『虎に翼』寅子モデル・三淵嘉子 最高峰の女子高で<卒業生総代>に。声やダンスが絶賛されて演劇では主役を…生涯友情が続いた友人との日々

2024年4月11日(木)6時30分 婦人公論.jp


嘉子は現在のお茶の水女子大附属高校で楽しい青春を送り——(写真提供:Photo AC)

24年4月より放送中のNHK連続テレビ小説『虎に翼』。伊藤沙莉さん演じる主人公・猪爪寅子のモデルは、日本初の女性弁護士・三淵嘉子さんです。先駆者であり続けた彼女が人生を賭けて成し遂げようとしたこととは?当連載にて東京理科大学・神野潔先生がその生涯を辿ります。先生いわく「嘉子は現在のお茶の水女子大附属高校に入学した」そうで——。

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東京女高師附属高女に進学


1927(昭和2)年、嘉子は東京女子高等師範学校附属高等女学校(現在のお茶の水女子大附属高校)に入学しました。

東京女子高等師範学校は、1874(明治7)年に設立された東京女子師範学校をルーツとする、女子の中等教員養成機関の一つです。

その附属高等女学校は1882年に作られ、嘉子が入学した頃は受験倍率が20倍とも言われて、学力の高い女子にとって憧れの(最高峰の)学校の一つでした。

嘉子は、港区笄町の自宅から、市電・省線(国電)と乗り換えて、お茶の水まで通っていました。

4人の友人


入学してすぐにできた4人の友人とは、東京女高師附属高女時代はいつでもどこへ行くにも一緒で、その友情は生涯続きました。

後に嘉子が裁判官になって名古屋で働いていた頃には、4人が名古屋を訪れたり、全員で大阪万博に出かけたり、軽井沢の別荘で語り明かしたりもしたそうです。

嘉子は音楽や美術などにも才能を示して、東京女高師附属高女1年の時には、卒業生を送る謝恩会の演劇で、「青い鳥」のチルチル役を演じました(「青い鳥」とは、フランスの劇作家モーリス・メーテルリンクが1908年に発表した童話劇で、貧しい木こりの子であるチルチルとミチルの兄妹が主人公です。1920年代から日本でも上演されるようになっていました)。

嘉子のセリフは澄んだ声でよく通り、その演技は、友人たちの中でいつまでも思い出されて盛り上がるほどの出来栄えでした。

嘉子はすっかり上級生たちのアイドルとなり、また、その後も何かの機会に演劇をやる時には、主役を演じることがありました。

東京女高師附属高女での生活


嘉子の演技の能力は、もしかしたら「宝塚」が好きだったこととも少し関係しているかもしれません。

この頃の嘉子は、男役の雪野富士子<1905—1939>の大ファンでした。雪野は宝塚少女歌劇団雪組の男役でしたが、1934(昭和9)年に退団、若くして亡くなりました。

宝塚少女歌劇団は、1913年結成の宝塚唱歌隊を前身とし、現在は宝塚歌劇団という名称になっています。宝塚大劇場が有名ですが、早い段階から帝国劇場でも公演を行っており、また1934年には東京宝塚劇場が開設されたので、嘉子も東京で観劇に行ったことがあったかも知れません。レコードや絵葉書、脚本集なども広く売られていました。


入学してすぐにできた4人の友人とは、東京女高師附属高女時代はいつでもどこへ行くにも一緒で、その友情は生涯続きました<『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』より>

嘉子はダンスも上手で、体操の時間に嘉子がダンスの振り付けを考えて、仲間たちと創作ダンスを踊ったこともありました。

翻訳物の文学書に夢中になった時期もあり、仲良し5人組で同人誌のようなものを作って小説を書き合ったこともあったようです。

頭脳明晰


母親のノブはしつけに厳しい人で、その教育の成果もあったのか、嘉子は正義感が強く、努力家で、他人の苦しみを親身になって考えられるような性格に育ちました。

また、ノブは信心深く、嘉子やその友人も連れて、一緒に浅草観音や巣鴨のとげぬき地蔵、牛込釈迦堂などをまわったこともありました。

理知的な嘉子がなぜか迷信や占いを信じるようなところがあった、というのは友人たちが口を揃えて語るところですが、10代の頃のこの不思議な迷信・占い好きもまた、ノブの影響があったのかもしれません。

嘉子は頭脳明晰で、考えたことを言葉として表現する力に秀でていました。

とはいえ、いわゆる「ガリ勉」ではなく、おおらかで明るく、友人たちと青春を満喫していたというのが、当時の友人たちからの嘉子評です。

ですから、卒業式で嘉子が総代になった時には、同級生たちはみなとても驚きました。

※本稿は、『三淵嘉子 先駆者であり続けた女性法曹の物語』(日本能率協会マネジメントセンター)の一部を再編集したものです。

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