【ライターコラムfrom広島】「自分たちに何ができるのか」…災害に揺れる広島、選手がピッチに立つ理由
サッカーキング2018年7月14日(土)17時38分
サッカー選手の存在意義を考えさせられた広島の選手たち [写真]=J.LEAGUE
川辺駿は、広島の子である。かつてはこういう言い方をすると、政治的な匂いがしたものだが、それは「ヒロシマの子」の方だ。川辺の場合はシンプルに「広島出身」という意味である。彼の故郷は正確には広島市北部の安佐北区であり、今回の豪雨が激しく襲った地域でもある。「自宅は大丈夫です」と言ってくれたことでひとまずはほっと安心したのだが、川辺の表情は晴れない。
当然だろう。自分たちが無事ならばいいなんて、そんな自己中心的な考えが浮かぶほど、生やさしい豪雨ではなかった。携帯から響き渡る緊急速報は25回を越え、避難勧告から避難指示(緊急)という切迫感のある文言に変わった。自分の家族、友だち、知り合いの心配もさることながら、広島がどうなってしまうのかという巨大な不安が先に立った。
翌日、広島だけでなく岡山や他の地域にも深刻な事態が発生したことを知る。特に青山敏弘の出身地である岡山県倉敷市の状況は厳しい。真備地区は泥水に浸って孤立し、物資も届かず、病院には多数の患者が取り残されて助けを待っている状態だった。
実家の家族は無事だったという青山は、虚空を見つめながら言葉を選んだ。
「倉敷は、災害がほとんどない場所だったし、安全な街だと信じていた。だから、被災してしまった倉敷の街を見ると、気持ちが……。考えていた以上に心が痛くなった」
筆者は少年時代、九州で過ごした。ご存知のように九州は毎年、大型の台風が定期的に襲ってくる「台風銀座」である。今は状況も変わっているかと思うが、筆者の地元は台風が来る度に停電や断水が頻繁にあった。蝋燭は常に準備していたのだが、蝋燭の灯りだけで1日を過ごすのは不安である。まして今は、当時(40年前)よりもはるかに電気に対して日常生活は依存しているわけで、被災した人々の暮らしはどれほど不安か。
川辺は「災害はまだ収束していない」と語る。
「(この災害での被害は)他人事ではないんです。全ては自分自身のことだと捉えています。亡くなった方々もたくさんいらっしゃるし、(被災地は)自分たちが想像する以上に、本当に難しい状況だと思うから」
だからこそ、彼は「サッカーで被災者に何かを伝える、発信する」ということに対して、懐疑的だ。「ピッチの上のことって、被災した人々に届くのだろうか。それも大切だけど、募金活動や支援物資の調達など、形になることの方が大切なのではないだろうか」と。
川辺だけ出なく、選手がそういう想いになるのも無理はない。消防士や自衛官、医師や看護師、土木関係など、被災者や被災地に対して直接、救いの手を差し伸べることができる仕事ではない。サッカーをやっていていいのか。サッカーなんてやっている場合なんだろうか。当事者意識が高いほど、そう考えてしまうのは無理もない。目の前で災害が起きて、多くの人々が被災し、苦しんでいるのだ。その現場を目の当たりにしてしまえば、悩むのは当然である。青山が「自分たちが被災の当事者になったかもしれない」と語ったが、まさにそのとおりの状況だった。
クラブが迅速に動いて募金活動を企画、13日(金)の17時から山本拓也社長や城福浩監督や選手たち、チームやフロントのスタッフが総出で街頭に立って広島の人々に呼びかけたことは素晴らしい。募金総額は171万2105円。約1時間の活動でしっかりと成果をあげたことは、もちろん市民・県民の理解とサンフレッチェ広島の熱意が生み出したものだった。
ただ、こういう活動がつねにできるわけでもない。プロサッカー選手の仕事は何なのか。それはやはり、サッカーなのである。自分たちがピッチの上で頑張り、戦い、全力を尽くすことによって、見ている人々に思いを届けることができる。そう信じることができなければ、そもそもプロサッカー選手は何なのか、まさに「存在意義が問われる」(城福監督)のだ。
