「新人社長」武田勝頼が動揺する家中を収めるためにやったこととは?

2024年1月22日(月)5時30分 JBpress

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います


なぜ四男である勝頼が家督を継いだのか

 甲斐国の戦国大名・武田信玄は、元亀4年(1573)4月に、病死します。53歳でした。三方ヶ原の戦いにおいて、徳川家康を破ったのが、昨年12月22日。その後、三河国に侵攻し、野田城(新城市)を攻略(2月中旬)するなどしましたが、その頃には既に、信玄の病状はかなり悪化していたようです。これ以上の行軍には耐えきれないということで、武田軍は甲府に向けて引き上げていくことになります。

 しかし、信玄は甲府の光景を生きてその目で見ることは叶いませんでした。途上の信州駒場(長野県阿智村)で息絶えてしまったからです。信玄亡き後、その後継となったのは、4男の武田勝頼でした。信玄には長男も次男も3男もいたのですが、なぜ4男の勝頼が後継となったのでしょうか?

 先ず、信玄長男は、武田義信。彼は、天文7年(1538)に生まれました。母は、左大臣・三条公頼の次女(三条の方)です。本来ならば、信玄亡き後は、義信が後継となるはずでした。ところが、義信は正室が今川氏真(義元の子)の妹ということもあり、武田家における親今川派の中心人物となります。

 一方、父の信玄は、織田信長と接近し、信長の養女(遠山直廉の娘)と勝頼との婚儀をまとめることもありました(1565年11月)。武田と織田の同盟に意を唱えたのが、義信でした(義信は武田と今川の同盟堅持派)。義信は、武田重臣(飯富虎昌など)を味方に引き込んで、信玄に謀反しようとしたと言われています。が、謀反の動きは信玄の知るところとなるのです。飯富虎昌や長坂源五郎などは成敗されました(10月15日)。

 当初、信玄は義信を廃嫡することは考えていなかったようです。家臣に充てた書状(10月23日)に「飯富虎昌が自分(信玄)と義信の間を裂こうとした密謀が発覚したので切腹させた。父子の間には問題はない」とあることが、その1つの証拠となるでしょう。義信が事件後、自らの考えを改めて反省したならば、歴史は変わったかもしれませんが、義信は翻意しなかったようです。ついに、義信は廃嫡され、甲府の東光寺に幽閉されてしまいます。

 そして、永禄10年(1567)10月19日、同寺で死去します(自害と病死の2説あり)。長男の義信が死去したので、普通ならば次男が家督を継ぐことになるでしょうが、信玄の次男・竜宝(1541年生。母は三条の方)は盲目であり、出家していました。3男の信之は、天文12年(1543)に生れるも、年少の頃に亡くなっています。

 こうして、信玄の4男・勝頼が後継となったのです。勝頼が生まれたのは、天文15年(1546)。母は、信濃の諏訪頼重の娘(諏訪御料人)です。ちなみに、頼重は信玄により、切腹に追い込まれています。勝頼は、最初、諏訪総領家を継いでいましたので、武田家を継ぐ者とは見做されていませんでした。

 しかし、前述のように、義信が死去したこともあり、武田の家督を継ぐことになったのです。信玄は死に際して、遺言を残したとされます(『甲陽軍鑑』)。「3年間は自らの死を秘せ」という有名なものです。勝頼は信玄の遺言を守り、信玄の死後も、信玄の名で書状を出しています。ところが、その努力も虚しく、信玄死去の噂はすぐに広まってしまうのです。


信玄の家臣団と軋轢があったのか

 さて、武田の家督を継いだ勝頼ですが、甲府の信玄の家臣団と軋轢があったのではと言われています。勝頼の甲府入りに際しては、彼自身の家臣も引き連れていたため、何らかの軋轢が起きたとしても、おかしくはありません。

 また、急に乗り込んできた勝頼とその家臣団を快く思わない者もいたでしょう。そうしたことは、勝頼自身もよく理解していたと思われます。円滑に政権運営を進めていくにはどうすれば良いか?その1つの方法が、勝頼が起請文(誓約書)を書いて、家臣に下付するということでした。

 信玄死去から間もない4月23日、勝頼は重臣の内藤昌秀に血判起請文を与えています。そこには何が書かれているのか?「悪人がいて、貴方の身の上について虚偽を言う場合は、懸命の調査を行おう。また、その者が貴方に恨みがあり、理由もなく、主張しているのならば、それが貴方の家臣であるならば、これまで通り、貴方のもとに付け、処分は任せよう。家臣以外の者ならば、勝頼が処罰する」「昌秀は、勝頼に奉公するということなので、丁寧に扱おう。粗略に扱うことはない。勝頼のためを思い意見するのであれば、意見をよく聞こう」「以前から勝頼に粗略に扱われていた者であっても、今後、勝頼と親密にするということであれば、無視はしない」という内容のことが書かれていたのです。起請文からは、勝頼と疎遠もしくは不仲な家臣がいたことが分かります。

 この起請文作成は、そうした人々をも、上手く、自分(勝頼)の方に取り込もうとする意図があったと思われます。また、家臣同士にも軋轢が生じる可能性があったことも、起請文からは窺えます。勝頼の権力基盤は脆いものであり、一歩、間違えば、崩壊してしまうこともあり得たのです。それを防ぐため、勝頼は「丁寧に扱おう」というような穏和な起請文を家臣に与えるしかなかったのでしょう。

 経営コンサルタント「小宮一慶が教える、新人社長が覚えておきたい「経営者の心得」5つのポイント」(弥報オンライン  2019.12.17)には「松下幸之助さんは、人が成功するために一つだけ資質が必要だとすると、それは素直さだと述べたとされます。素直とは人の話を聞くことができる姿勢です。また、素直さは謙虚さにもつながります」との一文があります(新人社長に知っておいてほしい「経営者の心得」として5つ目のポイントは素直になろうということです)。

「新人社長」勝頼も家臣の意見に「しっかり耳を傾ける。その意見を採用せずとも、処罰しない」と述べていますので、前述のポイントに合致していると言えるでしょう。

(主要参考文献一覧)
・柴辻俊六『信玄の戦略』(中公新書、2006)
・笹本正治『武田信玄』(中公新書、2014)
・平山優『武田三代』(PHP新書、2021)

筆者:濱田 浩一郎

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