なぜヒトラーは「強制追放」から「虐殺」へシフトしたのか…ユダヤ人の運命を変えた「想定外の出来事」

2024年2月20日(火)11時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Oliver Chan

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ナチス・ドイツはなぜユダヤ人の大量虐殺に手を染めたのか。戦史・紛争史研究家の山崎雅弘さんは「当初のゴールはドイツ支配圏外への強制追放だったが、戦争序盤の連勝で支配地域のユダヤ人が増え続けた反面、追放先が失われ、『絶滅させるしかない』という結論に至った」という——。

※本稿は、山崎雅弘『第二次世界大戦の発火点 独ソ対ポーランドの死闘』(朝日文庫)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/Oliver Chan
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■ゴールはユダヤ人の「強制追放」だった


第二次世界大戦中にナチス・ドイツが行った、ユダヤ人の大量虐殺(いわゆるホロコースト)は、人類史上の汚点として歴史に特筆されているが、ヒトラーに従うナチス親衛隊による組織的なユダヤ人虐殺の多くは、旧ポーランド領内において実行された。


だが、1939年秋にポーランド西部を征服した時点では、ヒトラーとナチス親衛隊はユダヤ人大量虐殺に関して、具体的な計画を特に用意していなかった。


ナチス親衛隊は、ポーランドに侵攻したドイツ軍の背後に特別行動部隊を送り、治安維持の名目で約7000人のユダヤ人市民を殺害したが、この時点ではまだ、ドイツ支配圏におけるユダヤ人問題の全体的な解決法は、「ドイツ支配圏外への移住(強制追放)」が基本方針とされていたからである。


この方針に従い、まず進められたのが、占領地におけるユダヤ人の「隔離」だった。


■石壁で囲まれた「ゲットー」に隔離


いまだポーランド中部では戦いが続いていた1939年9月21日、親衛隊保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒは、ドイツ軍が占領したポーランド農村部のユダヤ人を大都市に集めよとの命令を下すのと共に、総督府領のクラクフ東方にユダヤ人居留地を建設する計画草案を部下に作成させた。


こうして誕生したのが、ユダヤ人を強制的に収容する居住区「ゲットー」だった。


ゲットーとは、中世のヴェネツィアで最初に作られたユダヤ人の隔離居住区のことで、その後ヨーロッパの各都市で同様のゲットーが作られ、独自の宗教と生活習慣を守るユダヤ人を市内の狭い一角に隔離した。石壁で囲まれたゲットーの中で、ユダヤ人は自治権を付与されたが、外部に出る際にはユダヤ人とわかる印を着用するよう強制された。


10月8日、総督府領内に最初のゲットーが作られ、11月23日には旧ポーランド領に住む10歳以上のユダヤ人は、ユダヤ人のシンボルである「ダビデの星(二つの三角を上下反対にして重ねたもの)」が入った腕章の着用を義務づけられた。


また、ナチス・ドイツは、独自の文化と生活習慣を持つ少数民族のシンティ・ロマ(かつては差別的意味を込めて「ジプシー」と呼ばれた)も迫害し、1935年から国内で差別と迫害の対象としていた。ポーランドでも、シンティ・ロマはユダヤ人と同様に、ドイツの統治当局による迫害の対象となり、自由と権利を奪われていった。


■追放先がないのに増え続けるユダヤ人


ドイツ支配圏におけるユダヤ人問題を管轄するナチス親衛隊は、同支配圏内で暮らすユダヤ人の追放先として、当初は中東のパレスチナやアフリカのマダガスカルを想定し、対ソ戦開始後はソ連領内の奥地も追放先として検討した。だが、イギリスとソ連がドイツに屈服せず、戦争継続の姿勢をとり続けたことで、ドイツ支配圏外へのユダヤ人の強制追放という選択肢は、実現することが不可能となった。


その間、ドイツ軍はヨーロッパ各地で戦勝を重ねて占領地を拡大し、それに伴ってドイツ支配圏のユダヤ人の数も増大していた。


1939年9月に第二次世界大戦が勃発した時、ドイツ国内には約35万人のユダヤ人が存在し、旧ポーランド北西部の併合により約55万人が追加されたが、この約90万人のうち、1941年末までに総督府領内へと移送されたのは、約13万人だった。


総督府領には、移送を受け入れる前から約150万人のユダヤ人が存在したが、戦争序盤の連戦連勝に伴うドイツ支配圏の拡大により、各占領地から移送されるユダヤ人の数は増え続け、1941年末には250万人近くに達していた。


写真=iStock.com/Artsiom Malashenko
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Artsiom Malashenko

■ナチス親衛隊員の負担を軽減する殺害方法


ヒトラーと側近の親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーは、ドイツ支配圏からのユダヤ人排除という問題を解決するには、ユダヤ人を「絶滅」させるしかないとの結論に至り、ハイドリヒとその部下アドルフ・アイヒマンらは、のちに「最終的解決」という隠語で言い表されることになる、ユダヤ人の組織的虐殺という非人道的な作業に着手した。


ドイツ軍によるソ連侵攻の過程では、ドイツ支配圏におけるユダヤ人をこれ以上増やさないため、占領地のユダヤ人を親衛隊の特別行動部隊が乱暴に射殺するという方策がとられた。だが、ごく普通のユダヤ人市民を、問答無用で大量に殺害するよう命じられた親衛隊員の中には、心的外傷(トラウマ)で精神に不調を来す者も現れ始めた。


それを知ったヒムラーと親衛隊幹部は、ユダヤ人を虐殺する親衛隊員の「心理的負担」を軽減でき、なおかつ単位時間当たりで殺害できるユダヤ人の数を増大させる方策を検討し、毒ガスによる組織的殺害という手段の研究が進められた。