2011年、東日本大震災。福島県いわき市出身の高萩洋次郎(現FC東京)は当事者だった。家は津波で1階が破壊され、ピアノは流され、冷蔵庫はひっくり返っていた。両親は無事だったが最愛の祖母は今も行方不明。震災後、初めていわきの家に戻った時、あまりの状況に頭の中が真っ白になった。「ショックなんて……、そんなことは通り越していた」と、彼は後にそう語った。
「地元が被災し、知り合いや友だちが苦しんでいる。サッカーなんて、やっている場合ではない」
髙萩がそう考えるのも当然だ。だが、実際に被災した友人が、彼にこんな言葉を投げかけた。
「お前はサッカーを頑張って、俺たちを勇気づけてくれ。俺たちはお前がサッカーをしている姿を(テレビなどで)見られるよう頑張るから」
その言葉は間違いなく、髙萩の胸に突き刺さった。
「僕はサッカーをやらないといけない。僕が結果を残せば、名前が報道される。僕の頑張りが伝えられて、みんなを勇気づけられることができる。僕はこれから、全ての練習と全ての試合を、被災地の方々のためにやる。活躍すればメディアから取材を受けて、震災のことを伝えることができる」
翌年、髙萩は4得点12アシストと素晴らしい結果を残し、広島初優勝の立役者となった。優勝が決まったその瞬間、歓喜に震えるエディオンスタジアム広島のピッチ上で彼は被災した方々のために手を合わせ、祈りを捧げた。被災地の人々のために戦った彼がチームを栄光に導き、そこで祈りを捧げた姿が故郷の人々をどれほど勇気づけたことか。
「今、自分たちが何をやるべきか、何ができるのか。そこを研ぎ澄ましていかないと、我々がここで存在する意味はない。とにかく今は、自分たちのベストを尽くすこと。それが被災地のチームとしてやるべきことだと思っています」
城福浩監督が沈痛な言葉で語ったことは、一つの正解。その上で川辺が言うように目に見える形で被災に苦しむ方々に貢献するべきだし、募金活動などは今後も継続していくべきだろう。
今回の災害で犠牲になられた方々に対して哀悼の意を表するとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。これからサンフレッチェ広島は被災地のために、被災した方々のために、戦っていくはずです。その姿をしっかりとお届けすることこそ、広島を担当する記者としての責務だと考えています。
文=紫熊倶楽部 中野和也
当然だろう。自分たちが無事ならばいいなんて、そんな自己中心的な考えが浮かぶほど、生やさしい豪雨ではなかった。携帯から響き渡る緊急速報は25回を越え、避難勧告から避難指示(緊急)という切迫感のある文言に変わった。自分の家族、友だち、知り合いの心配もさることながら、広島がどうなってしまうのかという巨大な不安が先に立った。
翌日、広島だけでなく岡山や他の地域にも深刻な事態が発生したことを知る。特に青山敏弘の出身地である岡山県倉敷市の状況は厳しい。真備地区は泥水に浸って孤立し、物資も届かず、病院には多数の患者が取り残されて助けを待っている状態だった。
実家の家族は無事だったという青山は、虚空を見つめながら言葉を選んだ。
「倉敷は、災害がほとんどない場所だったし、安全な街だと信じていた。だから、被災してしまった倉敷の街を見ると、気持ちが……。考えていた以上に心が痛くなった」
筆者は少年時代、九州で過ごした。ご存知のように九州は毎年、大型の台風が定期的に襲ってくる「台風銀座」である。今は状況も変わっているかと思うが、筆者の地元は台風が来る度に停電や断水が頻繁にあった。蝋燭は常に準備していたのだが、蝋燭の灯りだけで1日を過ごすのは不安である。まして今は、当時(40年前)よりもはるかに電気に対して日常生活は依存しているわけで、被災した人々の暮らしはどれほど不安か。
川辺は「災害はまだ収束していない」と語る。
「(この災害での被害は)他人事ではないんです。全ては自分自身のことだと捉えています。亡くなった方々もたくさんいらっしゃるし、(被災地は)自分たちが想像する以上に、本当に難しい状況だと思うから」
