なぜ日本テレビは「セクシー田中さん」を改変したのか…元テレ東社員が指摘「テレビの腐敗」という根本問題

2024年2月2日(金)17時15分 プレジデント社

「セクシー田中さん」日本テレビ公式ホームページより

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昨年10月〜12月に放送されたテレビドラマ「セクシー田中さん」(日本テレビ)の原作者で漫画家の芦原妃名子さんが亡くなった。芦原さんは「マンガを大きく改編したプロットや脚本が提出されて(いた)」などと、ドラマ化をめぐるトラブルをSNSに投稿していた。なぜテレビ局は、原作者の意に沿わない改変を行ったのか。テレビ東京でドラマ・プロデューサーを長く務めた、桜美林大学教授の田淵俊彦さんは「テレビ業界の『ドラマ偏重主義』にトラブルの一因がある」という——。
「セクシー田中さん」日本テレビ公式ホームページより

■「セクシー田中さん」をめぐる“不幸な”事件の2つの原因


セクシー田中さん」の原作者でマンガ家の芦原妃名子氏のご冥福をお祈りするとともに、関係者の方々には謹んでお悔やみを申し上げます。


この事件が起こった直後に日テレから出されたコメントには耳を疑った。自己防衛としか思えない言葉が並んでいたからである。自己防衛をする前に、することがあるのではないかと憤りを感じた。それは昨年2023年の3月にテレビ東京を退職するまで、私もドラマのプロデューサーをしていたからである。


同じクリエイターとして、またドラマやテレビ局の現場をよく知る者として、テレビの現状やドラマの実状を明らかにしながら「今回の“不幸な”事件がなぜ起こってしまったのか」を分析してみたいと思う。そうすることが、亡くなった芦原氏や事件に巻き込まれた当事者の方々のためだと考えている。


私は「“不幸な”事件」と述べたが、その表現がもっとも正しいと感じている。それは今回の事件は、以下の2つの大きな原因があると確信しているからだ。


① 「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」
② コミュニケーションの断絶


■テレビ局で進む「ドラマ依存」


まず、①「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」から検証してみたい。事件の経緯を、芦原氏のブログからの抜粋で簡単に整理してみる。芦原氏は「ドラマ化するなら、『必ずマンガに忠実に』」や「マンガに忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく」と述べ、「原作者が用意したあらすじやセリフは原則変更しないでいただきたい」と当初から主張していた。


しかし、「毎回、マンガを大きく改編したプロットや脚本が提出されて」いた。そして、こうしたやり取りが何度も繰り返されたため、最後の部分の9話、10話については自身で執筆することになったと、脚本家を差し置いて自分が執筆することになった理由を記している。


これらの経緯が事実であるとすれば、「なぜテレビ局は、原作を改変してまでドラマを制作しようとしたのか」という疑問が浮かぶ。この問題の根源には、私が自著『混沌時代の新・テレビ論』で指摘したように、現在のテレビ業界の「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」があると考えている。


■「採算の悪いコンテンツ」を「ドル箱」に変えた見逃し配信


近年、テレビ局はドラマ制作に躍起になっている。ドラマはほかの番組ジャンルより格段に制作費がかかる。そのため少し前までは費用対効果が低いと考えられてきた。だが、いまドラマはテレビ局にとって「採算性が悪いコンテンツ」ではなく、「ドル箱」とも言える重要コンテンツに変わろうとしている。


その可能性を大きく裏づけたのが、民放公式テレビ配信サービス「TVer」におけるドラマの再生数の実績である。最新の2023年10〜12月期の総合番組再生数ランキングでは、上位10位に入っているバラエティは7位の「水曜日のダウンタウン」だけでそのほかはドラマの独占状態である。「セクシー田中さん」も5位にランクインしている。


出典=TVerのプレスリリース/PR TIMESより

また、上位6作品が総再生数2000万回以上を記録し、ドラマの快進撃が目覚ましい。地上波中心のビジネスでは赤字であったドラマは、配信によって“日の目を見る”ことができたコンテンツなのである。


海外マーケットでも日本のドラマは熱い視線を浴びている。毎年、フランス・カンヌで開催される世界最大級のテレビ見本市MIP(春はMIPTV、秋はMIPCOM)では、日本の経済産業省、総務省、文化庁の後押しもあって、多くの日本のドラマが世界中のバイヤーから買われている。そんな現状からいま、テレビ局はドラマ多産化を推進しているのだ。


■「ドラマ偏重主義」が歪み、ひずみを生み出す


直近の2024年1月クールで放送の各局(系列制作を含む)「プライムタイム」と「深夜枠(23時以降)」の連続ドラマの数を挙げてみる。前者が「プライムタイム」で後者が「深夜枠(23時以降)」である。


