現代の大臣には期待できないストイックさ…松平定信は「国民が困窮しないように」命懸けで祈願し国政を執った

2024年2月22日(木)8時15分 プレジデント社

東京都千代田区の北の丸公園(旧江戸城)田安門。この門内に吉宗の第二子宗武が御三卿・田安家を興し、定信もここで育った - 撮影=プレジデントオンライン編集部

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ドラマ「大奥」(フジテレビ系)で秀才として描かれ、父親から次の将軍にと期待されている松平定信。作家の濱田浩一郎さんは「10代将軍家治と同じく、吉宗の孫として生まれた定信は、老中首座となってからも質素倹約を貫き、国民が飢えて困窮しないように寝食のときでさえ政治のことを考え続けた」という——。

■吉宗の孫で「寛政の改革」を推進した老中・松平定信


ドラマ「大奥」がフジテレビで放送中です。主演は小芝風花さんで、10代将軍・徳川家治に嫁いだ五十宮倫子を演じています。このドラマの主要人物の1人には、徳川幕府において老中を務め、いわゆる「寛政の改革」を推進した松平定信も含まれています。今回、定信を演じるのは、アイドルグループSnow Manのメンバー・宮舘涼太さん。では、定信とはどのような政治家だったのでしょうか。


定信が生まれたのは、宝暦8年(1759)のこと。父は、田安宗武(たやすむねたけ)。母は山村氏の娘。宗武の父は、8代将軍・徳川吉宗ですので、定信にとって、吉宗は祖父に当たります。幼少の頃の定信は、病弱でしたが、医師の診療により、死なずに済んだといいます。無事に成長した定信は、勉学に励みます。学問に精進した結果、周囲の者たちから「記憶に優れ、才もある」と称賛されたようです。


撮影=プレジデントオンライン編集部
東京都千代田区の北の丸公園(旧江戸城)田安門。この門内に吉宗の第二子宗武が御三卿・田安家を興し、定信もここで育った - 撮影=プレジデントオンライン編集部

ただ、儒教の書物の1つ『大学』をなかなか覚えることができず、自分の不才を思い知ったとのこと。それと同時に、周りの人々が称賛したのは、自分に対するおもねりだったかと悟ったようです(定信の自叙伝『宇下人言』)。なんとこれが、定信が8歳か9歳頃のことでした。不才を悟るといじけてしまいそうですが、定信は「日本や唐土(中国)にも名声を高くしたい」と言う「大志」をわずか10歳にして抱くのでした。


■定信は12歳のときに自筆の道徳書を作った秀才だった


そして、12歳の時には、夫婦、父子、兄弟、友人など人倫の大義をまとめた修身書(道徳書)『自教鑑』を執筆します。定信は早熟な秀才だったと言うべきでしょう。弓・馬・剣・槍術といった武芸にも精進した定信。まさに文武両道。そんな定信でしたが、明和8年(1771)に父・宗武(ドラマで陣内孝則が演じている)を亡くします。


田安家を継いだのは、兄の田安治察(はるあき)でした。治察は異母弟の定信を大いにかわいがったようですし、定信もまた治察のことを尊敬していました。そして、定信は、安永3年(1774)、10代将軍・徳川家治(亀梨和也)の命令により、陸奥国白河(福島県白河市)藩主・松平定邦(さだくに)の養子となります。


ところが同じ年の8月、田安家の当主となっていた兄・治察が若くして病没するのです。治察には妻子はいませんでした。このままいけば、徳川将軍家の一門で、将軍家に後嗣がない際に後継者を提供できた田安家は絶えてしまいます。そこで、鋭敏な定信を再び田安家に復帰させようという計画が起こりますが、実現せず。定信の田安家復帰を阻んだのは、幕府老中を務めた田沼意次(安田顕)だったとされます。才能ある定信が、田安家に復帰し、将軍に就任することを恐れたからだと言われます。


■白河藩主となり、天明の大飢饉でも餓死者を出さなかった


時は流れ、天明3年(1783)、定信は養父の後継として、26歳で白河藩主となるのです。時は、天明の大飢饉(ききん)の足音が忍び寄っているころ。藩主となったその日に、定信は家老を呼んで「凶年(凶作の年)は珍しいことではない。今までなかったことは幸いである。よって、驚くことではない。凶には凶の備えをなすのが良い。この時に乗じて、倹約・質素の道を教えて、磐石の固めとする」と申し渡します。


そして、家臣の手本となるように、食事を減らし、朝夕「一汁一菜」、昼「一汁二菜」とするのです。藩の要職にある者と議論し、寝食のときでさえも、政治のことを考え続けた定信。その根本には「国が安泰であれ」という精神がありました。


天明4年(1784)の春には、飢饉をしのぐことは困難であるとの話があったので、定信は乾葉や干魚を用意して、江戸から白河に送ります。備えあれば憂いなしの言葉通り、定信の対策が功を奏し、天明の大飢饉において、白河藩では餓死者が出なかったとされます。名君との評価を高めた定信は、天明7年(1787)、30歳にて、幕府老中の首座(老中の最上位)に就任するのです


図表作成=プレジデントオンライン編集部

■質素倹約の姿勢と功績を認められ、幕府の老中首座に就任


定信が老中に就任できた背景には、御三家や一橋治済(ひとつばしはるさだ)(11代将軍・徳川家斉(いえなり)の実父)の後押しと、江戸で起きた天明の打ちこわしにより、田沼派の一部が失脚したことがありました。定信の老中就任を嫌がる者のなかには、9代将軍・徳川家重の代に「将軍の縁者を幕政に参与させてはならない」との上意(将軍の命令)を盾にするものもいました。定信の実の妹・種姫(たねひめ)は10代将軍・徳川家治の養女となっていたのです。


