小説家・吉村昭「最も気持が安まるのは書斎」遺言通りに、骨壺は書斎に置いて。妻・津村節子の家には、今も夫婦の歯ブラシ2本が並ぶ

2024年3月13日(水)12時30分 婦人公論.jp


作家の吉村昭さん(写真提供:新潮社)

『星への旅』で太宰治賞を、『戦艦武蔵』や『関東大震災』で菊池寛賞を受賞した吉村昭と、『玩具』で芥川賞を受賞した津村節子。小説家夫婦である2人は、どのようにして結ばれて人生を共に歩んだのか、そして吉村を見送った後の津村の思いとは。今回は、吉村が旅立った後の家族の様子をご紹介します。

* * * * * * *

死期を悟っていた吉村昭


吉村は朝食を終えて書斎に入ると、まず前日の日記をつける習慣があった。

日記には天候とその日の出来事しか書いていない。日記をつけ始めたのは、学習院高等科に入ったときからで、会社勤めのときなどは一時中断したが、再開してからは博文館の一年の日付が印刷された当用日記を愛用していた。

亡くなった年の1月1日の摘記欄には、〈これが、最後の日記になるかもしれない。〉と書いている。日記は入院中の7月22日まで毎日つけられていた。『死顔』の「遺作について——後書きに代えて」には次のようにある。

〈7月18日の日記に、——死はこんなにあっさり訪れてくるものなのか。急速に死が近づいてくるのがよくわかる。ありがたいことだ。但(ただ)し書斎に残してきた短篇「死顔」に加筆しないのが気がかり——と記されている。〉

おそらくこの時点で死期を把握したのだろう。司はこの日記を読んでいたという。

「父の日記は亡くなった7月のところを読みました。7月に入って字が乱れていて、文字が思い出せないと書いてありました」

吉村の看病に専念しなかったことを後悔


津村も、のちになってその頃の日記を読んだ。

〈節子、寝ているうちに帰る。〉

入院中に吉村が記したその一行に、津村は打ちのめされた。病室での夕食を終え、吉村が眠るのを見届けて津村は家に帰った。

吉村の病は予期せぬものだったので、津村は連載の仕事を引き受けていた。

作家であることと、妻であること。愛する夫の今際(いまわ)の際(きわ)に、なぜ妻だけの存在でいられなかったのか。仕事を中断し、看病に専念しなかった悔いに津村はさいなまれた。


『吉村昭と津村節子——波瀾万丈おしどり夫婦』(著:谷口桂子/新潮社)

残された妻としての気持ち


思い出すのは、ベッドの傍らに蒲団を敷いて寝た最後の一週間だった。

亡くなった翌年の、瀬戸内寂聴と大河内昭爾との「友として、夫として、そして作家として」と題した吉村の追悼鼎談で、津村は吐露している。

〈吉村が亡くなってから家じゅう、町じゅう、思い出すことばかりで、もうこの家も要らないし、吉祥寺の町も嫌になってしまい、私のことも吉村のことも誰も知らないどこかの町へ行って、そこにマンションでも借りて住もうかなと思ったのです。〉(「小説新潮」平成19年4月号)

そう願っても、家には弔問客が途切れず訪れていた。吉村の未発表作品を刊行するため、編集者の出入りもあった。作品のゆかりの地での回顧展の対応など、吉村に関する様々な仕事に追われた。とても家を離れて逃避するわけにはいかなかった。

人の出入りの多い家では泣くこともできず、津村は井の頭公園のはずれの、周囲に人家がないところで声を限りに泣いた。

自伝的小説でも次のように記す。

〈育子は50年も連れ添った夫が死を覚悟したことさえ察せずに、夫と最後の会話を交わすことはなかった。(略)
仕事を優先させている妻をかたわらに、夫は凍るような孤独を抱いて死んだに違いない。人々は、あれほどの力作を数多く書き遺した満足感があっただろう、と言う。しかし、霊界を信じない夫が闇の世界へ一人で旅立って行く時、この世に残した仕事に対する満足感など思い浮ぶ筈はない。〉(「声」『遍路みち』所収 講談社文庫)

家ではなく書斎に帰りたがった吉村


遍路に出たいと思いながら、実現したのは吉村の死去から4ヶ月後の11月だった。3泊4日の日程を捻出し、タクシーで徳島県の1番札所の霊山寺(りょうぜんじ)から高知県の29番札所の国分寺までまわった。