NHK3+0=3枠
日テレ3+3=6枠
テレ朝4+4=8枠
TBS3+2=5枠
テレ東1+8=9枠
フジ5+2(FODの再放送を入れると3)=7(FODの再放送を入れると8)枠

全局足すと、なんと38(FODの再放送を入れると39)枠にも至る。


そしてそのドラマ多産化現象は、「ドラマ偏重主義」を助長している。当然そこには、「歪み」や「ひずみ」が生じてくる。


各局の制作現場は原作探しや、主演キャストの押さえ、脚本家の確保、スタッフィングの調整に日々追われることになるからだ。私がプロデューサーをやっていたドラマでは、制作会社が見つからずに一時期は企画がポシャりかけたこともあった。


特に、原作やキャスト、脚本家に関しては激しい争奪戦が繰り広げられる。これも自著で詳しく述べているが、そのため主演キャストは局と有力芸能プロダクション間の「握り」によって数クール先まで「ベタ置き」されるという状況が生じてくる。


脚本家においても同様だ。優秀な脚本家は少ない。ものすごいペースでドラマ制作を進めなければならない状況下においては、大御所で手間のかかる脚本家は厄介なだけだ。ドラマ多産化の流れの中で、“使い勝手のいい”脚本家が重用されるのは自然の淘汰(とうた)である。


■テレビ局が重用する「脚本家」と「原作者」


では、「“使い勝手のいい”脚本家」とはどんな脚本家なのか。


それはズバリ、局やプロデューサーの都合を聞いてくれる脚本家のことだ。


だが、“都合を聞いてくれる”というのは、“言いなり”という意味ではない。信頼関係を築き、お互いを信じているからこそ、その時々の事情を瞬時に理解して、“適当に”対応してくれるのである。プロデューサーはだいたいそんな脚本家とタッグを組むことが多い。私にも何度もタッグを組んだ脚本家が何人かいた。


しかし、原作者に関しては少し事情が違う。プロデューサーが企画の際、原作を選ぶのは「その作品がおもしろいか」や「売れているか」「人気があるものなのか」など“作品本位の”理由である。脚本家の場合とは違って、扱いやすさや言うことを聞いてくれるといった“人物本位の”基準ではない。


だから、今回の芦原氏の「ドラマ化するなら『必ずマンガに忠実に』」や「マンガに忠実でない場合はしっかりと加筆修正をさせていただく」という要望や、「原作者が用意したあらすじやセリフは原則変更しないでいただきたい」という主張は、最初の段階で現場の制作者たちに「厄介だなぁ」という印象を与えてしまった可能性があると推察する。


「セクシー田中さん」日本テレビ公式ホームページより。9、10話の脚本を原作者が手掛けた

私自身もそういった体験をしたときに、「脚本家やわれわれプロデューサーに任せてくれたらいいのになぁ」と感じたことがあるからだ。


■テレビ局と原作者のボタンの掛け違いが生まれる背景


私たち映像クリエイターは映像のプロという自負がある。もちろん、原作者をリスペクトしているし、原作を尊重もする。しかし、原作の「二次元の世界」と映像の「三次元の世界」は違うと自認している。次元を超えて原作の面白さや素晴らしさを実現するのが役目だと確信しているからだ。


だが、同じような自負とプライドが芦原氏側にもあった。今回の場合は、こういったように互いの「認識の違い」というボタンを掛け違ったのと同じような状況で制作が始まってしまったことが大きな原因であると指摘したい。それが、私が最初に「“不幸な”事件」と述べた理由であり、この事件の二つ目の原因である②「コミュニケーションの断絶」につながる要素となっている。


私もこれまでに出演者やスタッフ間でのコミュニケーションの疎通が最初の段階からうまくいかずに苦い思いをしたことが数多くある。あるときは、最後までやったが惨憺(さんたん)たる作品になってしまったこともあるし、途中で空中分解してしまったこともあった。


今回の事件を受けて、記者会見で松竹、東宝、東映などの映画会社の社長がコメントをしている。彼らが述べているように「原作モノ」と言われる原作をベースにするドラマ作品は「原作の素晴らしいところを生かしていくのが大前提」なのは当たり前で、「プロデューサーはその作品をどう表現するか、作者の先生と話をしていくのが原則」なのも重々承知している。


「原作を映像化することは、原作者の方の許諾がないとできない」のも当然。しかし、「原作の方とわれわれの方向性が違う時は、コミュニケーションを取って互いに了承する」「どう映像化するかはクリエーティブな部分で合意を重ねてやっていく」ことにまで至らなかったのが今回の背景にあるのだろう。


