「鉄筋コンクリート造」でも名城はある…城マニアが教える「訪れる価値のある城」と「ダメな城」の見分け方

2024年2月12日(月)11時15分 プレジデント社

広島城天守閣(写真=長岡外史/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons)

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天守が現存する城は全国に12しかない。それ以外の城の「歴史的価値」は無いのだろうか。歴史評論家で城マニアの香原斗志さんは「鉄筋コンクリート造の城にも名城はある。例えば名古屋城や広島城の天守はおおむね旧観を再現している」という——。

■ホンモノの天守を持つ城は12しかない


数年来の城ブームは、新型コロナウイルスの流行によって一服していたが、昨年から各地の城に観光客が戻っている。とくに外国人観光客は円安の影響もあって激増し、すでにコロナ禍を上回っている城も多い。観光客のお目当てはシンボルである天守であることが多いが、じつは天守にはホンモノとニセモノがあるからやっかいなのだ。


明らかにホンモノなのは、現存12天守である。


弘前城(青森県弘前市)、松本城(長野県松本市)、犬山城(愛知県犬山市)、丸岡城(福井県坂井市)、彦根城(滋賀県彦根市)、姫路城(兵庫県姫路市)、備中松山城(岡山県高梁市)、松江城(島根県松江市)、丸亀城(香川県丸亀市)、松山城(愛媛県松山市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)、高知城(高知県高知市)の12城で、そのうち松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城は国宝に指定されている。


太平洋戦争の空襲で焼失後、鉄筋コンクリート造で外観が復元された天守もニセモノとはいえない。


名古屋城(名古屋市中区)、大垣城(岐阜県大垣市)、和歌山城(和歌山県和歌山市)、岡山城(岡山県岡山市)、福山城(広島県福山市)、広島城(広島市中区)で、6つそれぞれに精度の差はあるが、おおむね旧観を再現している。


広島城天守閣(写真=長岡外史/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

福山城はかなり改変されていたが、令和4年(2022)の改修で元来の姿に近づけられた。


■本格的な復元といえる天守


西南戦争で焼失した熊本城(熊本市中央区)や、戊辰戦争で被災したのちに取り壊された会津若松城(福島県会津若松市)も、外観の精度は高い。


平成時代に木造で建てられた白河小峰城(福島県白河市)や大洲城(愛媛県大洲市)、新発田城(新潟県新発田市)は、かなり本格的な復元だ。


同様に木造で復元された掛川城(静岡県掛川市)や白石城(宮城県白石市)は、写真や平面図、立面図などがなく、推定による部分もあるが、伝統工法による本格的な建築で、復元考証がていねいに行われている。


■天守の3分の2はニセモノ


現在、日本各地には90を超える天守が建っているが、はっきりホンモノだと呼べるものは、じつは3分の1にも満たない。


前述したように、戦災で天守を失った都市では戦後、復興のシンボルとして天守を再建する動きが活発化した。ただ、空襲などの記憶がまだ生々しい時期だったので、二度と焼失せず、ずっとその地にそびえてほしいという願いから、耐火性能を優先して木造は意識的に避けられた。戦後に定められた建築法規により、木造建築への制限が大きくなっていたという事情もある。


ただ、天守を地域振興の中核にしようと考える自治体は、戦災で天守を失った自治体だけではなかった。城は人を呼べるとなると、城下町から発展した都市の多くが、鉄筋コンクリート造の天守を建てて観光誘致のシンボルにしようと考えたのだ。


だが、熊本城や会津若松城のように、古文書や絵図、鮮明な写真などが残っている城はいいとして、そうでないところにまで天守が建った。「復元」どころか「復興」や「再建」ですらないところも少なくなかった。つまり、天守がなかった城に天守を建ててしまったのである。


筆者作成

■ニセモノが国の登録有形文化財に


富山県富山市は空襲で50万発以上の焼夷(しょうい)弾を浴び、市街地の99.5%が焼失した。それだけに、昭29年(1954)に富山城址公園で開催された富山産業大博覧会にかける県や市、産業界の意気込みはかなりのもので、3億5000万円を投じて富山の近代都市としての復興がアピールされた。そのシンボルとして富山城に建てられたのが、鉄筋コンクリート造の三重の天守だった。


外観は犬山城や彦根城など現存天守を参考にデザインされたが、なぜ他所の城を参考にしたのか。富山城には天守がなかったからである。


富山市郷土博物館(富山城復元模擬天守)(写真=掬茶/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

富山城は金沢の前田家の分家が城主を務めた城で、江戸時代に描かれた複数の絵図にはいずれも天守が描かれていない。『万治四年(1661)築城許可書』には天守の建設計画が記され、建てることが検討された形跡はあるが、結局、石垣による天守台も築かれなかったことが発掘調査でも確認されている。


市街地のほぼすべてが焦土と化した富山に、復興のシンボルが必要だったのは理解できる。しかし、この天守は近代都市のシンボルにすぎず、歴史や伝統を尊重しようという姿勢に裏づけられていない。


そんな「天守」が平成16年(2004)、「地域の景観の核」として国の登録有形文化財に登録されてしまったのは、悪い冗談としか思えない。


■間違ったイメージを与えている


平戸城(長崎県平戸市)の本丸には三重四階の天守が建ち、最上階からは平戸湾の絶景を見渡せる。だが、昭37年(1962)に建てられたこの天守は、不思議なことに平面の半分は石垣に載らず、地面に直接建っている。二重櫓の跡に無理に建てているからで、本丸に天守台はなかったのである。


