実際は朝ドラよりドロドロだったか…息子の恋を許せなかったほど嫉妬深い吉本せいに笠置シヅ子が抱いた感情

2024年2月9日(金)6時15分 プレジデント社

吉本せい(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1948年10月27日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

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笠置シヅ子と吉本興業創業者の吉本せいは、戦前戦後の芸能界を実力だけで生き抜いた女性であり、ドラマ「ブギウギ」(NHK)で描かれたように「おんなじ男をとことん愛した仲」でもあった。吉本せいの評伝などを調べたライターの田幸和歌子さんは「吉本興業が大阪のお笑い界で強大な力を持っていたことでもわかるように、せいは嫉妬心と執着の強い女性だったようだ」という——。

■朝ドラでは東京で出産したスズ子を愛助の母が訪ねたが…


村山興業の御曹司・愛助(水上恒司)の早すぎる死と、スズ子(趣里)の孤独な出産が描かれた朝ドラ「ブギウギ」。第19週では、愛助とスズ子の子・愛子が生まれてから3カ月、スズ子が子育てに忙しい日々を過ごしている様が展開した。


吉本せい(写真=朝日新聞社『アサヒグラフ』1948年10月27日号/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

そんな折、愛助の母であり村山興業社長のトミ(小雪)がスズ子を訪ねてくる。生まれてきた愛子を抱いて「おばあちゃんやで」と言ったトミは、愛子を引き取りたいと申し出るが、スズ子はそれをきっぱりと断る。しかし、本当に困ったときには助けてほしいと言うスズ子に、トミは当然だと言い、実は自分もスズ子の歌のファンだと打ち明けるのだった。


スズ子はそんなトミの言葉にも背中を押され、再び歌うことを決意。作曲家の羽鳥善一(草彅剛)に新曲を作ってほしいとお願いする。そこから「東京ブギウギ」が、そして「ブギの女王・笠置シヅ子」がついに誕生するのだが、この誕生の経緯も史実とはずいぶん印象が異なる。


史実では笠置シヅ子とトミのモデルとなった吉本興業創業者・吉本せいが初めて対面したのは、愛助のモデル・吉本穎右(えいすけ)(エイスケ)の死後で、笠置の出産後だったことは前回記した通り。


■笠置が吉本興業から受け取ったのは見舞い金1万円


笠置シヅ子の自伝『歌う自画像:私のブギウギ傳記』(1948年、北斗出版社)によると、笠置の産後、笠置のもとに、せいの実弟である吉本の林弘高常務(「ブギウギ」の坂口のモデル)がお祝いの品を持って来て、本家からといって見舞い金1万円が差し出された。


ちなみに、スズ子が戦後(1945年)に購入した宝くじの1等当選金は、10万円。宝くじ公式サイト「宝くじのあゆみ」によると、1945年の「厚生省指導による組み立て住宅(6坪余)1500円」「白米1升(ヤミ値)70円」というから、笠置が出産した1947年当時の貨幣価値を考えると、今でも多くの所属芸人が「ケチ」とネタにする吉本興業にしては、そこそこ奮発した印象もある。とはいえ、吉本が笠置に渡した金はそれがすべて。亡き息子の子を一人で産み育てる女性に対して渡した金額だと思うと、やはりケチな印象は否めない。


また、ドラマと違い、産後、あいさつに行ったのは笠置の方から。実際の吉本せいは「ブギウギ」のトミとも、吉本せいをモデルにした朝ドラ「わろてんか」ともだいぶ印象が異なり、「御主人に似てデップリと肥った方でしたが胸部に持病があって」(笠置自伝より)という事情もあって、笠置の方から産後3カ月のときに娘を連れて兵庫県の「甲子園近く」にあった吉本家を訪ねたのだ。