遺骨は一年間家に置いてほしいと、遺言にあった。それに従って家の祭壇に置いていたところ、司が次の一文に気づいた。

〈私にとって最も気持が安まるのは書斎で、死んだ折には机の上に骨壺を納骨時までのせておいて欲しい、と家人に言ってある。〉(『私の好きな悪い癖』講談社文庫)

地方の取材先から、吉村が早く帰りたいと思ったのは、家ではなく書斎だった。遺骨は書斎の机に移し、すぐにでも書けるように原稿用紙とペンを置いた。

一周忌には親族で越後湯沢の墓所に納骨を済ませた。それを待って、津村は吉村との思い出の家を建て替えた。

〈家を壊したいということは、夫が刻々と迫る死の時を見極め、目の前で点滴を引きぬいて死を迎えた病室を壊したいということが第一であった。〉(「声」『遍路みち』所収 講談社文庫)


私にとって最も気持が安まるのは書斎、と生前話していた(写真提供:新潮社)

念願だった家を壊す時


賃貸のアパート暮らしから、ようやく築いた終の棲家だった。家に関心がなかった吉村でさえ、〈もう金のことは心配なくなった。あとは家の新築だ。あせらずすばらしいのを造ろうじゃないか。〉と心臓移植の取材で訪れた南アフリカのケープタウンから手紙を書いている。

家賃が払えず、郊外へと転居を繰り返していた頃の心境を津村は綴っていた。

〈育子は、近くに民家や商店のある町なかに住みたい、そしていつか自分の家を持ちたいと切実に願った。誰も降りて来ない終電が通り過ぎた駅の淋しさと、鰊(にしん)が来なくなりゴーストタウンのようになった根室半島の花咲港の、千島列島が見えるさい果ての海の色は、長く長く育子の胸に残った。〉(「声」『遍路みち』所収 講談社文庫)

新婚当時、行商で訪れた「さい果て」の光景は、津村の心に深く刻まれたものだった。そこから二人で死に物狂いの精進を重ね、念願かなって手に入れた家を壊すというのだった。

〈離れの夫の書斎だけを残し、38年間住んでいた家を建て替えるにあたってどれほど物を捨てたかわからない。(略)

思い出多い家財道具がつぎつぎに粗大ゴミとして運び出されて行く時は、さすがに胸が詰った。〉(『夫婦の散歩道』河出文庫)

家を壊すところを見るんじゃないよ、と司に言われた。長女一家との二世帯住宅が完成するまで、津村は3LDKのマンションで半年間暮らした。

家の近くの曲がり角に吉村の姿を見て


越後湯沢のマンションは、子供たちの家族が冬のスキーや夏休みなどに行くのを楽しみにしているので売るわけにいかない。そこには吉村の気配が濃厚に漂っていた。一人で泊まることができないので、司の車で向かった。

そうして吉村の亡きあとも、そこかしこに気配を感じていると、奇妙なことが起こった。

家の近くの曲り角に、吉村が立っていたのだ。初めて見たのは亡くなった年の歳末の夕闇だった。

〈秋が深まって公園の落葉が厚く散り敷かれるようになると、夕闇が濃くなる頃、家の近くの道の曲り角に夫の姿が現れる。この情景を短篇小説の中に書いたことがあるが、今の季節は、もっともよく見える。〉(同)

没後5年の瀬戸内との対談でも、津村は語っている。

〈あのね、まだ吉村の姿を見るときがあるの。今の季節はダメだけど、木枯らしが吹き始めてから、春先くらいまでの、いわゆる黄昏どきに、家のそばの電柱に、お気に入りのチャコールグレーのトレーナーを着た吉村が立っているのね。(略)私が眼を悪くしたとき、帰り道で私が転ばないか、心配した吉村がいつもそこに立ってたんだけど、その姿が今も見えるのよ。〉(「文藝春秋」平成23年9月号)

吉村の姿の正体は


その姿の正体はコンクリートの電信柱で、吉村の背丈の位置に「通学路」と書かれた文字が、眼鏡をかけた吉村の顔に見えたのだった。

長女は最初気の迷いだと言っていたが、しばらくしてから血相を変えて「お父さん、立ってたわ」と。正体がわかってもなお、同じ電信柱を見た長女の目にも吉村の姿が映ったのだった。

孫も顔色を変えて、「じいじがいた」と泣いた。

死んだら無、ではないのだろう。

長女一家との二世帯住宅の津村側の表札は、「津村 吉村」となっている。その洗面所のコップには、吉村と津村の歯ブラシが2本並んでいる。

※本稿は、『吉村昭と津村節子——波瀾万丈おしどり夫婦』(新潮社)の一部を再編集したものです

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