雪姫に憧れ、東京大空襲も乗り超えて」

2024年3月26日(火)12時30分 婦人公論.jp


「ときには、どれだけ必死に考えても最終的には実現できない場合もあるでしょう。でも、最初からあきらめていては何もできません」(撮影=大河内禎)

結婚式では和装が主流だった時代に、日本で初めてウェディングドレスのデザインを手掛けた桂由美さん。今に至るその歩みは、まさに日本の「ブライダル」の軌跡そのもの。ドラマティックな人生を振り返っていただくと——(構成=篠藤ゆり 撮影=大河内禎)

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絵本のお姫様のドレス姿に憧れて


日本初のウェディングドレスのデザイナーとして活動を始めて、今年で60年目を迎えます。節目の年だからか、私の人生がドラマになるそうです。生きている間にドラマ化されるなんて、考えてもみませんでした。

現在も時間がとれる時は店頭に立ち、お客様とお目にかかったり、新しい事業の打ち合わせなど、ほぼ毎日出勤しています。とくにこれといった健康法はありませんが、忙しくしていることと、常に「次はこれをやろう」と未来を考えているのが元気の源でしょうね。

社員には、「どんな仕事も『それは無理です』と言ってはダメよ。何ができるかを考えなさい」と言っています。

ときには、どれだけ必死に考えても最終的には実現できない場合もあるでしょう。でも、最初からあきらめていては何もできません。私自身、まわりから「無理だ」「無謀」と思われていたことを一つずつ乗り越えてきました。

私がブライダルの仕事を始めた1960年代半ばは、結婚式の定番は和装。ウェディングドレスを着る花嫁さんは3%しかおらず、外国人と結婚するか、教会で結婚式を行うクリスチャンの方くらいでした。そんな時代になぜ、ウェディングドレスのデザイナーになろうと思ったのか。原点は、子ども時代にあります。

生まれは東京の東端に位置する江戸川区の小岩。小さいころ、日曜日になると父が決まって「どっか行くか?」と聞いてくれるので、必ず「本屋さん!」とリクエスト。『シンデレラ』や『白雪姫』『人魚姫』などの絵本を買ってもらうと、家に帰るのが待ちきれず、駅前の広場で本を広げて大声で読んでいました。3歳くらいだったかしら。

「こんなに小さな子が文字を読めるのね!」と通りすがりの人たちに驚かれましたけど、文字を読めたわけじゃないんです。物語はすっかり頭に入っていましたから、絵を読んでいたのね。(笑)

絵本には、美しい女性がロングドレスを着ている絵が描かれています。私は夢のような世界に夢中になり、自分が登場人物になった気分であれこれ想像の翼を広げたものです。

地獄のようだった東京大空襲


やがて軍国主義の時代が始まり、お姫様やレースのドレスどころではなくなりました。私立の女子中学校(当時は高等女学校)に入学しましたが、戦争中は学徒動員で工場に通うように。東京も頻繁に空襲に見舞われるようになりました。

45年3月10日の東京大空襲で、下町は壊滅状態に。わが家はかろうじて空襲を免れましたが、近くの亀戸、錦糸町、両国あたりは一面火の海に。

当時2年生で級長をしていた私は、翌朝、田町にある動員先の沖電気の工場に行って同級生の被害状況を確かめなければ、という思いに駆られました。そこで親が止めるのも聞かず、駅へと向かい、線路の上を歩き始めたのです。

小岩から西に行くには、中川と荒川放水路の鉄橋を渡らなくてはいけません。枕木と枕木の隙間から下に落ちたら即死です。すると見知らぬおじさん2人が私を紐で結わえて前と後ろで持ってくれ、なんとか無事に川を渡りました。

平井でいったん線路から降りると、マネキン人形がたくさん転がっています。母が洋裁学校をやっていたので、マネキンは見慣れていました。ですから大きなマネキン工場が空襲に遭ったのかと思ってよく見たら、煙を吸って亡くなった人間の死体でした。

再び線路に戻って両国あたりに行くと、隅田川にたくさん死体が浮いています。あの地獄のような光景は今も忘れられません。

演劇からファッションに方向転換して


戦後は外国映画に魅了され、お芝居の世界に憧れを抱くようになりました。私は大学に通いながら、文学座の研究生に。指導してくださった芥川比呂志さんからは、大学卒業後に文学座に戻ってくるように言っていただきましたが、徐々に自分の適性は演劇よりデザインだと気づき、在学中に文化服装学院の夜学に通い始めました。

卒業後、母が経営していた洋裁学校の先生になりましたが、しばらくしてから母に、1年間パリに留学したいと懇願。日本ではまだヨーロッパ式の立体裁断が普及していなかったので、本場で学びたかったからです。当時、海外留学には相当お金がかかりましたが、「私の結婚資金として貯めていたお金を出してください」と頼みました。

パリでは高度なオートクチュール技術を学びましたが、その間、子どものころに絵本の中で見たお姫様のようなパリの花嫁の美しさに、心が震えました。

帰国してからは、学校で生徒たちに教える日々。当時は「花嫁修業」の一環として洋裁を学ぶ人が増え、学校は盛況だったのです。ただ、なかには単なる花嫁修業ではなく、洋裁で身を立てたいという生徒もいます。そういう生徒のため、2年間のカリキュラムを終えた後、さらに1年間、専門技術を学ぶクラスを設けました。

2年間でほぼすべての服の基本を教えるので、3年目はパーティドレスなどの正装をカリキュラムに。そして卒業制作として、ウェディングドレスを作ってもらうことにしました。

それでわかったのは、日本における生地やアクセサリーの貧困さです。当時はウェディングドレスの需要がほとんどなかったため、ろくなものがなかったのです。

卒業制作のファッションショーを行おうとしたら、ウェディングドレスに合わせる髪飾りやブライダルブーケもないので、自分たちで作るしかありませんでした。

困ったのが靴です。卒業制作のショーを行うのは2月。生徒が「白い靴、売ってません」と泣きながら学校に帰ってくるので、私も一緒について行き、靴屋さんに頼んで前の夏の売れ残りを倉庫で探してもらったりしました。

苦労した生徒たちは、「先生、ブライダルに関するすべてのものを扱うお店を開いて、ウェディングドレスを着たい人を助けてあげればいいのに」などと言います。そういうお店がないのは、需要がなく、採算が取れないからです。

でも生徒たちに言われたことで、誰もやっていないことをやるのは意義があるのではないか、と考えるようになりました。

母に相談すると、学校の仕事と両立できるならやってもいい。そのためには、人の2倍、3倍がんばらないとダメだ、と。私はつい、「がんばるから!」と宣言してしまいました。

そんなわけで、さっそく物件探しを開始。見つけたのは、近々廃業する赤坂の時計屋さんでした。開店前に約10ヵ月かけて、世界のブライダル事情を視察することに。

それぞれの国でどんなスタイルのドレスを着て、結婚式にどのくらい費用をかけて、どんなパーティを行うのか。つぶさに見てこようと思ったのです。

<後編につづく>

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