■吉本せいは関西まで訪ねてきた笠置シヅ子に頭を下げた


「エイスケがえろう、お世話になりまして……」と丁寧に頭を下げたせいの印象について、「さすが女手に亡夫の偉業を継いで興行界の惑星とまでなられたお方だけあって、度量もあり、情けもあり、行き届いたお人柄でした」と笠置は評している。しかもこのとき、自ら赤ん坊を沐浴させ、急いで縫ったという新しい着物も着せ、赤ちゃん用のシッカロールまで用意してあったこと、「エイスケがこの世に残して行ったいちばん大きな置き土産だすよって、大事にしてやっとくなはれ」とせいに言われたというエピソードが感傷的なトーンでつづられている。


加えて、このとき、娘を預かるという申し出もあったが、認知すべき父が死亡していると入籍は難しく、民事裁判で訴訟するしかない事情と、新聞記事になることを嫌った笠置が自ら戸籍問題を断念したことを記し、あくまで自分の選択としてこうまとめているのだ。


「ヱイ子(編集部註:笠置の娘、亀井ヱイ子氏)をめぐるあらゆる人が誠意と愛情とを以って善処に努力したにかかわらず、このような結果になったのですから地下のエイスケさんも無心のヱイ子も許してくれるでしょう」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)
映画『銀座カンカン娘』の笠置シヅ子/左(写真=新東宝/PD-Japan-film/Wikimedia Commons

■吉本せいは「凄まじい嫉妬心」を持った女傑だったか


二人の初対面にしておそらく唯一の対面を笠置の自伝で読むと、美しい印象もあるが、矢野誠一の書いた『新版 女興行師 吉本せい』を読むと、印象が異なる。


なにしろ「最愛」の息子・穎右について登場するのは、伝記の中で終盤のわずか数ページのみ。落語との決別について記された項の「もはや、落語に限らず、寄席演藝にたずさわる藝(芸)人は、吉本の手を離れたら大阪では一日たりとも商売のできない体制ができあがっていたのだ」という一文に象徴されるように、全編に渡って吉本せいの凄まじい嫉妬心と執着の強さが描かれている。それは実の兄弟への嫉妬心も同様で、最愛の息子・穎右への思いもまた、母の無償の愛などとはかけ離れたものに思えるものだった。


伝記では穎右と笠置の恋愛を猛反対していた理由について、「吉本せいが、頴右と笠置シヅ子の仲を認めようとしなかったのは、踊り子ふぜいと最愛の息子をそわせるわけにはいかないとする思いあがりからだったという人がいる」「穎右が病弱であったこと、一代でなした巨大な財産をとられるのがいやだったこと」などを挙げつつも、こう推測されている。


■伝記には「吉本せいは息子の恋愛が許せなかった」


「吉本せいは、息子穎右の恋愛そのものが許せなかったのである。相手が誰であろうと問題ではなかった。たまたま笠置シヅ子であったから、せいは笠置を目の敵にしただけで、穎右と恋愛する者が許せなかったのである。穎右と恋愛する者が許せなかったと、たったいま書いたが、これは、『穎右の恋愛が許せなかった』と、書き直すべきかもしれない。嫉妬心のひと一倍強かった吉本せいは、実弟の林正之助が東宝の重役になったことに嫉妬したごとく、いやそれ以上に、溺愛していたわが子の恋愛に嫉妬の炎を燃やしたのである。壮絶な、近親憎悪であった」
矢野誠一『新版 女興行師 吉本せい』(ちくま文庫)

「御寮さん」像と、伝記で書かれた吉本せいを読み比べると、正直、笠置の自伝は、ややきれいごとに見える部分がある。


例えば、「ぼんぼん」という項では、笠置は吉本せいの人となりについて「男まさりの方」「この御夫婦は誠に好一対で、どっちも太ッ腹で目先きが利いて、人の使い方がうまくて、度性ッ骨が強いという鬼に金棒のような気性」と評している。