平戸城模擬天守(写真=小池 隆/CC-BY-4.0/Wikimedia Commons

平戸城の前身である日之嶽(ひのたけ)城を築いたのは松浦鎮信(しげのぶ)だが、完成間際の慶長18年(1613)に焼失した。豊臣家との関係性を徳川幕府に疑われた鎮信が、嫌疑を晴らすためにみずから火をつけたともいわれる。その後、元禄16年(1703)になって再築城が認められ、享保3年(1718)に完工したが、天守は建てられなかった。


現在の天守は戦後の天守復興ブームにあやかり、観光の拠点とするために建てられた。海からの景観や天守からの眺望が重視されたようだが、訪れた観光客に平戸城の誤ったイメージをあたえている。


■なぜか別の城をモデルに再建


昭和39年(1964)、中津城(大分県中津市)の本丸に完成した鉄筋コンクリート造の五重五階の天守は、和歌山城や熊本城の再建天守を手がけた藤岡通夫氏が設計した。だから、史実の天守かと思ってしまうが、この城も江戸初期を除いては天守が建った形跡がない。


慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、豊前(福岡県東部と大分県北東部)に入封した細川忠興が天守を建てた形跡はある。元和5年(1619)、忠興が息子の忠利に宛てた手紙には、中津城天守を約束どおりに(明石城を築城中の)小笠原忠政に渡すように、という指示が記されている。


中津城天守(写真=ほっきー/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

だが、明石城に天守は建てられず、中津城天守のその後についての記録がないから、どうなったのか不明だが、その2年後には天守がないことが確認され、以後、絵図等にも天守は描かれていない。


それなのに旧藩主の奥平家が主導し、観光のシンボルとして天守が建てられた。二重櫓が建っていた石垣に石を積み増して天守台とし、古写真が残る萩城(山口県萩市)天守をモデルに建てたのである。


■石垣がない土の城に石垣上の天守が


唐津城(佐賀県唐津市)は豊臣系大名の寺沢広高が、慶長7年(1602)から本格的に築城した。その際、天守台の石垣は築かれたが、すでに寛永4年(1627)の時点で「幕府隠密探索書」に、天守台はあるが建物はない旨が書かれている。


唐津城(写真=MC MasterChef/CC BY SA-2.0/Wikimedia Commons

ところが現在、その天守台には五重五階の天守が建つ。昭和41年(1966)、例によって文化観光施設として建てられたもので、天守の記録がないので、秀吉が朝鮮出兵の基地として築いた肥前名護屋城(唐津市)をモデルに設計された。ちょうど昭和43年に、名護屋城と城下を描いた『肥前名護屋城図屏風』が発見されたばかりだったのだ。


平成20年(2008)から令和3年(2021)、傷んだ石垣の整備にともなって発掘調査が行われ、本丸の各所から古い石垣が見つかり、豊臣政権下の城に特徴的な金箔瓦も発見された。このため寺沢広高の築城以前に、先立つ城郭が築かれ、その時点では天守が建っていた可能性も否定できない。だが、そうであったとしても、いまの天守はそれとなんら縁がない。


そういう天守は九州に多いが北にもある。横手城(秋田県横手市)は、関ヶ原合戦後は最上氏、続いて佐竹氏の所有となり、寛文12年(1672)に佐竹氏の縁戚の戸村義連が入城すると、明治まで戸村氏が城主を務めた。その間、天守が建ったことはなく、江戸時代をとおして石垣がない土の城だった。


ところが、昭和40年(1965)に三重四階の天守が、石垣の天守台上に建てられた。岡崎城をモデルにしたそうだが、柱と窓の関係など、木造建築のセオリーもまったく考慮されていない。


■ふるさと創生基金で建てられたお城


織田信長が美濃(岐阜県南部)に侵攻するにあたり、まだ木下藤吉郎と呼ばれていた豊臣秀吉が永禄9年(1566)に、わずか3日半で築いたとされる墨俣城(岐阜県大垣市)。その逸話が記されているのは、江戸時代初期にまとめられた『武功夜話』が中心で、『信長公記』ほか同時代の史料には記述がないため、後世の創作だとする見解も少なくない。


だが、秀吉の逸話が史実であろうとなかろうと、墨俣城が土塁や空堀で構成され、木柵などで囲って簡易な建造物を配置しただけであったことはまちがいない。


ところが、そこに平成3年(1991)、四重五階で最上階の屋根に金色の鯱をいただく白亜の天守が建ったのである。外観は大垣城を模したそうだが、大垣城の外観は江戸時代初期に整備されたもので、時代がまったく異なる。


墨俣城(写真=Hide-sp/CC-BY-SA-2.5/Wikimedia Commons

天守の出現以前に廃城になった土の城の跡に、石垣上にそびえる高層の天守が建てられた例は、昭和42年(1967)に完成した亥鼻(いのはな)城(通称・千葉城、千葉市中央区)など、ほかにも例がある。


■多くの人に歴史を誤解させる


だが、墨俣城の天守の場合、きっかけが特異だった。竹下登内閣の発案で昭和63年(1988)から、国が地域振興を旗頭にして各市区町村にばら撒いた「ふるさと創生基金」なのである。


その1億円をもとに総工費7億円で建てられたのがこの天守だ。内部は歴史資料館として利用されているので、どこかの自治体がつくった純金のこけしやカツオよりはマシだろうか。


しかし、多くの人に歴史を誤解させることを考えれば、正負の価値が相殺されて、こけしやカツオと変わらない気もする。


城を訪れる際には、天守が現存しているのか、復元なのか、復興なのか、復興の場合、史実を反映しているのか、天守がない城に建った天守ではないのか、事前に調べることをお勧めしたい。


脳内で天守の姿を変えたり、消したりしないと、歴史的な景色を誤解しかねないのが、日本のお寒い実情なのである。


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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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