『光る君へ』奔放ながら政治にも意欲的だった花山天皇の早すぎる出家の真相

2024年2月5日(月)8時0分 JBpress

大河ドラマ『光る君へ』第4回「五節の舞姫」において、本郷奏多が演じる花山天皇が、井上咲楽が演じる藤原忯子の手首を帯で結わえるシーンは、視聴者の話題を浚った。そこで今回は、花山天皇を取り上げたいと思う。

文=鷹橋 忍 

生後10ヶ月で皇太子に

 花山天皇は、安和元年(968)10月に生まれた。康保3年(966)生まれの藤原道長より、二歳年下である。諱は師貞という(ここでは「花山」で統一)。

 父は、冷泉天皇(950〜1011 在位967〜969/父は村上天皇)で、花山は第一皇子である。冷泉も、奇行が伝えられる天皇だ。

 母は、藤原伊尹(924〜972)の娘・懐子(945〜975)である。

 藤原伊尹は、段田安則が演じる藤原兼家(道長の父)の長兄だ。一条第に居住していたため、「一条摂政」と呼ばれた。花山も宮中に入る前は、一条第で暮らしていたという。

 安和2年(969)8月、父・冷泉は20歳(数え)で譲位し、冷泉の同母弟である(母は藤原師輔の娘・安子)守平親王が践祚(天皇の位を受け継ぐこと)し、11歳で円融天皇(959〜991 在位969〜984)となった。円融天皇は、ドラマでは坂東巳之助が演じている。

 円融天皇の即位と同時に、冷泉の譲位詔により、花山が皇太子と定められた。花山が、生後10ヶ月のときのことである。


相次ぐ近親者の死

 皇太子となった花山は一条第を出て、平安京内裏五舎の一つで、前庭に紅白の梅が植えられたことから「梅壺」とも呼ばれる「凝華舎」を居とした。

 花山の外祖父・藤原伊尹は、天禄元年(970)に右大臣、摂政となり、翌天禄2年(971)には正二位太政大臣に任じられた。

 この伊尹が長く健在であれば、花山の人生もまた違ったものになっただろう。

 だが、伊尹は天禄3年(972)11月、花山が5歳のとき、49歳で病死してしまう。

 さらに天延2年(974)9月には、母・藤原懐子の弟である藤原挙賢と藤原義孝が同日に死去し、翌天延3年(975)には、4月に母・懐子が31歳で、異母妹の光子が3歳で、この世を去った(今井源衛『国語国文学研究叢書8 花山院の生涯』)。花山、8歳のときのことである。

 花山の外戚(母の父、もしくは兄弟)で存命なのは、高橋光臣が演じる外叔父の藤原義懐(957〜1008)だけだったという。

 権勢者であった外祖父の伊尹にくわえ、藤原挙賢と藤原義孝の二人の叔父、母・懐子と、立て続けに近親者を失った花山の後見は弱く、権力基盤はとても脆いものであった。 


祖母・恵子女王に養育される

 母・懐子亡き後、花山は、懐子の母・恵子女王(925〜992/代明親王の娘)に養育された。

 貞元2年(977)、花山10歳のとき、読書初めの儀が行なわれたが、そのとき副侍読を務めたのが、岸谷五朗が演じる藤原為時(紫式部の父)である。

 天元5年(982)2月には、15歳で元服している。

 当時は、元服と同時にキサキが決まるのが、「貴人の習わし」だったというが、花山の場合、そのような存在は確認できないという(今井源衛『国語国文学研究叢書8 花山院の生涯』)。