そして、夫が37歳のときに心臓麻痺で急死したことに触れ、こう記しているのだ。


■夫に先立たれ5人の子を亡くした悲劇的な人生


「御寮さん(編集部註:吉本せいのこと)は時に三十三歳で女の子が三人に、もう一人お腹の中に子供がありました。そのお腹の子がエイスケさんなのです。普通の未亡人なら、ここで寄席を全部売り払って女向きの商売を考えるところですが、勝気な御寮さんは亡夫の偉業を継ぎ、興行師仲間に割って入って一歩も譲りませんでした。今とちがって大正時代の興業界はテキ屋の世界みたいなもので、荒くれ男に伍して女が対等の立場を占めて行くということは大変なことだったでしょう」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)

伝記によると、吉本せいは、息子と笠置の問題については「何も知らない」と語らなかったという。穎右が25歳で死んだことは悲劇だが、せいは夫に早く死なれた上、8人の子を産みそのうち穎右を含む5人が早逝したという、家族の死に目に会い続けた人生だった。そして、穎右が亡くなってから3年近く経った頃、60歳で生涯を終える。おそらく穎右と同じ肺結核だったと思われる。


その人生の中でも溺愛した亡き息子の子を産み育てる笠置に、見舞金1万円だけ渡し、存在を認めないままに死んだ吉本せいのことを、しかし笠置は自伝を読むかぎり恨んではいなかった。それどころか、女手一つで子供たちを育て、会社を大きくしたことを尊敬しているようですらあった。


それは、愛する人の母も愛そうとする笠置の情の深さによるものか、あるいは自身が産みの母を知らずに育ち、養母の死に目に会えなかったからこその憐憫(れんびん)だったのか。


■笠置は結婚を許さなかったせいを恨まず、尊敬していた


複雑な生い立ちゆえに、恨みや憎しみから目を背け、たくましく生きた笠置と、不幸の連続ゆえに自身の嫉妬と執着にからめとられ、最後まで最愛の息子の結婚も許すことができなかった吉本せいと、境遇は重なる部分もあるのに、その人生は対照的に見える。


伝記を読んだうえで、改めて「わろてんか」を思い返すと、もっと吉本せいという人間の欲や業などドロドロした感情を描く物語にしても面白かったんじゃないかという気がしてくる。山﨑豊子がせいを描いた小説『花のれん』とその映像化という先行作品もあるが、いっそのこと、尾野真千子など、情念を存分に表現できる達者な俳優で再ドラマ化してみても良いのではないだろうか。


ちなみに、笠置が一人で稼いで子を育てていく決意を固めたのも、吉本から継続的な支援が得られないという経済的理由が大きかったであろうことが、自伝から想像される。


なぜなら、笠置は吉本からの見舞金1万円について迷った挙句、マネージャー・山内(ドラマ内の山下のモデル)のこんなアドバイスにより、受け取ることを決意したためだ。


■吉本興業を頼れなかった笠置は新曲「東京ブギウギ」に賭けた


「折角の御好意だから納めて置いた方がよかろう。しかし今後、物質的援助は謝絶し、あくまで自立の覚悟で奮発すべきだ。ただ、お見舞い金の封筒は吉本家との関係を証明するものだから大事にしまって置いた方が良い。ヱイ子ちゃんを認知するエイスケさんが亡くなり、今となっては吉本家とその御親族の御意志一つにヱイ子の運命が握られているのだから——ということだった」
(笠置シヅ子『歌う自画像:私のブギウギ傳記』1948年、北斗出版社)

表面的には母子を思う言葉のようでいて、その実、吉本に頼るな、あるいは吉本は頼れないだろうという現実を突きつけられた印象を抱いてしまう。ある意味、笠置は外堀を埋められ、誰も頼れない状況に追い込まれたところから、再び歌に本気で向き合うことになった。そこで服部良一に頼み込み、生まれた名曲が「東京ブギウギ」だったとも言えるだろう。


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田幸 和歌子(たこう・わかこ)
ライター
1973年長野県生まれ。出版社、広告制作会社勤務を経てフリーライターに。ドラマコラム執筆や著名人インタビュー多数。エンタメ、医療、教育の取材も。著書に『大切なことはみんな朝ドラが教えてくれた』(太田出版)など
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(ライター 田幸 和歌子)

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