定信方は、家重の言う「将軍の縁者」とは外戚(母方の親類)を指すものであり、定信はそれに当たらないとの反論をしています。それはさておき、30歳の若さで、老中首座となった定信は、天明8年(1788)には、将軍補佐役にも任じられ、他の老中とかけ離れた存在(立場)となります。そのことにより、田沼派の「何の害もない」(無能)な老中らを罷免にできたのです。


■徳川御三家に気を使いつつ、武士の貧困問題に取り組んだ


絶対的な権力を握ったかに見える定信ですが、独裁者然として振る舞ったわけではありません。重要な事柄は、尾張、紀伊、水戸の御三家(ごさんけ)におうかがいを立てています(御三家を幕政に関与させるというのは異例のこと。これは定信の老中就任の経緯が関係しているものと思われます)。また、他の老中ともよく相談をして物事を推進しています。


定信が老中に就任したころは、武士の義気(義侠心)が衰えて、町人の勢いが増していました。下の者が上の者をしのぐ(下勢、上をしのぐ)ような風潮が現出していたのです。武士の中には、生活に困窮し、商人に借金する者もいました。困窮と借金地獄。


二重苦から武士(旗本・御家人)を救い出すために出されたのが、寛政元年(1789)の「棄捐令」です。棄捐令とは、札差(旗本・御家人に代わって蔵米の受取り・販売を行い、手数料をもらいうけた商人)に対する借金を一部もしくは全部破棄させた法令のこと。天明4年(1784)以前に旗本や御家人が札差(ふださし)(年貢米を金銭に換える業者)から借りた金は破棄。天明5年(1785)から寛政元年までの借金は利子を引き下げ(年利を18パーセントから6パーセントに)、年賦返済(分割払い)とされました。


「松平定信自画像」鎮国守国神社(三重県桑名市)、天明7年6月(写真=PD-Japan/Wikimedia Commons

■武士の借金を破棄させたが、旗本たちが救われたわけではない


だが、札差はこの棄捐令により、約118万両という債権を失いました。当然、札差の閉店や、貸し渋りが起こります。一部の武士は救われたのかもしれませんが、全体として見れば、旗本らの財政は必ずしも好転しませんでした(後に天保の改革においても棄捐令が発布されています)。武士の義気の回復に棄捐令が結び付いたとも思えません。小禄の御家人のなかには、住所も定まらず(住所不定)、衣服はあっても「大小(大刀と小刀)」を持たない者もいました。そうした者たちを何とか更生させるため、甲府・駿府・鎌倉の地に集め、収容するプランも出されます(学問所での教育も行う)。


また、武術の上覧(将軍の御前で武術を披露)や学問試験を行い、秀でた者を表彰するという計画も立てられます。寛政の改革における文武奨励は、文人・大田南畝の狂歌で「ぶんぶ(文武)というて、寝てもいられず」と蚊の羽音とかけて茶化されることになります。しかし、文武奨励には、武士の義気回復と下剋上的風潮を改善しようとする定信の思惑があったのです。


■政治批判の出版物を禁じ、言論統制をした負の面もあり


定信の寛政の改革においては、凶作や災害に備えた金銭・米穀の貯蓄が全国的に行われます。この対策などは、危機管理の観点から見ても、現代においても有効でしょう。寛政の改革には、このような光の面もあれば、影の面もあります。思想・情報の統制、朱子学以外の儒学を禁じた「寛政異学の禁」、風俗を乱す好色本や、政治批判の出版物を禁じた出版統制令などは、現代から見ると、影の部分でしょう(寛政異学の禁は、幕府に忠実な官僚育成の意図がありましたが)。


定信の改革には良い面・悪い面、成功と失敗、さまざまありますが、筆者が好きなのは、定信の政治にかける想いです。例えば、徳川幕府の老中首座となった松平定信は、老中就任の翌年(1788)正月、霊厳島吉祥院(東京都中央区新川)に願文を捧げます。その中には、自身と妻子の命に代えて「金銭や米穀がよく流通し、下々の者が困窮に陥らず、(幕府将軍の)威信や仁恵が行き届き、中興が成就すること」との文言があるのです。


現代の政治家は口では「国民のため」とか「身命を賭して」と言いますが、それがどこまで本気か疑わしいものです。しかし、定信は神仏にわが命に代えてと願っているのですから、その想いは本物でしょう。


■自叙伝で「情欲に流されたことはない」と断言した定信


ちなみに、定信の正室は、養父・松平定邦(白河藩主)の娘でした。定邦の娘がどのような人柄であったかは不明ですが、定信は自叙伝『宇下人言』において、独特な性交観を披露しています。「房事(性交)は子孫を増やさんがために行うのだ。情欲に耐え難いと思ったことはない」と。定信には側室もいましたが、国元へ帰る際も「老女」のみを連れて行ったこともあったそうです。世間が凶作で苦しんでいるときに、婦女を多く連れ行くことを嫌ったのでした。


定信に言わせると、それは「一つの慎み」でした。余談となりましたが、筆者は定信の政治家としての姿勢を評価しています。また、改革の実績も残しているのですから、有能な政治家と言えるでしょう。


ちなみにドラマ「大奥」では定信と主人公、家治の御台所・五十宮倫子(いそのみやともこ)が幼なじみという設定のようですが、それは史実ではありません。


参考文献
・藤田覚『松平定信』(中公新書、1993年)
・高澤憲治『松平定信』(吉川弘文館、2012年)


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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)
作家
1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師を経て、現在は大阪観光大学観光学研究所客員研究員。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。
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(作家 濱田 浩一郎)

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