手術が成功するも癌が再発…医者から「緩和ケアしか残されていない」と告げられた妻が言った「私あんまり頭がよくなくてよかった」の真意とは

2024年3月4日(月)12時30分 婦人公論.jp


その様子は、医師の話を十分に理解できずに楽観的にとらえているのではないかとさえ疑いたくなるほどでーー(写真提供:Photo AC)

2022年、61歳の奥様に先立たれたというベストセラー作家の樋口裕一さん。10歳年下の奥様は、1年余りの闘病ののちに亡くなられたとのことですが、樋口さんいわく「家族がうろたえる中、本人は愚痴や泣き言をほとんど言わずに泰然と死んでいった」そうです。「怒りっぽく、欠点も少なくなかった」という奥様が、なぜ<あっぱれな最期>を迎えられたのでしょうか? 樋口さんがその人生を振り返りつつ古今東西の文学・哲学を渉猟し「よく死ぬための生き方」を問います。

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ステージ3——抗癌剤治療始まる


妻が癌を発症したのは、私が大学教授の職を定年でやめ、時間を決められて外出するのは週に3日間ほどだけで、あとは自宅で物書きをしたり、かかわっている機関の仕事をするようになっていた時期だった。

妻は私が印税や教育関係の仕事のために経営している従業員のいない零細企業の経理を担当していたが、たいして収入のない会社なので、それほどの仕事もなく、ほぼ専業主婦として生活していた。

経済的に困っているわけではなかったが、もちろんたっぷりの余裕があるわけでもなく、東京多摩地区の駅から徒歩20分ほどかかる郊外に居を構えて暮らしていた。

妻は自覚症状があって産婦人科医院に出かけ、癌の疑いがあると知って、近くの大病院で検査を受けたのだったが、検査の直前まで、夫である私にもそのことは伝えず、何事もなかったかのように日常生活を送っていた。検査の前日に初めて私に打ち明け、驚く私を尻目に一人で検査を受け、一人で結果を聞きに行った。私が同行することを申し出たが、一人で大丈夫だといって聞かなかった。

癌とわかってからも、特に態度に変化はなかった。私に癌を伝える時も、うろたえる私を前にして、きわめて平静だった。確かに、最初は「ステージ1であると考えられる」と聞いていたので、それほど命にかかわる事態とはとらえていなかったのかもしれないが、それにしても冷静そのものだった。

その後、手術を受けると、ステージ3であるらしいことが判明した。抗癌剤治療を始めた。状況によっては数時間、時には一日入院して、治療を受けた。

副作用によって髪の毛が抜け始める


そのころから病院にはなるべく私が同行するようにしたが、それは妻一人では医師の話を聞き漏らしたり、検査の後の車の運転が危険なのではないかと考えたからだった。診察がなく、危険性のない検査だけの時には、妻は車を使って一人で出かけようとするのが常だった。

その時点では、危惧していたよりは抗癌剤の副作用は大きくなく、自宅にいても、妻はときどき、横になることが増えた以外は、大きく病状が悪化することはなかった。

ただ、副作用によって髪の毛が抜け始めた。妻は元から帽子を愛用していたが、様々なタイプの帽子を購入、またウィッグも注文して、専門店にまで出かけていた。

髪の抜けた頭部を私にも見せることはなかったが、それについても特に気に病んでいる様子はなく、「こちらの方が似合うかなあ」などと言いながら、通信販売で帽子を選んでいた。そして帽子をかぶってあちこちに出かけていた。

市民講座にも参加し、以前と同じような生活を続けていた。妻は服装にはあまり気を遣わず、質素な服装で通し、ほとんどの衣料を通信販売やスーパーで購入していたので、それに安物の帽子のコレクションが増えた形だった。

医師の答えの歯切れが悪く


年末に近づいて、検査結果がよくなかったとみえて主治医の言葉が曖昧になってきたころから、妻の診察には必ず私か、私の都合が合わない時には息子が付き添うようになった。
こちらから質問しても、医師の答えの歯切れが悪くなってきた。そして、「念のために、MRI検査をしてみましょう」ということになった。そして、その結果が出ると、「CT検査もしてみましょう」と言い出した。

家族は、よくはわからないまま、不安に駆られた。職業柄、何かと緻密に調べることを好む息子は癌関係の本を何冊も読んで妻の状況があまりよくないこと、かなり深刻な状態であることを察知して、私や娘にあれこれと知識を示すようになった。私たちにも深刻さが理解できるようになった。

だが、その時も、妻は特に慌てる様子もなく、深刻にとらえる様子もなく、いつも通り、お笑い番組を見ては大声で笑い転げ、連続ドラマを見ては、「そんなバカなことはあり得ない」「脚本がなってない」などと辛辣な意見を口にした。
ニュースを見ては総理大臣や都知事や様々な役職の人を批判していた。動植物や寺院仏閣を取材した番組を録画して好んで見ていたが、以前と同じようにいつのまにか眠りこんでいることも多かった。夜も、私が眠れずにいる時にもすぐに寝息を立てた。健康なころとまったく変わりのない生活をしていた。

2022年の1月、検査の結果、再発が確認された。遠回しの表現だったが、「完治はできない。これから癌が広がらないようにできるだけの治療はするが、これまでよりもひどい副作用に苦しむ恐れがある。これからは癌とともに生きていくしかない」ということが伝えられた。

セカンドオピニオンを受けに築地へ。一緒に食べた鮨のおいしさ


念のため、セカンドオピニオンを受けてみることにした。築地にある国立がん研究センターに出かけて、専門医に詳しい話を聞いた。主治医とは異なって、もっと率直な言葉で厳しい内容を伝えられた。ひとことで言えば、「緩和ケアしか残されていない」とのことだった。

深刻な話を聞いた後、妻と二人で電車を使って自宅まで帰った。そのころはまだ妻はふつうに歩くことができた。妻はその時も、ふだんと変わりのない態度だった。そもそもがん研究センターに行く前、昼食時だったので、これを機会にと築地に行って鮨を食べた。
すでに市場は豊洲に移っており、閑散としていたが、おいしい魚介類は食べられた。妻は「思ったよりも高い。おいしいけれど、もっと安くていいなあ」などと感想を言いながら、ふつうに平らげていた。築地から豊洲への市場移転問題について自説を付け加えるのも忘れなかった。

もしかして状況を把握していないのではないか、医師の話を十分に理解できずに楽観的にとらえているのではないかとさえ疑いたくなるほどだった。明るい声で、厳しい内容を語った医師についての辛辣な人間観察を披露し、大江戸線の騒音のひどさに怒りながら、家に帰った。そうした態度をとるのはいつものことだった。

そのころだっただろうか。妻がふと漏らしたことがある。

「私、あんまり頭がよくなくってよかった。頭のいい人だったら、きっと癌のことをあれこれ調べたり、考えたりするんだろうけど、私はそんなことないんで、あまり気にせずにいられる」

実感だったのだろうと思う。ただし、「頭が悪いから」というよりも、あくまでも妻の考え方、世界観によるのだと思うが。
※本稿は『凡人のためのあっぱれな最期』(幻冬舎)の一部を再編集したものです。

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