麻疹(はしか)にかかった息子が4歳で最重度知的障がい者に…「飛び降りたら楽になるかも」思いつめていた私の目を覚ました姉のある一言とは

2024年2月13日(火)12時30分 婦人公論.jp


「月〜金に施設にいて、週末に自宅に戻る息子。今は、この生活を1日でも長く続けられたらと思っています」(撮影:林ひろし/写真提供:すばる舎)

内閣府が発表した「高齢社会白書(令和3年版)」によると、65歳以上の者のいる世帯は日本の全世帯の49.4%。そのうち夫婦のみ世帯が一番多く約3割を占め、単独世帯を合わせると約6割が頼れる同居者のいない、高齢者のみの世帯となっています。
北九州の郊外で、夫と障がいを持つ息子の3人で暮らす多良久美子さん。8年前に娘をがんで亡くしています。頼れる子どもや孫はいないけれど、80代になった今、不安もなく毎日が楽しいと語る久美子さん。それでも、息子が4歳の時、麻疹(はしか)により最重度知的障がい者になった当初は、受け入れられずに苦しい毎日を送っていたそうで——。

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命だけは助けて下さいと祈り続け


高校を卒業して勤めた会社で出会った夫と、24歳のときに結婚しました。翌年に息子が、さらに2年後に娘が誕生しました。

息子はトイレに貼ったカレンダーで、教えなくても自分で数字を覚えるような賢い子どもでした。感情表現が豊かで優しい性格でした。

麻疹にかかったのは、幼稚園に通い出す直前の、入園準備をしていた3月のことでした。近くの病院で「肺炎を起こしかけている」と言われ、すぐに大きな病院に入院しましたが、1日も経たないうちに意識がなくなりました。脳が冒されるスピードはあっという間でした。

それから、2週間ほどは植物状態で、先生から「危険な状態です。もし、助かってもこのままだと思います」と言われました。私は「どんな状態でもいいから、命だけは助けてください」と、ひたすら祈っていました。一方で、「お葬式の準備をしないといけない」とも考えていたので、相当危険な状態でした。

その後、幸いにも意識が戻り、先生からは「奇跡だ」と言われました。やがて体が動くようになり、もしかして元に戻るのかなと期待すら抱きました。でも、知能は失われたまま。入院して4ヵ月ほど経った頃、とうとう先生から「これ以上は回復しないから、退院してください」と宣告されてしまいました。

24時間目が離せない


退院後の生活は本当に大変でした。病気の前は賢くて育てやすい子だったのに、とても手のかかる子に変わってしまいました。

脳の中のバランスが崩れてしまったのか、とにかく動き回る、危ないことをする、夜中に寝ないなど、24時間目が離せません。刃物を触ろうとしたり、ポンと投げ捨てようとしたり、さらに、グラスを叩いて割ってその上を歩こうとしたりすることも。

とにかく何をするのかわからないのです。トイレに行く間も置いておけないので、一緒に連れて入るような状態でした。

知能指数は1〜2歳だと言われましたが、2歳にもならないと思います。とにかく1日1日を過ごすのが精一杯。でも、心根は優しくてお母さん子だったので、それだけが救いでした。

つらかったのは、近所の同学年の子どもたちが幼稚園に通う姿を見なければならなかったこと。一緒に通園する予定で、入園の準備もしていたのに、うちの子だけ通えない……。元気な子どもたちと息子を比べて、落ち込む毎日でした。

そんななか、縁あって今の土地に引っ越すことになりました。これでもう、あの子たちの姿を見ないですむ……。何事も逃げないことが大事と思っていますが、このときばかりは逃げることを選びました。逃げて大正解だったと、今でも思います。

義両親も慣れ親しんだ地元を離れて、一緒に来てくれました。家のことは私に一任されていましたが、助けの手があるのは本当にありがたかったです。娘の幼稚園の送り迎えも義母がしてくれました。


『80歳。いよいよこれから私の人生』(著:多良久美子/すばる舎)

