そもそもは平安時代のインテリが使う秘密の言葉だった…最新研究でわかった「ひらがな」の生みの親

2024年2月20日(火)14時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/Hannizhong

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ひらがなはどのようにして誕生したのか。東京大学大学院の矢田勉教授は「初めに作ったのは、個人ではない。平安時代の都にいた、おそらくは男性たちが、公式でない用途のために使い始めた可能性が高い」という——。(第2回/全2回)

※本稿は、国立国語研究所・編『日本語の大疑問2』(幻冬舎新書)の第3章「文字にまつわるミステリー」の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/Hannizhong
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■ひらがなを発明したのは空海ではない


平仮名は誰が作ったのですか

回答=矢田 勉

平仮名は、誰か一人が作ったというものではありません。江戸時代までは、空海が作ったと広く信じられていましたが、ありえないことです。


空海は、弘法大師とも呼ばれる平安時代初期(774年生〜835年没)の僧侶で、遣唐使を経て、真言宗の開祖となりました。


鎌倉時代以降に、まず、空海がいろは歌を作ったという俗説が生まれました。いろは歌が出来たのは空海の時代よりだいぶ後のこと(11世紀)ですから、それもありえないことですが、いろは歌は、その内容が仏教の重要な考え方である「無常観」を大変簡潔に表したものと読めるので、日本を代表する僧侶である空海が作者だと考えられるようになったのです。


出所=『日本語の大疑問2』より

このいろは歌は、平安時代末期以降(明治時代初めに至るまで)、子供がはじめて平仮名を習うときの手本として使われるようになりました。それでやがて、いろは歌だけでなく平仮名までも、空海が作った、と信じられるようになったのです。


その理由には、空海が中国人さえ舌を巻いた書の名人としても知られていることが関わっているに違いありません。


ちなみに、片仮名のほうは、やはり江戸時代まで、吉備真備(きびのまきび)という奈良時代の学者が作者と考えられていました。この人も、遣唐使として中国に渡り、その才智で中国人を驚かせたという様々な伝説を持っている人です。


■では誰が作ったのか


さて、平仮名を作ったのが個人ではないとして、どういう人「たち」が平仮名を作ったのでしょう。


平仮名というと、女性の文字のイメージがありますが、誕生したての頃の平仮名の資料で、明らかに女性が書いた、という証拠があるものは一つもありません。


平仮名に女性のイメージが付いたのは、平仮名が文字として成熟してからのち、女性、特に宮中に仕える女房と呼ばれた人たちによって、日記や随筆や物語といった平仮名で書かれた文学が花開いたためでしょう。でも、それは平仮名そのものの誕生とは別の話です。


いっぽうで、初期の平仮名の資料には、男性が書いたことが明らかなものはいくつか存在しています。「有年申文(ありとしもうしぶみ)」と呼ばれている資料はその一つです。


これは、現在は東京国立博物館に所蔵されていて、書かれた年代が明らかなものでは最も古い平仮名の資料でもあります。


讃岐介という職(今で言えば香川県の副知事でしょうか)にあった藤原有年という男性貴族が、貞観9(867)年に書いたもので、漢文の中に平仮名が交ぜられています。


その他にも、円珍(814年生〜891年没)という僧侶が最晩年、病床で書いた手紙「円珍病中言上状」(園城寺蔵)の末尾にも平仮名を交ぜて書かれた文が見えます。


■使い手は教養がある人ばかり


平仮名というと、もう一つ、漢字や漢文が書けないような人たちの文字、というイメージもあるかと思います。後の時代の平仮名についてはそういった側面もなくはないのですが、平仮名を生み出したのがそういった人々であったとは、やはり言えません。


誕生したての時期の平仮名の使い手たちを見ると、藤原有年は、トップクラスとは言えませんが、いわば実務官僚ですし、円珍に至っては、平安時代の天台宗を代表する高僧の一人です。


むしろ、漢字を使いこなせないような人たちに、漢字から独自の文字を生み出すことが出来たと考える方が不自然でしょう。


■いつ誰が書いたのかわからない


平安時代の平仮名の使い方には一つの特徴があります。それは、平仮名の文書には、基本的に書いた年月日が記されない、ということです。書き手の名前が記されないことも普通です。


漢文で書かれた文書では、そういうことはありません。「有年申文」の年号が分かっているのは、この文書が、漢文で書かれた文書の添え書きのようになっていて、本体に当たる漢文の文書に年月日が書かれているからです。


漢文の文書が、いつ誰が書いたのかを明らかにして、後々の証文となるように配慮されているのに対して、平仮名で書かれたものは、そういった配慮の必要がないような、たとえば私的なやりとりなどに使われたのだと考えられます。


誕生したての平仮名は、そのように、後々まで証拠として取っておく必要のないところで使われていたと考えられます。ですので、現在まで伝わる資料は極めて稀なのです。


■平仮名は「消費される文字」だった


2012年に、京都の藤原良相(ふじわらのよしみ)邸跡という遺跡(9世紀)から、宴会などに使われて廃棄されたと思われる土器に、墨で平仮名が書かれたものが数多く出土したことが明らかになりました。平仮名は初め、そういう「消費される文字」だったのです。



国立国語研究所・編『日本語の大疑問2』(幻冬舎新書)

まとめますと、平仮名を初めに作ったのは、個人ではなく、平安時代9世紀中頃の都にいた、おそらくは男性たちであったと思われます。


それも、漢字が書けないような人々ではなく、少なくともそれなりに漢字を使いこなせる人たちの間から、公式でない用途のために発生してきたのだと考えて良いでしょう。


実は、平仮名の誕生以前、万葉仮名の時代にも、誕生したての頃の平仮名と同じような用途の資料、たとえば私的な手紙(正倉院文書の中の万葉仮名文書)や土器の落書き(飛鳥京跡苑池遺構出土の刻書土器)がありました。そうしたものがやがて平仮名に変わっていったのだと思われます。


その時期がなぜ9世紀中頃だったのか、その正確な答えは今後の研究に求められていますが、木簡が文字を書くための媒体として多く使われていた時代から、なめらかな運筆に木よりも適する紙がもっと普通に使われるようになった時代へと移行したことが、関係しているかもしれません。


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矢田 勉(やだ・つとむ)
東京大学大学院 総合文化研究科 言語情報科学専攻 教授
専門は国語文字史・表記史。漢字・漢文を自分のものにする一方で、片仮名と平仮名という新たな文字を生んだ、世界にも例のない複雑さを持った日本の文字の歴史を、総合的に研究している。
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(東京大学大学院 総合文化研究科 言語情報科学専攻 教授 矢田 勉)

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