『どうする家康』家康が信玄にも秀吉にも誇った「自分が優れている点」とは

JBpress2023年5月6日(土)6時0分

 NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。第16回放送「信玄を怒らせるな!」では、浜松に居城を移した徳川家康は武田信玄を警戒。信玄のライバルである上杉謙信との同盟を組もうとしたが、そのことが発覚し・・・。いよいよ信玄との激突も間近となり、緊張感あふれる内容となった。その見所について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)


井伊直政の家康への憎しみはいつ敬愛へと変わるのか?

 それぞれの戦国大名がいかに領地を拡大したのか、と思いを馳せるとき、ついつい合戦の勝敗ばかりに目が行きがちである。しかし、戦に勝つことはゴールではなく、その地を新たに治めていくスタートにすぎない。

 思えば、家臣のマネジメントに心を砕きながら、効率的な領地経営を行うために尽力する戦国大名の姿は、現代の経営者とよく似ている。そんな思いから『企業として見た戦国大名』という本を書いたりもしたが、新たに領地を治めることの難しさを描いた放送回となった。

 ドラマは、家康が少年に襲われるシーンからスタート。娘を装って家康に刃を向けた少年は「お前のせいで俺の家はめちゃくちゃになった。お前がすべての元凶じゃ!」と叫んだ。遠江の地では家康は歓迎されておらず、お金をばらまき調略を行っていた信玄にみなが心を奪われていることを思い知らされる。

 主君が危うく命を落としかけたこともあって、家臣たちは当然、少年を処刑しようとするが、家康はこれを制止。次に少年に再会したときにこそ、自身の統治者としての真価が問われると考えたようだ。ドラマで家康は家臣たちにこう語りかけた。

「さらなる敵となっているか、味方となっているかは我らの行い次第」

 家康はかつて三河国内の一向宗信徒が蜂起して苦しめられた経験を持つ。三河をまとめあげていくにあたって、数々の苦労をしてきたからこその成長がみられる、印象深いセリフだったように思う。

 家康に助命された少年は、家臣から「感謝を伝えろ」と言われるが、素直に応じるような性格でも状況でもない。ただ、家康をにらみつけて「井伊虎松、我が名じゃ」とだけ述べて、去って行った。

 井伊虎松といえば、のちに徳川四天王に数えられる井伊直政のことである。一向一揆でやはり敵側について除名された本多正信と同じく、これからどのように家康を支える重臣になっていくのか。今後の見所のひとつといえるだろう。


着々と上杉との連携を進めていた家康の策略

 タイトル「信玄を怒らせるな!」にあるように、今回の放送では、いかに武田信玄を刺激しないようにするかが一つの見所になる・・・と思いきや、序盤で早々に大失敗をしでかしてしまう。

 ドラマで家康は、遠江を切り取ろうとする信玄に不信感を募らせ、信玄の天敵である越後の上杉謙信と同盟を結ぼうとする。

 松本潤演じる徳川家康が「越後の国に書状を送るというのは?」と家臣たちに提案。小手伸也演じる大久保忠世がその意図を読み取り、「信玄の長年の宿敵と手を組み、武田を囲い込む・・・か」とつぶやくと、甲本雅裕演じる夏目広次がすぐさま、反対の意を示している。

「恐れながら、危ういと存じます。間違いなく信玄を怒らせます」

 だが、家康は「内密に事を進める。書状を送るだけじゃ」と言って作戦を実行に移す。家康が謙信と水面下で接触を図っていたことは史実であり、実際には次のような書状を謙信に送っている。

「信玄手切れ、家康深く存じ詰め候間、少しも表裏打ち抜け、相違の儀ある間敷候こと」

 つまり、信玄と手切れ、つまり、断交したことについては「熟考を重ねてのこと」だと、もはや意思は揺るがないことを謙信に強調して、「盟約にそむくことは絶対にない」と相手を信用させようとしている。

 実は、家康はすでに元亀元年(1570)8月の段階で、使者として僧の叶坊(かのうぼう)光幡を謙信のもとに派遣していた。そこから互いの重臣たち同士での交流を経て、上記のような書状を出し、10月には同盟を締結することとなった。