「障がい児・者の親の会」との出会い


息子が障がい児となって3年ほどは、元に戻るかもという希望を捨てられませんでした。こういう病院に行ったら治るんじゃないか……と、一生懸命あれこれ動いていました。

そんな私の考え方が変わったのは、「障がい児・者の親の会」との出会いでした。お母さん達がとてもたくましく明るくて、驚くほど前向きなのです。障がいを持つ子どもを「1人の人間として育てたい」という思いが伝わってきて、この人たちと一緒にがんばりたいと思いました。

あるとき、「何度も線路に飛び込もうと思ったのよ」という話を聞きました。私も息子が入院しているとき、病院の一番上の階から下を見て、「この子を抱っこして飛び降りたら楽になるかも」と思ったことがあります。

そうしたら、他にも「私も」「私も」と言う人がいっぱいいて。私だけじゃなかったんだ。それがわかっただけでも、とても救われた気持ちになりました。「仲間がいる」のはとても心強いものでした。

母親代わりとして私をずっと見守ってくれた4番目の姉に、「この子は福祉の世界で育てなさい」とはっきり言われたことも大きかったです。

それまでの私は、息子の病気を受け入れられずに悶々とし、「あの先生が悪い」「もっといい薬があるはず」「なんで私がこんな子どもを育てないといけないのか」と、嫌な気持ちにとらわれていました。姉の言葉に、ハッと目が覚めました。

同じ時期に参加した福祉の講演会で、「障がいを持っていることを認め、早く新しいスタートを切りましょう」と言われたことも、胸に響きました。

私はようやく、息子のことを受け入れることができました。「病気の子どもと一緒に生きていこう」と覚悟をしたら、不思議と泉のように元気が湧き出てきたのです。3年もかかってしまいましたが、私にとって必要な時間だったのだと思います。

いいことだけを書くようにしましょう


その後、息子は養護学校に通うようになりました。「薬で治らないなら、教育が薬になるのではないか」と思ったのです。

まだ数の少なかった養護学校は、車で往復2時間かかる場所にありました。

毎朝、片道1時間かけて車で息子を連れて行き、1時間かけて家に戻ってきます。その間に家事をこなし、授業が終わる頃にまた1時間かけて迎えに行き、1時間かけて連れて帰ってきます。

送り迎えに4時間かかり、大変ではありましたが、24時間息子に張り付く生活でなくなり、ほっと一息でした。

養護学校に通い始めた当初は、まだ悲嘆にくれていました。息子はあれもできない、これもできない。人に迷惑をかけてばかり……いつも「すみません」と謝っていました。

あるとき、担任の先生が「明日から連絡帳の書き方を変えましょう。悪いことは一切書かないでください。いいことだけを書くようにしましょう」と言われました。そんなふうに考えたことがなかったので、私にとっては目から鱗の言葉でした。

それから、必死になって息子のいいことを探して、連絡帳に書く日々。先生はいつも、「素晴らしい!」と褒めてくれました。

悪いところ、ダメなところに目を向けず、いいところ、できることに目を向ける。「これができない」と否定するのではなく、「じゃあどうしたら良くなる?」と、次につなげて前向きに考える。息子の見方がそんなふうに、だんだん変わっていきました。

息子は中学、高校、通園施設を経て、28歳のときに現在の生活介護事業所に入所しました。

当初は月〜木でしたが、10年ほど前からは月〜金に施設にいて、週末に自宅に戻るようになりました。土曜日の朝、車で迎えに行き、月曜日の朝に送りに行きます。今は、この生活を1日でも長く続けられたらと思っています。

息子は55歳のおじさんですが、心はピュアなまま。目がきらきらしています。年寄り2人の家に息子が帰ってくると、花が咲いたように明るくなります。

以前は、息子に対してどうしても命令口調になっていましたが、今は対等。私たちも年をとり、子ども返りしたようで、知能的には3人が同じくらいねと笑っています。

会話はできませんが、息子の言いたいことはわかっています。「ごはんはちゃんと食べましたか?」と聞くと、息子の言葉を代弁し、「うん、食べたんやね。よかった、よかった」と私が答えます。

ひとり芝居のようですが、それが楽しいのです。息子は元気の源です。

※本稿は、『80歳。いよいよこれから私の人生』(多良久美子:著/すばる舎)
の一部を再編集したものです。

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