「八月十八日の政変」の首謀者は高崎正風か?それを裏付ける証拠と歴史的意義

2023年12月20日(水)6時0分 JBpress

(町田 明広:歴史学者)

◉八月十八日政変160年—黒幕は中川宮と高崎正風か①
◉八月十八日政変160年—黒幕は中川宮と高崎正風か②
◉八月十八日政変160年—黒幕は中川宮と高崎正風か③


八月十八日政変における孝明天皇の立場

 文久3年(1863)の八月十八日政変によって、それまで京都を牛耳ってきた長州藩や三条実美ら過激廷臣といった即時攘夷派は、中川宮や薩摩藩・高崎正風を中心とする未来攘夷派のクーデターによって政権の座を追われ、京都から追放されてしまった。

 そもそも、孝明天皇は即時攘夷を唱えており、破約攘夷の実現を幕府に迫り、即時攘夷派と歩調を合わせてきた。しかし、実際に外国船を砲撃する攘夷実行を行ったのは、長州藩のみとしても過言ではなく、即時攘夷派にとっては、極めて不本意な実情に直面していた。

 そこで、即時攘夷は孝明天皇を御所から出御いただき、攘夷実行の陣頭に立っていただくことを画策した。いわゆる、「大和親征(行幸)」である。しかし、孝明天皇の反応は長州藩の期待に反するものであった。天皇は、攘夷実行はあくまでも武臣がすることであり、天皇自ら廷臣を引き連れてまで行うものではないとの認識であった。攘夷実行は実現すべきであるが、長州藩はやり過ぎであるとの思いを強くした天皇は、中川宮に政変実行を指示したのだ。


八月十八日政変の首謀者は高崎正風か

 孝明天皇から政変決行を促された中川宮が頼るべき武臣は、薩摩藩の高崎正風であった。この高崎が政変の画策・実行における最も重要な人物である。その証拠として、政変後の特別褒賞が、しかも朝廷から幕府まで広範囲にわたって高崎に集中しているのだ。これは高崎が政変の主役であり、かつ、その事実が関係者にはある程度流布していたことに他ならない。

 確かに、八月十八日政変の最重要主体は孝明天皇であり、次に中川宮であることには異論を挟む余地はないが、高崎正風の関与はまさに首謀者と呼べるものである。高崎なくして、八月十八日政変はあり得なかったのだ。


八月十八日政変における長州藩

 ところで、京都を牛耳り、朝議を主導していた長州藩が、なぜいとも簡単にクーデターを許してしまったのだろうか。その鍵は、越前藩の動向にあった。越前藩は即時攘夷派を排除するため、松平春嶽の率兵上京を画策していた。

 長州藩は、その情報に過敏に反応し、注意をそちらに集中させていたため、高崎正風らの暗躍を見逃してしまったのだ。桂小五郎、久坂玄瑞といったそうそうたるメンバーを長州藩は擁していたが、何もかも把握することは困難であった。

 結果として、長州藩は退京せざるを得なくなり、その道ずれに三条実美ら7人の公家を伴って都落ちし、復権を期すことになる。そして、翌元治元年の禁門の変にまで至ることになったのだ。


八月十八日政変の歴史的意義とは

 八月十八日政変の「政変」たる所以は、関白鷹司輔煕の裁可を経ずして断行されたことにあろう。鷹司は当初参内を控え、参内後に朝議決定を伝達され、その取り消しに失敗した。八月十八日政変とは、関白を排除した朝議に基づく朝廷の人事改革であったと言えよう。

 また、薩摩藩・島津久光からの具体的な指示はなく、確かに政変それ自体は参加者それぞれの都合によって、偶発的に起こされたものであったが、それはあくまでも結果論であって、それまでの中央政局の過程が重要である。朔平門外の変、中川宮の動向、久光召命問題を通じて、薩摩藩は政変計画を検討し続けており、その背景があって初めて高崎正風の行動が可能となり、八月十八日政変に結実したのだ。

 なお、八月十八日政変は、政変主体が主導権を取って何らかの政治改革を目指そうとしたものではなく、よって「政変」と呼ぶには必ずしもふさわしくない事件であった。しかし、初めて即時攘夷派に大鉄槌を加えた事件であり、元治国是(横浜鎖港)・大政委任確立に向けての動きの起点であった。幕末史上、最重要事件の一つであり、意味合いにおいては、文字通り「政変」であったのだ。

筆者:町田 明広

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