そこには先に述べたような「ドラマ偏重主義」からくる「ドラマ多産化現象」が大きく影響している。


■テレビ局の「収益化偏重」に振り回される制作現場


テレビ業界はいま「戦国時代」にある。「映像ビジネス」の覇権と生き残りをかけた配信との激しい攻防戦の真っただ中だ。地上波放送枠での収入が見込めないテレビ局にとって、「マネタイズ」にパラダイムシフトを強いられるのは、致し方ないことだ。


だが、その「しわ寄せ」は現場にゆく。配信での二次利用をにらんだドラマ多産を求められる中で、制作費削減は留まることを知らず、これまで以上にペースを上げて制作を進めなければならない。原作通りの映像化をやっていては期限や予算にはまらないというのが正直なところだろう。


実際に、原作で設定されている主人公の職業や仕事場を変更することは序の口である。カネがかかり過ぎるという理由で、サスペンスドラマの犯行の手口が変わることも日常茶飯事だ。そこにあるのは、「マネタイズ邁進」というテレビ局の方針と、それに逆らえないテレビ局社員のサラリーマンとしての悲しい性(さが)である。


以上のようなテレビの現状と現場の事情の中で、「制作者側」と「原作者側」がしっかりと会話をするなどのコミュニケーションを取る時間と余裕がなかったことが、今回の事件の一番の原因ではないかと私は考えている。


いや、もしかしたら制作者側は「しっかりとコミュニケーションは取れている」と思っていたのかもしれない。改変においても「ちゃんと原作者のOKがもらえている」と信じ込んでいたのかもしれない。だが、ハラスメント事案と同じで、コミュニケーションの断絶は相手がそう思えば「そうだ」ということになってしまうのだ。


では、いったいどこにコミュニケーションの断絶が起こったのか。


■なぜ「コミュニケーションの断絶」が生じたのか


今回の当事者となる登場人物を整理してみる。


「制作者側」には、制作の最高責任者であるプロデューサーを筆頭に監督、脚本家がいる。そして「原作者側」は、原作者と出版社の担当編集者である。プロデューサーは監督や脚本家と意志疎通をおこなうが、通常、監督や脚本家が原作者と直接、会話をしたり意思疎通したりすることはない。つまり、制作者側と原作者側の意思疎通は、プロデューサーと原作者の間でおこなわれることが多いのだ。


原作者によっては「制作者側」と直接交渉をするのを厭う人もいるので、その場合は出版社の編集者が介在することになる。私の経験的な肌感覚では、小学館や講談社のようなマンガ雑誌を抱えている大手は、映像化の契約も含め出版社が代理人となることが多い。それは映像化によって出版物の販促を図れるという理由と同時に、出版社や編集者が作者ケアをちゃんとやっているというアピールの意図もある。


以上のような構図だと、どういった歪みが生じるだろうか。原作者の意図や思いが監督や脚本家に伝わらない、もしくはその逆が起こる可能性があるということだ。


■脚本家もコミュニケーションの断絶の「被害者」


今回の場合も、芦原氏はブログで「脚本家さん、監督さんといったドラマ制作スタッフの皆様と、私達を繋ぐ窓口はプロデューサーの方々のみでした」と述べている。特に今回は出版社の編集者が介在していたということだから、私が過去に同じようなケースで遅々としてやり取りが進まずイライラすることがあったように、少なからずコミュニケーションの疎通を滞らせる要因になっていたと考えられる。


今回の脚本家・相沢友子氏は映画『重力ピエロ』『プリンセストヨトミ』などの脚本も手掛ける実力派であり、マンガ原作のドラマ化も「鹿男あをによし」や「ミステリと言う勿れ」など個性が強い主人公が登場する作品を数多く手掛けている。原作者がどれくらい自分の作品に思い入れがあるか、その世界観を大切にしているかはよく理解していたはずである。


ネットなどでは脚本家を誹謗(ひぼう)中傷する投稿が見られるが、「今回のことでは、脚本家も大変傷ついているだろう」といったことを想像するべきだ。相沢氏は昨年末、自身のインスタグラムに「最後は脚本も書きたいという原作者たっての要望があり、過去に経験したことのない事態で困惑しましたが、残念ながら急きょ協力という形で携わることとなりました」などと投稿し、SNSで炎上する騒ぎとなったが、脚本家も、テレビが生み出したコミュニケーションの断絶という状況の「被害者」なのだ。


写真=iStock.com/ponsulak
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ponsulak

