追悼・唐十郎さん 84歳で逝く 大鶴義丹が母の死に際し語った家族像「唐十郎を最期まで愛した母・李麗仙の生と死」

2024年5月5日(日)10時30分 婦人公論.jp


「今、そしてこれから、どう生きる……?(母の)闘病から亡くなるまでの時間は、そんなことを考えさせてもくれました。」(撮影:本社写真部)

2024年5月5日、劇作家で演出家、俳優の唐十郎さんが4日夜、都内の病院で急性硬膜下血腫のため亡くなったことが発表された。享年84。唐さんの妻である李麗仙さんの逝去をうけ、2人の息子である大鶴義丹さんが家族について語った『婦人公論』2021年8月24日号インタビューを再配信します。
**********
唐十郎さん主宰の劇団「状況劇場」の看板女優として人気を博し、「アングラ演劇の女王」と称された李麗仙さん。その後、テレビドラマや映画でも活躍していましたが、6月22日、肺炎により他界。79年の人生に幕を下ろした母について、息子の大鶴義丹さんが今、思うことは──(構成=福永妙子 撮影=本社写真部)

* * * * * * *

「おかん、頑張ったじゃないの」


その日の朝、母の入院先の担当医から「すぐに来てください」と電話があり、妻と駆けつけました。うちから病院までは走って約3分ほど。到着したとき、心電図モニターはすでに心肺停止を表す「ピー」の連続音が鳴った状態でした。

覚悟していたことではありました。ここ数年、体の状態は悪くなる一方で、今年に入ってからは、会話もできないレベルになっていましたから。医師からは、すでに1ヵ月半前のゴールデンウィークの頃、「ダメでしょう」と言われていました。それを思えば、「おかん、けっこう頑張ったじゃないの」というのが正直な気持ちです。

母が脳梗塞を発症したのが2018年。麻痺など後遺症はいろいろあって、リハビリを続けるも、よい兆しは見えない。母とは玄関も別々の二世帯住宅に暮らしていたのですが、この先、うちで面倒を見るのは難しいと判断。介護つき老人ホームに入所してもらうことにしたのです。

母自身も自分の体の状態に、「これはもう無理だ」と判断したのか、入所をすんなりと受け入れました。それが19年の春。脳梗塞を相次いで発症していたことは、その後のMRI検査でわかりました。やがて母の状態は坂道を転がるように悪くなり、今年初め、ホームから病院へ。そして、退院することなく逝ったのです。

約3年の闘病生活でした。その間、僕は、肉体を使った表現をずっと続けてきた母が病気によりその自由を失い、やがて亡くなるまでの過程──つまり人の体が衰え、徐々に死に向かっていくさまをずっと見続けていたわけです。

その母の姿から僕は、「生まれて、生きて、肉体だとかいろいろなものをぶっ壊しながら、こうして人の一生は閉じていくのだ」といった壮大な仕組みを教えてもらったような気がします。


2015年、劇団「新宿梁山泊」の秋公演として上演された『少女仮面』(唐十郎作)で主演した李麗仙さん(写真提供◎新宿梁山泊)

それは同時に自分自身に対し、「おまえもだよ」ということでもあるんですね。53歳という僕の年齢になると、「死」が意識のなかに入ってくる。逆算すると、自分のキャリアの終点も見え始める。じゃあ、今、そしてこれから、どう生きる……? 闘病から亡くなるまでの時間は、そんなことを考えさせてもくれました。

母の死については、じんわりとした寂しさは常にありますが、涙にくれるというものではなく、落ち着いた気持ちで受け入れられたと思います。

母親が下着姿で取っ組み合いを


——1960年代から70年代にかけて、反商業主義的な芸術ムーブメントとして若者たちの大きな支持を得たアングラ演劇。なかでも熱狂的な人気を集めていたのが、既成の劇場に頼らず、紅テントで興行していた唐十郎さん主宰の「状況劇場」。李麗仙さん(当時は李礼仙)はそのスター女優。唐さんと李さんは公私にわたるパートナーで、劇団が注目を集め始めた68年に義丹さんは生まれた。

家の1階が自宅、2階が稽古場でした。生活する場の真上で、多いときには50人もの劇団員が、すし詰め状態になって、大声でわめいたり、激しく動きまわりながら芝居の稽古をしている。両親もそっちにかかりっきりです。

物心ついたときからそういう環境で、親の代わりに劇団員のお兄さんお姉さんが幼い僕の相手をしてくれることも多かったですね。追い込みの時期になると、夜の11時頃まで稽古が続く。それまで子どもの僕は放ったらかしです。

何しろ床板1枚隔てた2階では、殺し合いさながらの激しいアングラ劇をやっている。5歳の子どもでも、そこが緊迫した大人たちのゾーンだということは感じます。どんなに空腹でも、「おなかが空いた」なんて言えない。

親にしても「3時間くらい食わなくても死にやしない」という考えで、まさに昭和(笑)。今の時代なら確実に問題になっていますね。

そのうち、僕は自分で料理を作るようになります。テレビの『キユーピー3分クッキング』を見て、「ラジコンのセッティングに比べれば単純作業じゃん」と判断。実際にやってみたら面白くて、すっかり料理好きになりました。

実際、母の料理はいまひとつ。お弁当なんて、汁物はタブー、中でおかずが動かないように仕切りが必要──といった常識を知らないから、蓋を開けると中身はグッチャグチャ。恥ずかしいから、運動会でも遠足でも、弁当は自分で作っていました。母もそれを見て、「あんたのほうがうまいから、自分でやりなさい」って。(笑)

