廃藩置県で26県が存在した房総に「千葉県」が誕生するまでの複雑な事情と経緯

2023年10月18日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)

◉千葉県の誕生150年—廃藩置県と房総の特殊事情①


維新後に転封された諸藩

 千葉県が誕生してから、2023年は150年の節目である。前回は明治維新前後の房総の状況を、府藩県三治制によって誕生した宮谷(みやざく)県、葛飾県を中心に述べたが、その他に25藩が存在していた。その中には、明治維新後に移動させられた諸藩も含まれる。まずは、その事情を確認しておこう。

 江戸幕府の瓦解後、15代将車徳川慶喜が隠居し、後継者の徳川家達は府中(静岡)藩70万石を立藩した。徳川宗家(旧将軍家)は、一大名家の立場に転落したことになる。その影響を受けて、玉突きのように移動を余儀なくされた駿河・遠江両国内(現静岡県)の7藩は、旧幕府領が多く分布し、代替地の取得が容易な房総地方へ転封させられたのだ。この処置は、各藩自らの意思でなく、新政府による強制的な施策の一環であった。

 その他、明治以降に房総に転封された藩としては、下野国(現栃木県)高徳から曽我野藩、羽前国(現山形県)長瀞から大綱藩がある。明治3年(1870)末の時点で、房総に25藩(飛地を除く)が存在していたことになり、その他に宮谷県、葛飾県が存在するなど、全国でも例を見ない極めて入り組んだ複雑な様相を呈していたのだ。


版籍奉還の実現

 府藩県三治制により、藩も府県と並ぶ明治新政府の地方行政機関の位置付けを与えられていた。しかし、府県と相違して新政府の人事権は及ばず、依然として封建的領土である藩主(諸候)を頂点にいただく、半独立国のような状況は不変であった。

 明治2年(1869)1月、新政府の中核的存在である長州・薩摩・肥前・土佐の4藩主が連名で、土地(版)と人民(籍)を朝廷・天皇に返上する旨を奏上した。それを契機に、全国の諸藩が続々とこれに追随したのだ。

 ところで、諸藩主の思惑はどのようなものであったのだろうか。幕府に代わって、新政府から支配継続の承認を獲得する期待があったことは間違いない。しかし、より一層大きな理由は、戊辰戦争の負担や財政の悪化による借金を、新政府が肩代わりする期待があったからに他ならない。

 同年6月、新政府がこれらの申し出を聞き届ける形で、「版籍奉還」が実現した。各藩主は、改めて「知藩事」に任命され、これ以降は知藩事の家禄は藩財政から切り離され、藩の実収石高の10分の1に限定となり、しかも藩士と藩士間の主従関係も否定したのだ。

 しかし、その実態は旧態依然の状態が継続する場合が多数存在しており、明治政府の意向が届きにくい存在のままであった。


廃藩置県と房総26県の誕生

 明治新政府は、藩が存在したままの現状の郡県制国家のままでは、殖産興業や富国強兵といった政策を実施するには、極めて不都合であると感じていた。欧米列強の侵略を阻止し、追いつき追い越すためには、近代的諸施策を強力に推進する必要があり、そのためには、天皇をいただく中央集権的な国家建設は必須なものであったのだ。 

 版籍奉還で各藩の独立権限は喪失したものの、知藩事の職は実質的には旧大名家による世襲制であり、各藩ばらばらの税制や独自の軍隊の所持など、藩の存在が中央集権化を進める上で大きな支障であった。そこで、薩摩藩・長州藩・土佐藩の出身官僚を中心に、廃藩置県の機運が急速に盛り上がった。この時、幕末に欧米を実際に見てきた長州ファイブや薩摩スチューデント、その意見を尊重した各旧藩の指導者のイニシアティブは重要であり、評価すべきである。

 明治4年(1871)7月14日、全国一斉に廃藩置県は断行された。事前調整もない、政府からの一方的処断であったが、藩の借金などは政府が肩代わりし、知藩事や藩士(士族)の収入(家禄)も当面は保障したため、特に混乱もなく藩は消滅し、そのまま県に置換されたのだ。

 廃藩置県により、全国には3府302県が誕生したが、この時に千葉県は誕生していない。房総3国では、藩名をそのまま引き継いだ24県が成立し、既に存在する宮谷県と葛飾県を含めると、なんと26もの県が房総3国内にひしめきあった。現在の千葉県域に限っても、24県となり、これは都道府県別で見ると全国1位である。小藩が、いかに多数存在していたかの証拠にもなるであろう。

 なお、東京への強制移住を命じられ、知藩事がいなくなった各旧藩(新県)では、ナンバー2の大参事がこれまでの知藩事の職務を代行することになった。廃藩置県は、まさに大革命であり、実質的な「明治維新」がこの段階でなされたといっても過言ではないのだ。


房総3県(印旛・木更津・新治)への統合

 廃藩置県で26県となった房総地方は、それ以前のように、それぞれの県の管轄地の錯綜状況は不変のままであった。よって、県の統廃合は必然的な成り行きであり、廃藩置県において、知藩事不在の旧藩の県に新しい知県事が配置されなかった事実は、県の統廃合の早急な実施を示唆したものと言えよう。

 明治4年10月から11月にかけて、改置府県と呼称される全国的な府県の統廃合が実施された。全国の3府302県は、3府72県に縮小され、房総も一気に整理統合された。その結果、房総3国内には印旛県・木更津県・新治県が新たに誕生し、3県のみの様相となった。ちなみに、改置府県を機に全国的に錯綜した管轄区域の解消が計画され、その後も統廃合が実施されて、明治21年には現在の府県数と名称が確定することになる。

 房総3県時代は、明治4年末から同6年(1873)6月の千葉県誕生までの2年に満たない期間であった。いよいよ、千葉県の誕生が目前に迫ったのだ。


廃藩置県の実施から約2年後、千葉県の誕生

 宮谷県知事職の柴原和(柴山典の後任)は、宮谷県などを合併して誕生した木更津県でも、引き続き権令(実質県令)として県政を担当した。明治6年2月から、隣接する印旛県権令も兼任したが、このように、複数の県のトップを同一人物が兼任する例が散見された。この事実は、新たに県の合併を促す一因となったのだ。

 明治6年6月15日、木更津県と印旛県が合併し千葉県が誕生した。県庁は、両旧県の接する地である千葉町(今の千葉市)に設置された。しかし、新治県は合併対象にならず、香取・海上・匝瑳の東総3郡は千葉県の誕生時には県域に含まれなかった。逆に、このとき誕生した千葉県は、現在は茨城県に属する猿島郡(今の古河市など)や結城郡(今の結城市)などを含む西北部を包摂していた。

 千葉県の姿がほぼ今の状態に確定するのは、明治8年(1875)5月の新治県の分割編入時であった。江戸幕府が瓦解し、廃藩置県で多数の県が誕生し、また改置府県以降は多数が消滅したが、千葉県の誕生やその在り方は全国でも極めて希有なケースであったのだ。

筆者:町田 明広

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