『光る君へ』中宮という高い地位の彰子に教養を授けた紫式部。続きが読みたくて道長が下書きを盗んだ『源氏物語』は帝への特別な贈り物だった

2024年3月31日(日)12時30分 婦人公論.jp


堀川通にある紫式部の墓所。存在はあまり知られていない。ムラサキシキブの紫の実が墓所の入り口を彩る(撮影◎筆者 以下同)

NHK大河ドラマ『光る君へ』の舞台である平安時代の京都。そのゆかりの地をめぐるガイド本、『THE TALE OF GENJI AND KYOTO  日本語と英語で知る、めぐる紫式部の京都ガイド』(SUMIKO KAJIYAMA著、プレジデント社)の著者が、本には書ききれなかったエピソードや知られざる京都の魅力、『源氏物語』にまつわるあれこれを綴ります。

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前回「大河『光る君へ』京都・平安京を舞台に繰り広げられる権謀術策と男女の愛憎。宇治は、平安貴族たちが好んで別荘を構えた「別業の地」」はこちら

紫式部の墓所


京都市北区紫野(むらさきの)。堀川北大路の交差点を南に下ったところに、紫式部の墓所があります。あまりにも目立たないので、京都の人にも、その存在をほとんど知られていないとか。

日本が誇る偉人、そして、話題を集める大河ドラマのヒロインのお墓としては、少々寂しく感じますが、ドラマのさらなる盛り上がりとともに、お参りする人も増えるかもしれません。

「紫式部」という呼び名は、紫野にちなんでいるとも、『源氏物語』のヒロイン・紫の上に由来するともいわれています。『光る君へ』ではまひろと呼ばれていますが、本名はわかっていないそうです。(記録に残る最初の女房名は「藤式部」で、やはり紫色に関連した名前だったようです) 

紫野には、『源氏物語』ゆかりの寺、雲林院があり、紫式部はこの寺で晩年を過ごしたと伝わっています。そんな縁で、この地(古記録によると、「雲林院の塔頭・白毫院の南」)に墓所がつくられたのでしょうか。

紫式部が晩年を過ごした寺


現在の雲林院は小さな寺ですが、平安時代には広大な敷地を誇る有名な寺院で、桜の名所としても知られていました。『源氏物語』には、義母・藤壺に拒まれたことに絶望した光源氏が、出家を考えて、伯父(桐壺更衣の兄)のいる雲林院に籠る、という場面が出てきます。(巻10「賢木」)


墓所のほど近く、紫式部が晩年を過ごした雲林院。『源氏物語』ゆかりの地であることを示す案内版も

『枕草子』にも、賀茂祭(葵祭)を見物するために朝早くから雲林院のあたりに牛車が立ち並ぶさまが描かれています。(残念ながら、現在の葵祭では、行列は雲林院の近くは通りません)

その『枕草子』の作者、清少納言は紫式部のライバルといわれる存在でした。

『光る君へ』ではファーストサマーウイカさんがこの役を演じていますが、タイプの違う才女2人の活躍も、今後のドラマの見どころになるでしょう。

私がお参りしたときは、ちょうどムラサキシキブが艶やかな紫色の実をつけて、静かな墓所に彩りを添えていました。控えめながら、優美な趣のあるこの植物の名も、もちろん、紫式部、その人にちなんでいるようです。

『源氏物語』を執筆した経緯


さて、今回は、紫式部が『源氏物語』を執筆した経緯について考えてみたいと思います。


雲林院の観音堂

前回も書いたように、紫式部は、一条天皇の中宮・彰子が教養や美意識を磨くための家庭教師のような存在でした。

紫式部が選ばれた理由について、「宇治市源氏物語ミュージアム」館長で学芸員でもある家塚智子さんに、お話を伺いました。

「紫式部のような教養のある女房を置いて、中宮の後宮を知的で文化の薫り高いものにする。文化に通じた一条天皇ならば、そんな“彰子サロン”を居心地の良い場所だと感じて、彰子にも関心を寄せてくれるだろう。父である藤原道長は、そう考えたのです」

その策が功を奏し、紫式部が出仕してから数年後に彰子は懐妊。のちの後一条天皇となる皇子を出産します。天皇と外戚関係を築き、自身の権力を盤石なものにする。そんな道長の野望を、紫式部が陰ながら支えたわけです。

紫式部の重大な役割


『光る君へ』のなかでは、道長は紫式部(まひろ)の想い人であり、ソウルメイト。そこで道長のために、その成功を手助けしようと考えたのでしょう。

紫式部のもうひとつの重大な役割は、『源氏物語』の執筆でした。物語好きの一条天皇が『源氏物語』読みたさに足繁く彰子のもとを訪れる——それによって懐妊を早めるというのが道長の狙いだったのです。

宮仕えでありながら、「物語を書くことも職務のうち」というのも、現代人の感覚ではわかりにくいところ。ましてや、その物語が天皇の気を引くための強力な武器になるというのです。


紫式部の墓所

正直、「えっ?なんで物語が?」と思ってしまいますが、平安時代の王朝文化では、それが当たり前のこと。

『紫式部日記』のなかの「冊子(そうし)つくり」に関する記述を読むと、天皇の寵愛を得るための手段として、物語がいかに重要であったかがわかります。

実家で敦成(あつひら)親王(のちの後一条天皇)を出産した彰子が宮中に戻るための準備をするなか、内裏への土産として、『源氏物語』の冊子を制作することが決まります。色とりどりの紙を選び、そこに物語を書き写したり、清書したものを綴じて冊子にしたり……。こうした一連の作業を紫式部が統括することになったのです。

