『どうする家康』井伊直政、本多正信、本多忠勝の子孫はどうなる?波乱の生涯

2023年12月29日(金)12時0分 JBpress

文=鷹橋 忍 写真=フォトライブラリー

 大河ドラマ『どうする家康』も最終回を迎えため、この連載も今回が最終回となる。

 最後は、ドラマでも注目を集めた板垣李光人が演じた井伊直政、山田裕貴が演じた本多忠勝、松山ケンイチが演じた本多正信の、子や子孫たちをご紹介したい。

【井伊直政】「大老の家」となる

直政の子どもたち

 井伊直政は関ケ原の合戦での功績により、近江国佐和山(滋賀県彦根市)十五万石が与えられ、上野国の三万石と合わせて十八万石を領したが、合戦から二年後の慶長7年(1602)に、42歳の若さで没した。

 江戸幕府が編纂した武家諸家の系譜集『寛政重修諸家譜』によれば、直政には、二男二女の子がいた。

 長女は家康の四男・東条松平忠吉(森崎ウィンが演じた徳川秀忠の同母弟)に、次女は宇和島伊達藩初代藩主・伊達秀宗(伊達政宗の庶長子)に、それぞれ嫁いでいる。

 長女と次女の母は、直政の正妻・松平忠次(康親)の娘である。

 対して、二人の男子は母が違う。

 長男の井伊直継(のちに直勝と改名 ここでは直継で統一)の母は、長女と次女と同じく、直政の正妻・松平忠次(康親)の娘。

 次男の井伊直孝の母は、「印具氏」と『寛政重修諸家譜』には記されている。

 直継と直孝はどちらも天正18年(1590)生まれで、直継が嫡子であった。

 父・直政が亡くなったとき、直継も直孝も、数えで13歳だった。

大老の家へ

 直政の跡を継いで当主となったのは、直政の嫡子・井伊直継だった。

 だが、直継が多病のため、家康の意向により、当主は直継の異母弟・井伊直孝に交代することとなる。

 直政の遺領のうち、直孝が近江国十五万石の領主となり、直継は上野国安中(群馬県安中市)三万石を与えられ、別家の祖となった。

 直孝は、徳川秀忠、家光、家綱の三代に仕え、のちの「大老」(老中の上に立つ、幕府の最高職)と同様の役割を、果たしたといわれる。

 直孝はその功績により3回加増され、幕府領の預かり分も含め、近江彦根藩35万石となった。

 その後、井伊家は井伊直弼などの大老を輩出した「大老の家」となり、一度も転封することなく、明治維新を迎えている。


【本多正信】二男は加賀本多家の初代に

本多正信の子どもたち

 本多正信は、家康の死去から二ヶ月後の元和2(1616)年6月に、この世を去った。享年は79だった。

 正信には、三男二女の子がいたとされる。

 娘の一人は三浦重政の室に、もう一人は小栗但馬の室になったという(「本多一族系図」 安城市歴史博物館『特別展 安城ゆかりの大名 家康の名参謀 本多正信』)。

 長男は、井上祐貴が演じた本多正純である。

 少年のころから家康に仕え、重用された。

 家康の死後は、徳川秀忠の年寄(のちの老中)の一人に加わった。

 元和5年(1619)には、加増されて下野の宇都宮城(栃木県宇都宮市)を賜わり、十五万五千石の大名となっている。これは家康の遺言によるものだったという。

 ところが、秀忠との関係は、良好ではなかったといわれる。

長男・本多正純の失脚

 元和8年(1622)9月、正純は改易となった出羽の最上義俊の山形城接収の上使として、山形に派遣された。

 その任の最中に、正純は「将軍家への御奉公よろしからずによって」、下野国宇都宮の領地没収と出羽国由利(秋田県由利本荘市)五万五千石への減転封が命じられた。

 だが、正純はこれを固辞。その結果、佐竹義宣預かりとなり、嫡男の本多正勝とともに、横手(秋田県横手市)に幽閉された。

 正純・正勝父子はこの横手の地において、正勝は寛永7年(1630)5月に35歳で、正純は寛永14年(1637)3月に73歳で、それぞれ死去した。

 正勝の子・本多正之は、寛文4年(1664)に赦免され、旗本に列している。

●二男・本多政重は、加賀本多家の初代に

 二男の本多政重は、劇的な変化に富んだ人生を送っている。