だからこそ、彼は「サッカーで被災者に何かを伝える、発信する」ということに対して、懐疑的だ。「ピッチの上のことって、被災した人々に届くのだろうか。それも大切だけど、募金活動や支援物資の調達など、形になることの方が大切なのではないだろうか」と。
川辺だけ出なく、選手がそういう想いになるのも無理はない。消防士や自衛官、医師や看護師、土木関係など、被災者や被災地に対して直接、救いの手を差し伸べることができる仕事ではない。サッカーをやっていていいのか。サッカーなんてやっている場合なんだろうか。当事者意識が高いほど、そう考えてしまうのは無理もない。目の前で災害が起きて、多くの人々が被災し、苦しんでいるのだ。その現場を目の当たりにしてしまえば、悩むのは当然である。青山が「自分たちが被災の当事者になったかもしれない」と語ったが、まさにそのとおりの状況だった。
クラブが迅速に動いて募金活動を企画、13日(金)の17時から山本拓也社長や城福浩監督や選手たち、チームやフロントのスタッフが総出で街頭に立って広島の人々に呼びかけたことは素晴らしい。募金総額は171万2105円。約1時間の活動でしっかりと成果をあげたことは、もちろん市民・県民の理解とサンフレッチェ広島の熱意が生み出したものだった。
ただ、こういう活動がつねにできるわけでもない。プロサッカー選手の仕事は何なのか。それはやはり、サッカーなのである。自分たちがピッチの上で頑張り、戦い、全力を尽くすことによって、見ている人々に思いを届けることができる。そう信じることができなければ、そもそもプロサッカー選手は何なのか、まさに「存在意義が問われる」(城福監督)のだ。
2011年、東日本大震災。福島県いわき市出身の高萩洋次郎(現FC東京)は当事者だった。家は津波で1階が破壊され、ピアノは流され、冷蔵庫はひっくり返っていた。両親は無事だったが最愛の祖母は今も行方不明。震災後、初めていわきの家に戻った時、あまりの状況に頭の中が真っ白になった。「ショックなんて……、そんなことは通り越していた」と、彼は後にそう語った。
「地元が被災し、知り合いや友だちが苦しんでいる。サッカーなんて、やっている場合ではない」
髙萩がそう考えるのも当然だ。だが、実際に被災した友人が、彼にこんな言葉を投げかけた。
「お前はサッカーを頑張って、俺たちを勇気づけてくれ。俺たちはお前がサッカーをしている姿を(テレビなどで)見られるよう頑張るから」
その言葉は間違いなく、髙萩の胸に突き刺さった。
「僕はサッカーをやらないといけない。僕が結果を残せば、名前が報道される。僕の頑張りが伝えられて、みんなを勇気づけられることができる。僕はこれから、全ての練習と全ての試合を、被災地の方々のためにやる。活躍すればメディアから取材を受けて、震災のことを伝えることができる」
翌年、髙萩は4得点12アシストと素晴らしい結果を残し、広島初優勝の立役者となった。優勝が決まったその瞬間、歓喜に震えるエディオンスタジアム広島のピッチ上で彼は被災した方々のために手を合わせ、祈りを捧げた。被災地の人々のために戦った彼がチームを栄光に導き、そこで祈りを捧げた姿が故郷の人々をどれほど勇気づけたことか。
「今、自分たちが何をやるべきか、何ができるのか。そこを研ぎ澄ましていかないと、我々がここで存在する意味はない。とにかく今は、自分たちのベストを尽くすこと。それが被災地のチームとしてやるべきことだと思っています」
城福浩監督が沈痛な言葉で語ったことは、一つの正解。その上で川辺が言うように目に見える形で被災に苦しむ方々に貢献するべきだし、募金活動などは今後も継続していくべきだろう。
今回の災害で犠牲になられた方々に対して哀悼の意を表するとともに、被災された方々に心よりお見舞いを申し上げます。これからサンフレッチェ広島は被災地のために、被災した方々のために、戦っていくはずです。その姿をしっかりとお届けすることこそ、広島を担当する記者としての責務だと考えています。
文=紫熊倶楽部 中野和也
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