日本のロックは世田谷の7坪の店から始まった…革命家を目指した元左翼青年がライブハウスで大成功するまで

2024年2月24日(土)13時15分 プレジデント社

撮影=プレジデントオンライン編集部

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1970年代の日本では、それまでマイナーな音楽だったロックが大流行した。そのきっかけのひとつが、東京各地にできたライブハウス「ロフト」だ。なにが新しかったのか。なぜ大流行となったのか。『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)を書いたロフト創設者の平野悠さんに聞いた——。(前編/全2回)(インタビュー・構成=ライター 山川徹)
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坂本龍一がロックに目覚めた「ロフト」


——「ロフト」は、坂本龍一、浜田省吾サザンオールスターズ、BOØWY、スピッツらロックミュージシャンを育てた聖地と知られています。始めたきっかけはなんだったのでしょうか。


【平野】もともとぼくはロックに興味がなかったんですよ。若い頃、全共闘運動で2回逮捕された経験があって就職できなかった。で、当時流行していたスナックでもやろうかと、71年春、26歳の時に京王線の千歳烏山駅近くに7坪の店をオープンした。


ジャズスナックと言ってもぼくが持っていたレコードは40〜50枚程度。そんなぼくを不憫に思った常連が、レコードを持ち込んでくれた。持ち寄ったレコードを聴きながら、みんなロックに目覚めていったんですよ。「はちみつぱいが面白い!」「はっぴいえんどがいい!」って語り合って盛り上がった。


坂本龍一も「烏山ロフト」の常連のひとりでした。東京藝大でクラシックを学んでいた彼もレコードを聴いて「ロックってスゴいね」と言い出した。坂本は「ジャズスナック・ロフト」だけでなく、その後に出来た「西荻窪ロフト」「荻窪ロフト」「下北沢ロフト」「新宿ロフト」にも足を運んでくれた。


そこで彼は、たくさんのロックミュージシャンと出会って、りりィ&バイ・バイ・セッション・バンドに参加する。坂本龍一という日本の音楽シーンを牽引した天才も、ぼくたちと一緒に千歳烏山の辺鄙なスナックでロックに目覚めた若者のひとりだったんです。


とはいえ、当時ロックはまったくのマイナーなジャンルだった。日本のロックバンドは、先駆者の内田裕也さんから「ロックは英語で歌え。そうしないと世界に通用しない」というプレッシャーを与えられ、海外のレコードをコピーするくらい。


そんな状況に「なんで日本語で表現しちゃいけないんだ」と反逆したはっぴいえんどや、ムーンライダーズなどが日本語で歌いはじめた。


■「ロックのパイオニアになれる」というささやき


——そうしたロックというジャンルの胎動に合わせるようにして、ロフトは各地に展開していくわけですね。



平野悠『1976年の新宿ロフト』(星海社新書)

【平野】と言っても、経済的には四苦八苦していました。コーヒー一杯が120円の時代ですからね。スナックの売り上げが1日2万円で、月60万円くらい。これじゃ生活がやっとです。そこで、2軒目のオープンを模索しはじめた。そんなとき常連の音楽評論家から吹き込まれたんです。「ライブ空間がある店をつくれ。そうすれば、平野さんは日本のロックのパイオニアになれるよ」と。


ロックのパイオニアになれる——この悪魔のささやきが、73年にオープンしたライブハウス「西荻窪ロフト」の原点になりました。


何もかも手探りではじめての挑戦だったけど、「西荻窪ロフト」の登場をみんなが本当に喜んでくれた。まだライブハウスという言葉すらなかった時代で、客にとってはレコードでしか聞いた経験のないロックやフォークを生で体験できて、ミュージシャンにとっては自由に表現できる空間ができたわけだから。


しかし問題もありました。騒音がヒドくて、近隣から苦情が殺到し、弾き語りのフォークライブしかできなくなってしまったんです。


それなら、と次の年に本格的なロックのライブハウス「荻窪ロフト」を開いた。坂本だけでなく、細野晴臣や大貫妙子、シュガー・ベイブ、はちみつぱい、ハイ・ファイ・セット、桑名正博、RCサクセション、矢野顕子……。錚々たるミュージシャンたちがロフトに集まってくれるようになったんです。まだまだ手探りだったけど、熱気があった。これからロックの時代がはじまるんだと確かな手応えを感じました。


■昼はロック喫茶、夜はロック居酒屋


——マイナーなジャンルだったロックのライブで、経営は成り立ったんですか?