家では常にまわりに人がいたし、親も忙しくしていましたから、いわゆる〈家族の団欒〉はなかったですね。お祝いごともしない。「今日は僕の誕生日だ」と父に言えば、「俺はグレゴリウス暦そのものを否定している」なんていう言葉が返ってくるだけ。その代わり、「勉強しろ」とか「ああしろ、こうしろ」も言われませんでした。

小学校の頃、10日間ほど芝居の稽古がなく、家族3人だけで過ごしたことがありましたが、このときの気まずさといったら……。そんな日常でしたから、友達の家に行くと珍しいことばかり。なかでも「親とはこんなに子どもの面倒をみるものなのか」ということには驚きました。まあ、あっさりした親子関係のおかげで早くから自立心が育った、とも言えるのですが。

女優としての母の姿も幼い頃から間近で見ていました。父の書く戯曲はけっこう猥雑なものが多い。そして稽古のときから本気でやる。自分の母親が下着姿で取っ組み合いなどしているのをチラと見るのはあまりいい気持ちではなかったけれど、「こういうものなんだ」と自然に受け入れていましたね。海女さんのうちの子は、お母さんがおっぱいを出した半裸姿で磯にいても、普通のことだと思っていたでしょう。それと同じです。


「言い争いはするものの、心の奥底に秘めたものを、どこまでも明らかにしない家族だったのです。」

つい情にほだされて


——目指す方向性の違いからか、やがて揉めごとが絶えなくなり、88年に離婚。「状況劇場」も20年以上の歴史にピリオドを打ち解散する。同年、父・唐十郎さんは「劇団唐組」を結成し、再婚。87年に芸名の「李礼仙」の一文字を変えて李麗仙とした母は、活動の場をテレビや映画へと広げていく。

なぜ親が離婚し、状況劇場が崩壊していったか、僕のなかでは知っていても言えないことがあるのですが、ともかく二人とも本当に芝居が好きで、好きで、それ以外は何もできない不器用な人間だったということです。

芝居や芸への思い、そのいちばん底にあるマグマみたいな原動力について、父は何も語らない。母も、自分の体を切り刻むようにして芝居をする人だったけど、なぜ、そうまでして演じるのか、やはり語らない。僕も聞こうとしない。言い争いはするものの、心の奥底に秘めたものを、どこまでも明らかにしない家族だったのです。

僕が高校1年のとき、父が脚本を書いたNHKのドラマに出たことがあったのですが、そのときも母は「プロのステージなんだから真面目にやんないとダメよ」と、一言ポロッと言っただけ。大学在学中に映画に出演し、僕が本格的に俳優の世界に進むことになったときも、何も言いませんでした。

それぞれが、自分の好きなように生きていけばいい。そうして別々に暮らしていた母に、「二世帯住宅を建てようか」ともちかけたのは僕からです。母は60歳を過ぎる頃でした。少しずつ迫りくる母の老いに、つい情にほだされたと言いましょうか。2002年当時、僕は最初の結婚をして子どももいましたが、玄関は別々で1階が母、2階が僕一家という、完全分離の二世帯住宅で暮らすようになったのです。

とはいえ僕らは基本的に、和気あいあいの仲良し親子ではありません。似ているところがあるのか、5分も話せばカチンときて、1週間くらい会わないことはしょっちゅう。そのうち「大丈夫かなぁ」と気になって顔を合わせ、また5分話してケンカになって「じゃあバイバイ」。そんな日常でした。

「李麗仙、また逢おう!」


母の女優としての部分はどうだったか——。状況劇場がなくなったあと、母自身がプロデュースした舞台もあったし、映画やテレビドラマにも出演していました。ただ、どこか力を持て余しているというか、エネルギーを出し切れていないような、僕にはそんなふうに感じとれたんですね。

母のなかに常にあったのは、かつての状況劇場の日々だったのではないでしょうか。最後はケンカ別れになってしまったものの、状況劇場という空間で、父とタッグを組んだ濃厚な演劇の時間こそは、母にとってかけがえのないもの。才能と情熱とエネルギーがあふれ、いくつもの歯車が見事に噛み合い、燃え盛るような日々を過ごせたのは幸せなことだったはず。

一方で、だからこそ、それを超えられるもの、あの頃のような熱量で完全燃焼できるものをその後、見つけられなかったことは、母には物足りなかったのではないか、とも思うのです。もちろん心の奥底を明かさない母は、そんなことは決して口にしないし、こちらが言えば反発したでしょう。けれど、一番近くにいた同業者としての目線で見て、僕はそう感じるんですね。母は、父の戯曲・演出でないと本領を発揮できない女優だったのだと今は確信しています。

亡くなったから言えることですけど——結局、親父のことが好きだったんだと思う。唐十郎ともう一度、状況劇場をやりたかったんだよね、おかんは。でも、父は父で別の結婚をして、別の劇団をもっていて。母は父への情念に、最後まで振り回されてしまったんじゃないかなあ……。

母が亡くなった翌日、父はその遺体に対面しました。僕が母の死を知らせ、迎えに行ったのです。12年に転倒により脳挫傷の大ケガを負った父は、体もやや不自由です。その父が、母の亡骸に向かい、手を叩き、劇中の歌を歌ったりと、かぶいてみせるんですね。そして最後に、「李麗仙、また逢おう!」と。「親父、悲しいんだけど、カッコつけたんだな」と思いました。それもまた、父らしいといえば父らしい。

本心を吐露せず、弱みを見せず、強気を貫いた母もやっぱり、最後までカッコつけようとした人でした。母の死に際し、僕は「唯一無二のアングラ女優人生を全うして、一片の悔いなき人生だったと思います」というコメントを出しました。母の気持ちを推しはかった言葉ですが、僕としては、どこか少し切なさも残るのでした。

婦人公論.jp

「唐十郎」をもっと詳しく

「唐十郎」のニュース

「唐十郎」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