『光る君へ』藤原道長のもう一人の妻・源明子の生涯、父は光源氏のモデル?道長の兄たちも明子に懸想していた?

2024年4月8日(月)8時0分 JBpress

今回は、大河ドラマ『光る君へ』において、藤原道長のもう一人の妻・瀧内公美が演じる源明子を取り上げたい。

文=鷹橋 忍


父は光源氏のモデルの一人?

 源明子は、康保2年(965)頃に生まれたとされる(ここでは、明子の年齢を康保2年で計算する)。

 康保3年(966)生まれの道長より一つ年上で、康保元年(964)生まれの黒木華が演じる源倫子より一つ年下である。

 紫式部の生年も諸説あるが、仮に天延元年(973)説で計算すると、明子が8歳年上となる。

 父は、左大臣源高明だ。高明は醍醐天皇の第十皇子で、「源姓」を賜わり臣籍に下った。有職故実書『西宮記』を著わしたことでも知られる。

 高明は、『源氏物語』の主人公・光源氏のモデルの一人といわれている。

 母は、道長の祖父である藤原師輔の娘・愛宮。愛宮の母は、醍醐天皇の皇女雅子内親王である。


「安和の変」で父が失脚

 高貴な血筋に生まれた明子だが、冷泉朝の安和2年(969)3月、明子が数えで5歳のころ、「安和の変」父・源高明が失脚してしまう。

 高明は村上天皇の子である為平親王を娘婿に迎えていたが、高明が首謀者となって為平親王を擁立し、冷泉天皇を廃しようと企んでいるとの密告により、高明は大宰権帥として九州に左遷させられたのだ。

 高明に代わって、藤原師尹(藤原師輔の弟)が左大臣に昇った。

 繁田信一『天皇たちの孤独 玉座から見た王朝時代』では、「高明謀反」の密告は虚偽であり、安和の変を仕組んだのは、段田安則が演じる藤原兼家と、兼家の兄・藤原伊尹であっただろうとしている。

 いずれにせよ、高明の政治生命は絶たれた。

 祟りを恐れて朝廷は高明を赦免し、天禄3年(972)に帰京が叶うも、葛野に隠棲し、天元5年(983)、69歳でこの世を去っている(『人物・日本の歴史 第3巻 川崎庸之編「王朝の落日」』)。


道長の姉・詮子に引き取られる

 明子の母・愛宮も、安和の変の後、出家しており(藤原道綱の母『蜻蛉日記』)、明子は叔父の盛明親王(高明の同母弟)養女に迎えられた。

 歴史物語『栄花物語』巻第一「月の宴」によれば、明子は姫宮として大切に育てられたという。

『天祚禮祀職掌録』(『群書類従 新校 第二巻』所収)には、「右、明子女王 前上総太守、盛明親王女」という記述があり、皇籍に正式に編入され、本名は「明子女王」に変わったと考えられている(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』 東海林亜矢子 第五章「道長が愛した女性たち ◎次妻源明子、ツマ藤原儼子・藤原穠子・源重光娘」)。

 盛明親王が寛和2年(986)5月に薨じた後、明子は道長の姉・吉田羊が演じる詮子に引き取られた。


道隆も道兼も明子に懸想していた?

 歴史物語『大鏡』第五 大臣列伝「太政大臣道長」には、東三条第の屋敷の東の対を区切り、女房、侍、家司、下人まで別にあてがって、詮子が明子を大切に世話したことが記されている。

『栄花物語』巻第三「さまざまのよろこび」によれば、どの殿方も明子を我が妻にしたいと思っていたが、その中でも井浦新が演じる藤原道隆はうるさいくらいに明子に懸想していたという。

『大鏡』にも、詮子の兄弟の若君たち(道長や、藤原道隆、玉置玲央が演じる藤原道兼など)が、「我も、我も」と明子に付け文などを送ったとある。詮子は彼らを上手に嗜めたが、道長だけを許し、道長は明子のもとに通うようになったという。

 明子と道長の結婚の時期は、道長が正妻の源倫子と結婚した永延元年(987)より少し後だとされる(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)が、明子のほうが先に道長と結婚したとする説もある。

 明子は結婚後、亡父の源高明から伝領した高松殿に住み、「高松殿」と称されるようになった。


正妻・倫子との差

『大鏡』には、「この殿(道長)には、北の方がお二人いらっしゃいます」と記されているが、道長が同居し、毎日のように行動をともにした倫子が正妻であり、明子は次妻、もしくは妾妻であったという(服藤早苗 高松百花 編著『藤原道長を創った女たち—〈望月の世〉を読み直す』 東海林亜矢子 第五章「道長が愛した女性たち ◎次妻源明子、ツマ藤原儼子・藤原穠子・源重光娘」)。

 秋山竜次が演じる藤原実資の日記『小右記』長和元年(1012)6月29日条では、明子に「高松左府妾妻」との注を入れており、当時の貴族たちからも、明子と倫子は同格とはみなされていなかった(梅村恵子『家族の古代史 恋愛・結婚・子育て』)。

 明子は、倫子と同じく、道長の子を6人産んでいる(明子は四男二女、倫子は二男四女)。

 だが、明子の子どもは倫子の子どもに比べ、昇進や結婚相手などにおいて、明確な差がつけられていた。


85歳まで生き抜いた

 明子は寛仁3年(1019)、55歳のときに、倫子より早く出家している。これは道長の病気治癒を願ってのことだという(梅村恵子『家族の古代史 恋愛・結婚・子育て』)。

 道長は万寿4年(1027)に62歳で死去するが、明子はその後も生き続け、永承4年(1049)7月22日、85歳で亡くなった。

 90歳で亡くなった倫子には僅かに及ばないものの、当時としてはかなりの長命であった。

 道長が公的な場所に伴うのは倫子だけであり(梅村恵子『家族の古代史 恋愛・結婚・子育て』)、道長の日記『御堂関白記』に、倫子は300回以上も登場するのに対し、明子の登場は36回しかないという(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

 その『御堂関白記』寛弘6年(1009)7月19日条には、病気の明子を見舞ったと記されており、道長が明子に寄り添うこともあったようだ。

 道長との結婚生活が、幸せなものだったと信じたい。


【源明子ゆかりの地】

●高松神明神社

 京都市中京区にある神社。

 明子の父・源高明が7歳の時に、邸宅として「高松殿」を造営したさいに、伊勢から天照大神を勧請して祀った「鎮守の社」が始まりと伝わる。

 境内には、寛政6年(1794)に、紀州九度山の真田庵に安置されていた真田信繁(幸村)の念持仏を拝領したという「幸村の知恵の地蔵尊」がある。

 地蔵堂の台石をさすり、その手で子どもの頭をなでると、知恵を授かるという。

筆者:鷹橋 忍

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