道長が下書きを盗む


帝への特別な贈り物として『源氏物語』の冊子が選ばれる——それほど、この物語が高く評価されていたのでしょう。

また、この作業の最中に、紫式部が自分の局(居室)に隠していた物語の下書きが盗まれるという“事件”も起こります。どうやら、道長がこっそり持ち去り、娘の妍子(けんし/のちの三条天皇・中宮)に渡してしまったとのこと。人に見られたくない下書きが世に広まってしまうかもしれないと、紫式部は落胆するのです。

それほどまでに道長は、話題の的である『源氏物語』の続きを読みたかったということ。現代の私たちが、人気ドラマの話題で盛り上がるように、平安京の貴族たちも『源氏物語』について感想などを語り合い、続きを読むことをたのしみにしていたのです。

この有名なエピソードは、「源氏物語ミュージアム」で上映されている短編アニメーション『GENJI FANTASY ネコが光源氏に恋をした』にも登場します。

大河ドラマ『光る君へ』でも、きっと何らかの形で描かれるのでは? 物語を盗んだことがわかったとき、道長がどんな言い訳をするのか、それを受けて紫式部(まひろ)がどんな言葉を返すのか——あれこれ想像が膨らみます。

「冊子つくり」のエピソード


さらに、『源氏物語』のなかにも、東宮入内を控えた明石の姫君の婚礼支度として、光源氏が「冊子つくり」を命じる場面が出てきます。(巻32「梅枝」)おそらく、自身の実体験も踏まえて、紫式部がこのエピソードを入れたのでしょう。

昨年、私が京都・西本願寺の近くにある「風俗博物館」を訪れたときは、『源氏物語』に関する展示のなかで、この「冊子つくり」の場面が、4分の1の大きさの人形で再現されていました。

同博物館では、平安時代の文化や貴族の生活が人形や模型を使って立体展示されているのですが、人形が身に着けている装束はもちろん、建築物や調度品も驚くほど精巧につくり込まれていて見応えがあります。

展示されるテーマは時期によって変わるため、「冊子つくり」の場面が常時見られるわけではないものの、『源氏物語』の世界を体感するにはうってつけの施設。

当時の装束や王朝文化に興味がある人なら、時間を忘れて見入ってしまうこと請け合いです。(2024年8月24日までの展示テーマは「源氏物語からみる平安貴族の現世と来世への祈り」)

パロディなども生まれていた


執筆から1000年経っても色褪せることのない『源氏物語』の魅力。

それがさまざまな芸術作品に影響を与え、二次創作、三次創作を生み出してきたと、「源氏物語ミュージアム」の家塚館長は語ります。

「平安時代末期には既に注釈書のようなものが記され、その後、あらすじだけをまとめた梗概書や、今でいうパロディなども生まれたそうです。現代の私たちが、ネット上でドラマの“考察合戦”をするように、独自の解釈や読み解き方をする人が次々に登場したのです。

たとえば、日本書紀に出てくる悲劇の皇子・菟道稚郎子(うじのわきいらつこ/応神天皇の皇子だが、兄に皇位を譲るため自害した)が八の宮(「宇治十帖」に登場する光源氏の異母弟。その姫君たちと薫や匂宮との悲恋が物語の中心となる)のモデルだという“考察”は、鎌倉時代の注釈書に書かれています。

それが受け入れられ、時代を経ていつのまにか定着して、宇治といえば「憂し」、つまり、「憂いを帯びている」というイメージが再生産される。そして現代の私たちも、宇治上神社を見ると八の宮の住まいを連想してしまうわけです」

先人の“考察”や解釈


現代の私たちが原文で『源氏物語』を読むことはかなりハードルが高いわけですが、昔の日本人にとっても決して読みやすいものではなかったということ。そのため、わかりやすい解説書などが、当時から出回っていたと知り、いにしえの人々に親近感がわきました。

また、私たちがよく知っている「夕顔」「末摘花」といった登場人物の呼び名も、後世の読者がつけた「あだ名」なのだそうです。というのも、『源氏物語』の原本に人物の名前はほとんど書かれていないため、ストーリーを理解しやすいように、誰かが仮の名前をつけ、それが定着したということのようです。

もちろん、登場人物などのモデルに関しても、これまでにさまざまな説が生まれたはず。

たとえば、菟道稚郎子を祀る宇治上神社には、「政局に巻き込まれた不遇の皇子・八の宮が、都を離れて姫君たちと隠棲する」という物語の設定にぴったりで、私たちも「なるほど!宇治上神社が八の宮邸のモデルに違いない」と納得してしまうわけですが、実際のところ、作者である紫式部がどのように考えていたのかはわからないのです。


宇治と言えば「憂し」。宇治川の景色は憂いを帯びて見える

しかし、先人の“考察”や解釈によって宇治上神社や宇治のイメージが人々に共有され、宇治観光の楽しみ方が広がったということ。そんなことも頭に置きながら宇治を訪ねるのも、おもしろいのではないでしょうか。

婦人公論.jp

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