朝ドラ『ブギウギ」もう一人の主役、羽鳥善一のモデル、服部良一の才能と生涯

2023年12月20日(水)6時0分 JBpress

(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)


朝ドラ『ブギウギ』、もう一人の主役

 NHKの朝ドラ『ブギウギ』が始まってひと月余り、趣里が演じる福来スズ子(モデルは「ブギの女王」と称された、笠置シヅ子)が草彅剛演じる作曲家・羽鳥善一(モデルは作曲家・服部良一)に厳しく歌唱指導されているテレビ画面を見ながら、今、この原稿を書いています。

 スズ子と羽鳥がまだ出逢って間もない時期で、これから長い二人の歴史が続いていくことになります。

 朝ドラではスズ子が主役なので、どこまで羽鳥との出来事がドラマ化されるかはわかりませんが、この二人の出逢いは、その後の歌謡界に新風を吹き込んだだけでなく、昭和20年代、敗戦国だった日本を元気づける大きな役割を果たしました。

 昭和60年(1985)、笠置が70歳で没したときの葬儀は、服部が委員長を務めています。

 笠置シヅ子のことは以前にご紹介していますので、今回は、もう一人の英雄、服部良一について綴ることにしましょう。


余人をもって代えがたい才人、服部良一

 服部良一の偉大なる功績をあえて短い文章で結論付けると、「大衆歌謡の世界に舶来の香りを持ち込んだ服部ソングを確立し、日本中を席巻したこと」でしょう。ジャズ、ブルース、そしてブギウギを日本風に味付けして創作したハイカラ歌謡の創始者です。

 作曲・編曲だけでなく、ユーモアあふれる作詞も数多くこなし、作詞・作曲・編曲のいわば三刀流という大車輪の活躍、さらには映画音楽、舞台音楽も加わり、昭和26年(1951)、44歳までに2000曲を量産しました。

 こうした実績を振り返りつつ、現在、NHKや民放BSで毎晩のように放送されている「昭和歌謡番組」で時折流れてくる服部ソングを聴くと、令和という今の時代でも服部の作品が十分鑑賞に堪えうる名曲ぞろいである、その事実をあらためて知ることになるのです。


大阪が育んだユーモアとジャズ感覚

 20世紀に入ってまもない、1907年(明治40年)10月1日、大阪で生まれた服部良一は、寺町にほど近い棟割長屋で幼少期を過ごしています。

 ある時期、父親が魚屋を営んでいたこともあり、後年、服部が笠置シヅ子に提供したヒット曲『買物ブギー』には、このときの思い出が込められていたのかもしれません。

『買物ブギー』が桂春団治の上方落語「ないもの買い」にインスパイアされたように、服部には、関西人の持つ笑いの素養が備わっていました。

 昭和の寄席で笑いをとり、「川田義雄とあきれたボーイズ」とともに、ボーイズもので知られた横山ホットブラザーズというお笑いバンドがいましたが、その生みの親、横山東六は、服部より5年早い明治39年(1906)に生まれ、映画楽士出身でもあったことからフルートやサックスなどを使った音曲漫才などで、昭和初期の関西で人気を博していました。

 サックス奏者だった若き日の服部とも同じカフェなどで仕事を共にしていたこともあり、服部が元来身につけていたユーモア感覚やいたずら好きな側面は、そうした友人や周囲の影響でいっそう磨きがかかったようです。

 いたずら好きは後年まで変わらず、来客を相手にコントのようなとぼけた味でからかう姿は、子供や孫たちにも印象深いものがありました。


淡谷のり子から始まった、ヒット街道

 さて、作曲家・服部良一の名を広く知らしめた女性歌手は、戦前は淡谷のり子、戦後は笠置シヅ子の二人です。朝ドラ『ブギウギ』では淡谷のり子の役を菊地凛子が演じています。

 淡谷のり子といえば、「ブルースの女王」として、女性の恋心をしっとりと歌う静かなイメージがありますが、そもそも流行歌手としてデビューしてから5年後の昭和10年、シャンソン『ドンニャ・マリキータ』をヒットさせ、日本初のシャンソン歌手としても知られていきます。