まず試作されたのが、密閉された空間に大勢のユダヤ人を閉じ込め、そこに有毒な排気ガスを送り込んで一度に殺害するという、異様な構造を持つトラック(特殊自動車=ゾンダーヴァーゲン)や家屋だった。


■「絶滅収容所」が各地に建設されていった


1941年9月18日、ヒムラーはヴァルテガウのヘウムノに、ユダヤ人の大量殺害を目的とする最初の「絶滅収容所(フェアニヒトゥングスラーゲル)」を建設する決定を下した。ヘウムノ絶滅収容所は、同年12月9日に稼働を開始し、1943年3月にいったん閉鎖されるまでの期間に、14万5000人以上のユダヤ人を殺害した。


同様の絶滅収容所は、総督府領内でも建設が検討され、ヒムラーは1941年10月13日、総督府領内で最初(全体ではヘウムノに続き二番目)の絶滅収容所をルブリン南東のベウジェツに建設するよう命じた。この新たな絶滅収容所は、排気ガスのトラックではなく、敷地内の特殊な建物で毒ガスを用いてユダヤ人を「効率的」に殺害する施設とされ、1942年3月17日に最初のユダヤ人殺害行程が実行された。


ベウジェツに続いて、総督府領内のソビブルとトレブリンカでも絶滅収容所の建設が進められ、前者は1942年5月、後者は同年7月にガス室による大量殺害を開始した。


■アウシュヴィッツで大量虐殺システムが完成


旧ポーランド領内には、第二次世界大戦中に計6カ所の絶滅収容所が建設されたが、その中でも国際的に有名なのは、アウシュヴィッツに作られた複合施設である(残る1カ所は総督府領のルブリン近郊に作られたマイダネク強制収容所)。


写真=iStock.com/VisualCommunications
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ドイツのオーバーシュレージェン県に併合された、旧ポーランド南西部にあるアウシュヴィッツの絶滅収容所は、最初に作られた「第一」と、後に近隣で拡張された「第二」から成り、後者は「ビルケナウ」とも呼ばれた。



山崎雅弘『第二次世界大戦の発火点 独ソ対ポーランドの死闘』(朝日文庫)

旧ポーランド軍の兵営を強制収容所に転用したアウシュヴィッツ第一絶滅収容所では、1941年9月3日から殺虫剤「チクロンB」を用いた収容者(ポーランド人とソ連兵捕虜)の殺害が実験的に開始されていたが、ナチスのユダヤ人政策の転換に伴い、ユダヤ人の絶滅収容所として施設が拡張された。


1942年2月、アウシュヴィッツ第一収容所に隣接する焼却炉の死体置き場が、同地で最初のガス室に改造され、チクロンBによる大量殺害が可能であることが確認された。


第一の拡張施設として、同地から約3キロ北西に建設されたアウシュヴィッツ第二(ビルケナウ)収容所でも、1942年3月からガス室によるユダヤ人殺害が行われ、1943年3月にはガス室と死体焼却炉を組み合わせた大量虐殺のシステムが本格的に稼働した。


■過酷な強制労働か、ガス室かの二択


自分たちを待ち受ける凄惨(せいさん)な運命を知らないまま、家畜を輸送する鉄道貨車で次々とアウシュヴィッツに送られたユダヤ人は、まず携帯する財産を没収され、年齢や健康状態をナチスの医師が判断して、強制労働のグループと、ガス室で殺されるグループに振り分けられた。


後者は、「身体を消毒する」との嘘の説明を聞かされた後、衣服を脱いで「シャワー室」に入るよう指示され、扉を閉められた後、シャワーノズルから噴出した「チクロンB」の青酸ガスで短時間のうちに殺害された。


命を取り留めた前者のユダヤ人も、縦縞の囚人服を着せられ、上腕の内側に固有の囚人番号を刺青で彫られた上で、電流の流れる二重の鉄条網で囲まれた粗末なバラックで暮らしながら、近隣に建設されたドイツの軍需工場で苛酷な強制労働に駆り出された。


■ユダヤ系ポーランド人の8割が命を奪われた


アウシュヴィッツでのガス室によるユダヤ人大量虐殺は、1944年11月まで続けられ、100万人近いユダヤ人が同地で無惨に命を奪われた。その犠牲者で一番多かったのはハンガリーから移送された人々(約40万人)で、次がポーランドとそれに隣接するドイツ南東部のオーバーシュレージェンからの移送者(約25万人)だった。


前記したシンティ・ロマも、約2万人がアウシュヴィッツ絶滅収容所で虐殺された。


戦後の歴史家による実証的研究により、ナチス・ドイツが第二次世界大戦中に殺害したユダヤ人の数は、600万人に達したと考えられている。その大部分は、ナチス親衛隊が旧ポーランド領内に建設した、計6カ所の絶滅収容所で殺害された犠牲者だった。


そして、戦争中にドイツの蛮行で生命を奪われたユダヤ系ポーランド人の数は、270万人(戦前のユダヤ系ポーランド人の8割)にのぼるといわれている。


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山崎 雅弘(やまざき・まさひろ)
戦史・紛争史研究家
1967年大阪府生まれ。軍事面に加えて政治や民族、文化、宗教など、様々な角度から過去の戦争や紛争を分析・執筆。同様の手法で現代日本の政治問題を分析する原稿を、新聞、雑誌、ネット媒体に寄稿。著書に『[新版]中東戦争全史』『1937年の日本人』『中国共産党と人民解放軍』『「天皇機関説」事件』『歴史戦と思想戦』『沈黙の子どもたち』など多数。
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(戦史・紛争史研究家 山崎 雅弘)

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