一点あえて指摘するとすれば、脚本家とプロデューサーの三上絵里子氏とのタッグが初めてだったということだ。ここに大きなターニングポイントがあったのではないかと私は直感している。


前述したように、プロデューサーと脚本家がタッグを組むキモは、“都合を聞いてくれ”“使い勝手のいい”間柄になるほどまでに信頼関係が築けていることである。いまのテレビのドラマ現場のスピード感のなかで、編集者を通じて聞いた原作者の要望の微妙なニュアンスを初めて組む相手に的確に伝えられるだけの時間と余裕があったかどうか、それは私にもわからない。


■テレビ局が「原作モノ」と言われるドラマを多産する理由


では、今回のように原作者側とコミュニケーションを取る手間やトラブルに発展する可能性があるにもかかわらず、どうして実際には「原作モノ」と言われる原作を基にするドラマ作品が多くなるのか。


一言でいえば、これは創り手側にとって「安心」だからだ。


原作がある作品は、ある程度視聴者が「どんな作品であるか」を知っている。ヒットしたマンガや売れた小説などの場合には、その人気を「アテ」にすることもできる。また、デジタル情報化によって視聴者側の想像力が著しく損なわれているいまの時代、もともと形があってイメージを提示できている作品はアピールする力も強いと考えられる。


「既知のもの」に人間は共感しやすい。自分が好きだった原作の主人公を演じる俳優に共感しやすいというのも自然のことだ。その俳優を知っていたり好きだったりすれば、さらに共感度は高まる。


そして原作モノにはもうひとつ、創り手側にとっての大きなメリットがある。


それは企画を通しやすいということだ。「想像力が欠如している」のは、視聴者側だけではない。テレビ局の企画を選定するセクションの人間も同じだ。私が企画提案をする際に、「なんでそんなことも想像できないのか」とイライラしたり、あきれたりすることも一度や二度ではなかった。


「わかりやすく」「万人受けがする」作品のオンパレードを誰が見たいと思うのか。そんな相手に「どんな作品か」を説明したり提案したりするときに、「ヒット作の○○です」や「ベストセラーの○○」と言った方が通りがいいのは自明のことだ。


そして「原作モノ」のなかでも、マンガ原作は特に需要が大きい。


ドラマのプロデューサーは少しでも話題になったり売れたりしたマンガはほとんど読んでいる。そして深夜のドラマ枠などの企画募集の折には、その8割がマンガ原作の提案で占められる。マンガに強い小学館や集英社の原作には、同時に何件も問い合わせや「ドラマ化したい」というオファーが殺到し、映像化権は競合する。


■ドラマ化で原作者がいちばん恐れていたこと


上記のようなことは「原作モノ」、特にマンガ原作のメリットだが、メリットがあればデメリットもある。


知っている主人公や筋書きに共感しやすいのは前述した通りだが、裏返せばそれだけイメージがついてしまっているということだ。世界観やイメージなどは原作と映像化されたドラマの間に齟齬(そご)が生じると、大きな反感や反発を生みやすい。特にマンガ原作の場合は、一度「ビジュアル化」されているので、それを再度映像化した際のイメージが違えば、そのギャップはさらに大きいものになる。今回の芦原氏はその点を一番恐れたのではないだろうか。


もうひとつ、私は昔といまのドラマ視聴の「環境の変化」という点を指摘したい。昔は録画でもしない限り、放送された番組を再び見るには「再放送」のタイミングを待たねばならなかった。しかし、いまは配信がある。その気になれば何度でも繰り返し視聴することができる。


一度見て気にならなかった部分やアラも気になってくる。同時に、演者への評価も厳しくなる。技術の進歩によって画質が良くなっている点もあるだろう。「ちょっと原作と違い過ぎないか?」であったり「あの部分は許せない」といった指摘が出てきたりすることもある。制作者や演者のハードルがどんどん高くなるというストレスが生じるのである。


以上のことを踏まえて、この稿の最後に私の提言を述べたい。テレビのドラマはもっと「オリジナル作品」を増やすべきである。


■テレビ局の安易な「原作依存」という大問題


今回のような悲劇が起こることを、私は自著『混沌時代の新・テレビ論』のP256で示唆している。いま、テレビ局のドラマ・プロデューサーの机の周りには、マンガ原作のコミックが山積みになっている。そこには、小説のような活字だけの原作はない。その状況を嘆かわしいと思うのは私だけだろうか。


マンガは作者の頭の中を可視化したものだと考えている。一度「クリエイティビティ」をビジュアル化したものを、再度、映像化するときには、もっと慎重になるべきではないだろうか。