『寛政重修諸家譜』によれば、政重は天正19年(1591)、12歳のときに倉橋長右衛門某の養子となった。

 その後、家康と秀忠に出仕したが、慶長2年(1597)8月に秀忠の乳母の子・岡部庄八を討ち果たして、伊勢国に出奔したという。

 その後、忍成修吾が演じた大谷吉継、栁俊太郎が演じた宇喜多秀家に仕え、関ケ原の合戦後は、深水元基が演じた福島正則に仕えている。

 慶長7年(1602)には、加賀の前田利長(宅麻伸が演じた前田利家の子)に仕え、三万石を与えられる。

 慶長9年(1604)には、TAKAHIROが演じた直江兼続(津田寛治が演じた上杉景勝の重臣)の娘婿として養子となったが、慶長16年(1611)には、招かれて再び加賀藩前田家に三万石で出仕し、のちに五万石に加増された。

 家老として前田家を支え、加賀本多家の初代となった。

●三男・本多忠純は、家臣に暗殺された?

 三男の本多忠純は家康に仕え、慶長10年(1605)、下野国榎本(栃木市)に一万石を賜わった。

 大坂夏の陣で挙げた武功により、下野国皆川(栃木市)に一万八千石を加増され、合計で二万八千石を領した。

 忠純は短気で、少しの過失でも、家臣を手討ちにしたという。

 忠純は寛永8年(1640)に46歳で死去しているが、これは過失を犯し、忠純に手討ちにされるのを恐れた家臣による暗殺だともいわれる(栃木市史編さん委員会編『栃木市史 通史編』)。

 寛永9年(1641)、忠純の遺領は、養子に迎えた甥の本多政逐(忠純の兄・本多政重の子)が継いだが、本多政逐の嫡子・犬千代が5歳で夭逝したため、無嗣廃絶となった(『寛政重修諸家譜』)。


【本多忠勝】度重なる転封ののちに三河へ

長男の妻は信康と五徳の娘

 本多忠勝は慶長6年(1601)に、上総国大多喜(千葉県夷隅郡大多喜町)から伊勢国桑名(三重県桑名市)十万石に転封し、慶長15年(1610)、桑名城で死去した。享年63である。

『寛政重修諸家譜』によれば、忠勝には二男五女の子がいた。

 長女は、真田信之(『寛政重修諸家譜』には「信幸」と記載)に嫁いだ、鳴海唯が演じた小松殿(稲)である。

 次女は、奥平家昌(當真あみが演じた家康の長女・亀姫と、白洲迅が演じた奥平信昌の長男。家康の外孫にあたる)の妻に、三女は本多備中守信之(詳細不明)の妻に、四女は家臣の松下三十郞重綱の妻に、五女は家臣の蒲生瀬兵衛某の妻になったと、『寛政重修諸家譜』に記されている。

 次男の本多忠朝は、父・忠勝が桑名に転封となった際に、忠勝の旧領・上総大多喜五万石を賜わったが、慶長20年(1615)5月、「大坂夏の陣」で、奮戦の末に討死した。

 長男の本多忠政は、細田佳央太が演じた松平信康(家康の長男)と久保史緒里が演じた五徳(信長の娘)の娘を妻とした。

 忠政は父・忠勝の死後、その遺領である桑名十万石を襲封し、元和3年(1617)年、播磨国姫路(兵庫県姫路市)に転封した。

繰り返された転封の果てに三河へ

 忠政の長男・本多忠刻は、大坂夏の陣で豊臣が滅びた後に、豊臣秀頼の正妻であった、原菜乃華が演じた千姫(森崎ウィン演じる徳川秀忠とマイコ演じる江の娘 家康の孫)と結婚したが、寛永3年(1626)、31歳で没している。

 本多家の家督は、忠政の二男・本多政朝が継いだ。

 その後、忠勝を家祖とする本多家は、大和国郡山、陸奥国福島、播磨国姫路、越後国村上、三河国苅谷、下総国古河、石見国浜田と転封を繰り返した末に、明和6年(1769)年、十一代当主・本多忠粛が三河国岡崎に入封してからは、この地に定着し、明治維新を迎えている。

 忠勝の子孫は転封の果てに、忠勝が生まれた三河国に帰ってきたのだ。


【本多忠次ゆかりの地】

●旧本多忠次邸

 本多忠勝を始祖とする本多家の子孫・本多忠次が、昭和7年(1932年)に東京の世田谷に、自ら敷地の選定や建築の基本設計を行なって建てた住宅と壁泉の一部を、移築・復元したもの。

 愛知県岡崎市にある。

筆者:鷹橋 忍

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