 その結果、ドラマで夏目広次が懸念したとおりに、信玄を怒らせることになり、家康と信玄の対立は避けられない事態へと発展していくのであった。


密約に対する解釈の違いを家臣に語らせる

 それにしても、家康と信玄は同盟を組んで、お互いに攻め込む範囲を決めたうえで、今川氏の領土を切り取っていたはず。なぜ対立することになったのか。

 ドラマでは、遠江にちょっかいを出してくる信玄に対して、家康は家臣たちの前でこう声を荒げている。

「取り決めたではないか! 武田は駿河、徳川は遠江と!」

 この家康の認識は、松平・徳川家の歴史を綴った『三河物語』での記載と一致する。『三河物語』では、家康が信玄と同盟を結んで今川領を切り取るにあたり、「家康は遠江を大井川までとれ、私は駿河をとろう」と信玄から提案があったとされている。

 そんな家康の怒りに対して、松重豊演じる石川数正はこう応じている。

「正しくは、武田は駿河から、徳川は遠江から、おのおの力で奪ったほうのもの・・・ということでござろう」

 これに対して、家康は「くされ坊主が!」といら立ちを隠さないが、この数正の見解もまた文献に沿ったものである。

 信玄の戦略や戦術が記された軍学書『甲陽軍艦』では、「信玄公は駿河を治めるので、大井川を境にして遠州を、家康の手柄で切り従えてよい」と書かれている。「切り従えてよい」となると、あくまでも戦況に応じてということになり、信玄はそう考えていたのかもしれない。

 これまでも、諸説あってはっきりしないところを逆手にとって、ドラマの見所に転じさせてきた『どうする家康』。ここでも家臣のセリフを通じて、密約における家康と信玄の解釈の違いを、うまく浮き彫りにしているように感じた。


家康が信玄にも勝る唯一のものとは?

 ドラマではことさら気弱な性格に描かれている家康だが、だからこそ頼りないリーダーを支えるべく家臣たちが自然と成長していく。今回の放送回でも、信玄に圧倒される家康を、家臣たちが懸命に支えている。

 ドラマの終盤で家康が意気消沈したのは、人質として武田に送っていた義弟の源三郎から強烈な伝言があったからである。

「弱き主君は害悪なり。滅ぶが民のためなり」

 自信が持てない家康は「自分につくか、信玄につくか」について、家臣たちに「おのおので決めてよい」と口走って、家臣たちを落胆させてしまう。だが、情けないリーダーに呆れながらも、家臣たちはおのおのが家康を鼓舞するべく立ち上がる。

「十に九つは負けるんじゃぞ」という家康に、本多忠勝は「十に一つは勝てる」と静かにつぶやいた。そして家康を真っすぐに見つめて、こう吠えたのである。

「殿、その一つを信長は桶狭間でやりましたぞ・・・信長はやりましたぞ!」

 それでもまだ「わしは信玄に何一つ及ばぬ」と弱音を吐く家康に、今度は「恐れながら、殿」と夏目広次が口を開く。

「殿にはこの家臣一同がおります。この一同で力を合わせ、知恵を出し合えばきっと! 信玄に及ぶものと存じます!」

 前述したように、家臣のなかでも信玄を敵に回すことを最も警戒していたのが広次だった。それだけに、このセリフは家康の心を大きく動かすことになった。ようやく腹が座った“気弱なプリンス”は、こう家臣たちに宣言する。

「この地を守り抜き武田信玄に勝つ!」

 後年、自分が所有する家宝を自慢する豊臣秀吉に対して、家康は「命を惜しまない家臣こそ我が宝」と語ったという逸話がある。そのときに、家康の脳裏に浮かんだのは、まさにこの信玄との戦い、「三方ヶ原の戦い」だったに違いない。

 どれだけ激しい戦いになるのか──。家康を支える家臣たちの活躍にも注目しながら、戦況を見守っていこうではないか。


【参考文献】
大久保彦左衛門、小林賢章訳『現代語訳 三河物語』(ちくま学芸文庫)
大石学、小宮山敏和、野口朋隆、佐藤宏之編『家康公伝〈1〉~〈5〉 現代語訳徳川実紀 』(吉川弘文館)
太田牛一、中川太古訳『現代語訳 信長公記』(新人物文庫)
中村孝也『徳川家康文書の研究』(吉川弘文館)
平野明夫『三河 松平一族』(新人物往来社)
所理喜夫『徳川将軍権力の構造』(吉川弘文館)
本多隆成『定本 徳川家康』(吉川弘文館)
柴裕之『青年家康 松平元康の実像』(角川選書)
二木謙一『徳川家康』(ちくま新書)
菊地浩之『徳川家臣団の謎』(角川選書)

筆者:真山 知幸

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