そう考えている私は、マンガ原作をドラマ化する企画書を書いたことがない。もちろん、そういった手法が得意なクリエイターもいるし、「実写化不可能」と言われるマンガに挑みたいという気持ちも否定しない。だが、クリエイターの「原作依存」には警鐘を鳴らしたい。


安易な理由で「原作ありき」で企画を考えるのはやめた方がいい。そういうことを繰り返しているプロデューサーには「いったんそこから離れてみたら」とアドバイスをしたい。原作があれば「安心」という理由は、必ず「慢心」を招く。


映像化を許諾した芦原氏には、マルチメディアによって一人でも多くの視聴者に自分の作品に触れてほしい、知ってほしいという思いがあったに違いない。そこには、出版社の後押しがあったかもしれない。だが、芦原氏のブログを読んでいると、必ずしも手放しでドラマ化を歓迎していたわけではないことが読み取れる。芦原氏が感じた不安は私にはよくわかるのだ。


■このままでは悲惨な出来事が繰り返される


「セクシー田中さん」のドラマ自体はよくできていた。演者も素晴らしかったし、美術や装飾、衣装、撮影や演出もよかった。一部には演者をバッシングするサイトも見られるが、それは明らかに門違いだ。映像化に関して「やるべきではなかった」とは思わない。ただ私は、いいマンガ原作があると「何でもかんでもドラマ化しようとする」という風潮から脱するべきだと提言しているのである。


「映像化が可能か」「映像化がふさわしいか」という吟味は必要だし、吟味をしたうえで、「このマンガの世界観には手を出すのはやめよう」という決断も必要なのではないかと思う。それがその作品へのリスペクトというものではないだろうか。


私は来るべき配信時代を見越して、2018年からオリジナル脚本によるドラマ制作を積極的におこなってきた。その数は20本にのぼる。そんな経験から、今後はさらにオリジナル作品を増やして配信の場をうまく利用してゆくということがテレビ局の活路となると提言したい。


ドラマは配信時代を迎え、ドル箱コンテンツとなりつつある。しかし、今後、同じようなドラマばかりが増えるという「ドラマのステレオタイプ化」が進み、配信においてドラマが飽和状態になったときに生き残ってゆけるかどうかを左右するのは、その作品のオリジナリティである。原作者との交渉がうまくいかない、もめ事が起こったなどのトラブルが発生するとその作品は配信ができなくなってしまったりする。それどころか、今回のような人の命に関わるような悲惨な出来事を引き起こしてしまう。


■「テレビの腐敗」を止める薬はあるのか


マネタイズやドラマ多産化の流れはますます加速するだろう。そうなると時間やカネがないという理由でコミュニケーションの疎通がうまくできないことも増えてくる。その相手は、監督などのスタッフ、原作者、脚本家などいろいろだ。監督はいなければ制作は成り立たない。脚本も必要だ。しかし、原作はなくとも「オリジナル」で作れば成り立つはずだ。


オリジナルの脚本をゼロから作り出すことは大変な労力が必要である。元々あるものを活用するのではなく、自らアイデアをひねり出さなければならない。しかし、これにはテレビ局の生き残りがかかっている。何が何でもやり遂げなければならない。


他人の模倣や焼き直しではなく、自分がいままでにないまったく新しい映像作品を生み出してやるのだという気概をもって、クリエイターはいまの逆境に立ち向かわなければならない。


その気持ちこそが、いま始まっている「テレビの腐敗」を止める薬なのだ。


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田淵 俊彦(たぶち・としひこ)
元テレビ東京社員、桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授
1964年兵庫県生まれ。慶應義塾大学法学部を卒業後、テレビ東京に入社。世界各地の秘境を訪ねるドキュメンタリーを手掛けて、訪れた国は100カ国以上。「連合赤軍」「高齢初犯」「ストーカー加害者」をテーマにした社会派ドキュメンタリーのほか、ドラマのプロデュースも手掛ける。2023年3月にテレビ東京を退社し、現在は桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授。著書に『弱者の勝利学 不利な条件を強みに変える“テレ東流”逆転発想の秘密』(方丈社)、『発達障害と少年犯罪』(新潮新書)、『ストーカー加害者 私から、逃げてください』(河出書房新社)、『秘境に学ぶ幸せのかたち』(講談社)など。日本文藝家協会正会員、日本映像学会正会員、芸術科学会正会員、日本フードサービス学会正会員。映像を通じてさまざまな情報発信をする、株式会社35プロデュースを設立した。
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(元テレビ東京社員、桜美林大学芸術文化学群ビジュアル・アーツ専修教授 田淵 俊彦)

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