 服部と出会った最初の作品『おしゃれ娘』(昭和11年5月発売)では明るい曲調に乗ってのびやかに歌っていますが、これは服部がメジャーなレコード会社コロムビアに入社した直後に作曲したものです。

 翌年、淡谷はシャンソンの女王ダミアが歌った『暗い日曜日』をカバーしてヒットさせます。その陰鬱なムードを踏襲して、服部が提供したのが『別れのブルース』(詞・藤浦洸)で、この曲によって淡谷とともに服部もブレイクすることになります。


和製ブルースと和製ブギウギの誕生

 実際の笠置と淡谷は、どちらも長い付けまつげがトレードマークでしたが、舞台での歌唱法は対照的で、裏声を使ってせつなく静かに「ブルース」を歌い上げる淡谷、一方、大きな声を張り上げ踊りながら「ブギウギ」を歌いまくる笠置。

 戦時中、大陸の兵隊たちに圧倒的に支持された淡谷、戦後の貧しい時代に明るい笑顔で多くの人を元気づけた笠置。

 対照的ではありながら、混迷の時代に生きる人たちにひとときの安らぎや喜びを与えてくれたことは二人に共通しています。ここに、服部良一という昭和を代表する作曲家の真骨頂を見ることができます。

 ブルースとブギウギ、静と動の大衆歌謡を見事に洋楽後進曲の日本に根付かせてくれたのです。

 ただし、ここで誤解は禁物です。服部が日本に根付かせたブルースとブギウギとは、1930年代に米国で誕生した本来のブルースやブギウギとは異なる、日本の歌謡曲を下地にした似て非なる和製ブルースとブギウギでした。

 日本仕様のブルースとブギウギには、ブルースコードも使わなければブギウギ特有の「ドミソラシ(♭)ラソミ」という伴奏もあまり使われていません。

 服部は気づいていました。当時の日本人には直輸入の音楽をそのまま歌謡曲にして提供するよりも、短調の哀愁あふれるメロディーに仕上げたほうが好まれることを。

 服部が日本に定着させたこの「ブルース」とは日本独自のもの、つまり歌謡曲であって、本来の米国産ブルースが秘めている歌の本質から悲哀の感情を抽出して、女性が歌う悲恋のムードに重ねたものでした。

 ブギウギのほうは喜びの思いをエイトビートのリズムに乗せて(厳密にいうと、ブギウギ本来のリズムとは異なりますが)、明るく華やかに歌い踊らせるという目論見を優先させて創作、終戦直後のすさんだ空気を吹き払う役割を果たしてくれました。


ブルース、ブギウギ本来の源流とR&R

 ブルースとブギウギの源流は、どちらも黒人差別の色濃く残っていた時代に、彼らの心の中の悲しみや喜びが音となり声となって発せられたものでした。

 黒人霊歌などの要素も取り入れ、ブルースコードと称される繰り返しのパターンに歌詞を挿入、やがてそれはジャズと結びつき、白人たちにも浸透していきます。

 戦前、服部が耳に沁みつくほどに聴いていた洋盤レコードから流れる曲も、そうした経緯で生まれたものでした。

 第二次大戦終結後、黄金時代を迎えた米国では1950年代半ばに黒人のリズム&ブルース(R&B)を歌うエルヴィス・プレスリーが登場、エルヴィスを追いかけたバディ・ホリーが自ら歌を作りエレキギターをフィーチャーしたバンドスタイル「クリケッツ(コオロギと球技のダブルミーニング)」を誕生させます。

 この二人に夢中になったジョン・レノンビートルズとして踏襲し、白人たちが歌うR&B、R&R(ロックンロール)として世界中を席巻、という歴史が作られていくことになります。

(参考)『ぼくの音楽人生』(服部良一著、日本文芸社)
『評伝 服部良一 日本ジャズ&ポップス史』(菊池清麿著、彩流社)

(編集協力:春燈社 小西眞由美)

筆者:堀井 六郎

JBpress

「朝ドラ」をもっと詳しく

「朝ドラ」のニュース

「朝ドラ」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