 後見が弱い皇太子と、姻戚を結ぶ者はいなかったのだろうか。


花山天皇の誕生

 永観2年(984)8月、円融天皇が譲位し、花山が17歳で即位した。

 皇太子には5歳の懐仁親王(のちの一条天皇 980〜1011在位986〜1011)が立てられた。

 懐仁は、円融天皇と、吉田羊が演じる藤原詮子(961〜1001/兼家の娘、道長の姉)の子だ。

 冷泉系が天皇家の嫡流と認識されていたが、次代の天皇は円融系である懐仁が皇太子となった。

 こうして、花山朝が始まった。

 関白は橋爪淳が演じる藤原頼忠(924〜989)が、円融朝から引き続き務めたが、花山がもっとも重用したのは、外叔父の藤原義懐だといわれる。

 義懐は花山の母・懐子の同母弟で、花山より11歳年長である。

 義懐は蔵人頭、参議、権中納言と異例の昇進を重ね、吉田亮が演じる花山の乳母の子・藤原惟成(953〜989)とともに花山を支えた。

 花山の即位から三ヶ月後の11月には、適正でない手続きで立荘された荘園を整理・停止するための「荘園整理令」(伊東俊一監修『「荘園」で読み解く日本の中世』)を発布したり、破銭を嫌うのを禁止する政令を出し、通過流通の円滑化で物価の高騰を抑制しようと試みたりするなど、積極的な政治を行なったという(今井源衛『国語国文学研究叢書8 花山院の生涯』)。

 歴史物語である『大鏡』によれば、世間の人々は、花山を「内劣り外めでた」——私生活は劣っているが、政治面はすぐれていると称したという。


寵姫・忯子の死

 平安後期の歴史書『日本紀略』(『国史大系』第5巻所収)によれば、花山の即位の二ヶ月後となる永観2年(984)10月に、井上咲楽が演じる藤原忯子(969〜985)が入内している。

 忯子は、阪田マサノブが演じる大納言藤原為光(942〜992)の娘である。

 忯子は花山から大変に寵愛され、ほどなく懐妊する。

 ところが、寛和元年(985)7月18日、懐妊七ヶ月(歴史物語『栄花物語』では八ヶ月)で、忯子は亡くなってしまった。

『栄花物語』巻第二「花山たづぬる中納言」によれば、花山は悲嘆のあまり、声を惜しまず、みっともないくらいに泣いたという。

 忯子の死は、次に述べる花山の出家の原因ともいわれる。


花山天皇の出家は、藤原詮子の陰謀?

 寛和2年(986)6月23日の丑の刻(午前1時〜3時)、花山は密かに内裏を出ると、東山の花山寺(元慶寺/京都市)に行き、出家した(寛和の変)。

 平安末期の歴史書『扶桑略記』(『国史大系』第6巻所収)によれば、このとき花山を内裏から連れ出したのは、蔵人の玉置玲央が演じる藤原道兼(961〜995/道長の同母兄)と、厳久という僧侶だったという。

 藤原義懐も藤原惟成も、翌日に花山の後を追って出家している(『日本紀略』)。

 これにより、皇太子である義懐親王が7歳で即位し、一条天皇が誕生した。

 藤原兼家は天皇の外祖父の座を手に入れ、摂政に任じられた。

 一般に、花山の突然の出家は、外孫の義懐親王を早く即位させたい藤原兼家が企んだものと考えられている。

 だが、歴史学者の繁田信一氏は、真の黒幕は、義懐親王の母である藤原詮子なのかもしれないと述べている。

 その理由は、花山の出家において重要な役目を担った僧侶の厳久が、詮子の強い後援を得て、僧侶として出世を重ねていったからだという。しかも、それに兼家は関わっていないそうだ。

 繁田信一氏は、少なくとも厳久を引き込んだのが、詮子だったのは間違いないだろうとしている(以上、繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』)。

 裏で糸を引いていたのは、詮子だったのだろうか。


退位後の花山は?

 花山天皇の在位期間は1年10ヶ月で、退位時、19歳であった。

 その後、花山は21年8ヶ月、上皇として生きることになる。

 退位した花山はしばらくの間、各地を訪れて、仏道修行に励んだ。

 帰京後は、奔放な女性関係などで世間を騒がせる一方で、和歌や絵画、建築や工芸などを嗜み才能を発揮する風雅な日々を送ったとされる。

 寛弘5年(1008)2月、41歳で崩御して、紙屋川上陵(京都市北区)に葬られた。


【花山天皇ゆかりの地】

●花山院菩提寺

 兵庫県三田市尼寺にある、花山院の菩提を祈るお寺。

 境内には、花山院を祀る花山法皇殿、花山法王御廟所などがある。

 花山院菩提寺のホームページによれば、「尼寺」の地名は、花山院に仕えていた女官たちが、花山院を慕い、尼僧となって麓に住み着いたことに由来するという。

筆者:鷹橋 忍

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