銀行業の先駆けだった「三井大坂両替店」。江戸時代に行われていた、借主への信用調査の実態とは

2024年5月10日(金)12時30分 婦人公論.jp


日本初の民間銀行創業の発端となった「三井大坂両替店」。今回は、信用調査で、周囲から不品行と噂された顧客を紹介します。(写真はイメージ。写真提供:写真AC)

日本初の民間銀行創業の発端となった「三井大坂両替店」。1691年に開設されたが、元は江戸幕府に委託された送金役だったという。そこから、民間相手の金貸しへと栄えるまで、どのような道のりだったのか。三井文庫研究員の萬代悠さんが、三井文庫の膨大な資料を読み解き、事業規模拡大までの道のりを著した『三井大坂両替店』(中公新書)。今回は、金貸しの事業として発展するために重要だった信用調査で、周囲から不品行と噂された顧客を紹介します。

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散在し強制隠居を受けた先代家長


島之内鰻谷(しまのうちうなぎだに)(現大阪市中央区)の吉野五運(よしのごうん)家は、享保12年(1727)に開業したといわれる合薬屋(あわせぐすりや)(調合した薬の小売業)であり、人参三臓円(にんじんさんぞうえん)という家伝の合薬を製造し、販売していた。

これを発売した寿斎(じゅさい)(1722〜88)を初代とすると、とくに五代の庸斎(ようさい)は、脚本家の浜松歌国(はままつうたくに)(1776〜1827)らを後援した人として知られる。

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右五運方〔については〕商売向(しょうばいむき)は手広くいたし、よき家督にて、家内は温和、多人数が暮らし、身上向(しんじょうむき)(家計状態)は至極よろしいとのこと、前から承りに及んでいました。

しかしながら、右〔父親の〕勇助については、先年より素行がよろしくないので、名前も退かせ、当時は隠居の姿にて、〔吉野五運家に〕同居しておりますとのこと。

もっとも、去る亥年((寛政三年)、島之内火災後の再建工事の入用にてよほど出費がありましたとのこと。居宅については立派に工事が完了しましたが、〔居宅の鰻谷は〕甚だ淋しき場所にございます。ほかに抱屋敷は別紙のとおり、いずれも類焼し、いまだ二か所については再建工事が済んでおらず、まさに記したとおりの時価にございます。

すべて売薬店のこと。とくに勇助の人柄がよろしくなく、山懸(やまかか)り(大言壮語)のようにも聞こえましたので、まずは望みがないものにございます。

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この信用調査は、三井京都両替店が三井大坂両替店に依頼したものだ。大坂両替店の手代が調査し、京都両替店に調査結果を返送した。

吉野五運は、遅くとも19世紀初頭には江戸・京都に支店を開業していたというから(松迫寿代「近世中後期における合薬流通——商品流通の一例として」(『待兼山論叢 史学篇』第29号、1995年)〉、吉野五運の支店が京都両替店に借入を希望したところ、京都両替店が五運の大坂本店を調べようとしたことになる。

不品行で隠居させられた勇助


さて、この信用調査で登場する勇助とは、おそらく二代の融斎(ゆうさい)であろう。寛政6年(1794)成立の洒落本(しゃれぼん)『虚実柳巷方言(きょじつさとなまり)』(大坂の遊里での会話や言動に関する文学作品)では、融斎は、「粋株(いきかぶ)」(遊興に秀でた者)・「大尽株(だいじんかぶ)」(大金で豪遊する者)の一人に数えられ、素人芝居(非役者の素人狂言)の演技者でもあったという〈宮本又次『大阪商人』(講談社、2010年)〉。

信用調査によると、二代勇助(融斎)は不品行で家長の名前(五運)を取りあげられ、隠居の姿になっていたとある。調査当時で勇助の年齢は40歳であったから、勇助は30代の若さで隠居したわけだ。

勇助の不品行の中身は、おそらく遊興や遊芸への大散財だが、ここでは「名前も退かせ」(史料原文は「名前も相退(あいしりぞ)かせ」)とあることに注目したい。これには、江戸時代の「家」制度が大きく関係している。

この「家」とは、固有の家名、家産、家業を持ち、先祖代々への崇拝の念とその祭祀を精神的支えとして、世代を超えて永続していくことを志向する組織体だ〈大藤修『近世農民と家・村・国家——生活史・社会史の視座から』(吉川弘文館、1996年)〉。

江戸時代の家長


とくに家産とは、家長が子孫に継承すべく先祖より譲り受けた財産であり、当代家長は「家」の一時的な代表者として家産を管理する管財人(かんざいにん)に過ぎなかった〈中田薫『法制史論集 第一巻』(岩波書店、1926年)〉。

あくまで家産は「家」の所有物であった。しかも、当代家長は家産管理に不適格であると親族(家族、親類)会議が判断した場合、親族たちは当代家長を強制的に隠居させることができた。

跡継ぎが不在であっても養子を入れて隠居させたし、最悪の場合、「家」から追放する可能性もあった〈大藤修『近世農民と家・村・国家——生活史・社会史の視座から』(吉川弘文館、1996年)、萬代悠「畿内豪農の「家」経営と政治的役割」(『歴史学研究』第1007号、2021年)〉。これが不行跡(不品行)の家長に対する強制隠居である。

江戸時代の家長は、親族から不断の監視と牽制を受け、強制隠居を通告されないためにも、真面目かつ勤勉に働く必要があった。

この意味で、家長の言動は「家」制度から制約を受けていた。換言すれば、当代家長は、先祖から続くリレー走の一走者で、家長というバトンを未来の走者(家督継承者)に渡す役割を担っており、走者として不適切だと親族に判断されると、強制的に走者から外されたわけだ。

なぜ勇助は散財を続けたのか


話を二代勇助に戻そう。上記をふまえると、勇助は遊興や遊芸に散財しすぎて、親族たちから強制的に隠居させられたことになる。しかも、勇助は、隠居したあともなかなかに癖のある人物であったようだ。

このような勇助の処遇と人物像は、これまでの研究で明らかにされたことはなかった。信用調査書が新たな情報を提供した好例である。

結局、大坂両替店の手代は、吉野五運家が富裕層であると認識しつつも、家長への強制隠居を起こした吉野家に不安を覚え、融資を迷う京都両替店に反対の意を示した。身上が至極よいと評価されても、強制隠居の実行は極めて大きい欠点となったことがわかる。

なお、なぜ勇助は、強制隠居に及ぶまで散財を続けたのか。これは必ずしも、強制隠居を恐れず放漫であったことを意味しない。四代寛斎(かんさい)も五代庸斎も、家伝の合薬を宣伝するためには交際費を惜しまなかったというから〈宮本又次『大阪商人』(講談社、2010年)〉、勇助は、本気で遊興・遊芸への散財が家業拡大の必要経費だったと考えていたのかもしれない。

だからこそ、彼は大言壮語を吐く者と評されたのであろう。勇助にとっては散財が合理的であったが、親族にとっては危険であった。

※本稿は、『三井大坂両替店——銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書)の一部を再編集したものです

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