【平野】それが、儲かったんですよ。ただし、まだ無名のミュージシャンたちも多くて、ライブだけでは集客が見込めなかった。儲けだけを考えたらライブハウスなんて経営しない方がいいに決まっています。


でもただでさえ数が少ないライブハウスがなくなってしまっては、ミュージシャンも演奏する場を失ってしまう。経営的に成り立たせるために、いろいろと工夫しました。


ロフトの経営を支えたポイントは2つあります。ひとつが居酒屋営業。


ライブは週末や祝日だけで、昼はロック喫茶、夜はロック居酒屋にしました。ライブがある日も終演後の夜10時頃から居酒屋がスタートして、始発まで営業を続けた。


ライブが終わったあと、演者は打ち上げで朝まで酒を飲むでしょう。残ったお客さんも打ち上げに交ざっていく。そんな話が広まり、ミュージシャンと一緒に飲むのを目当てに来店するお客さんが増えていった。その結果、ライブで儲けが出なくても、黒字化ができるようになったんです。


撮影=プレジデントオンライン編集部
「ライブ後の居酒屋営業では、たくさんの新しい音楽が次々生まれた。まぁ、ケンカも多かったけど」と笑う平野さん - 撮影=プレジデントオンライン編集部

ライブ後の居酒屋営業で、何よりも面白かったのは、ミュージシャン同士、あるいはお客さんとミュージシャンのコミュニケーションです。飲みながら突然、セッションがはじまったり、いきなり新しいバンドが生まれたりする。もちろんケンカもあった。


ぼくは常々ライブハウスは「コミュニケーション空間」であり「情報発信基地」だと話しています。それは、西荻窪と荻窪での居酒屋営業の経験があるからなんです。


■その後のライブハウスがマネしたシステム


【平野】経営を支えたもうひとつの要素は、チャージバック制の導入です。あの頃、ミュージシャンにわたすギャラの相場が1万5000円で固定だった。対してチャージ(入場料)がひとり400円とか500円。数人しか客が入らないことも珍しくないから、ミュージシャンにギャラを払ったら、店がもたない。


だから2軒目のオープン後しばらくしてから、固定ギャラ制を廃止して、お客さんの人数分のチャージを全額ミュージシャンが受け取れる仕組みに変更しました。


この「チャージバック制」は、演奏を聴きにきたお客さんが支払うチャージは演者のもので、店は飲食で稼ぐべき、というぼくなりのポリシーから生まれたシステムだったんです。


——いまでは多くのライブハウスが導入しているシステムですが、平野さんが考案されたんですね。


【平野】それがぼくの自慢なんです。ほかのライブハウスもすぐにマネしはじめた。当然です。そうしないとやっていけないんだから。


チャージバック制やライブ後の居酒屋営業は、確かにロフトの経営を支えてくれた。でもそれ以上に大きかったのが、時代です。


ロックにスピード感があったと言えばいいか……。日本中でロックバンドがどんどん結成された。だから、ぼくらも“ロックのパイオニア”として、ロックのスピードに合わせて1975年に「下北沢ロフト」を、そして1976年に「新宿ロフト」を立て続けにオープンさせたんです。


集大成が「新宿ロフト」です。キャパシティ300人はあの時代としては画期的な広さでした。当時最大のスピーカーをアメリカに買いに行き、付き合いがあるミュージシャンを総動員して、オープニングセレモニーを行いました。ロックにも勢いがありましたが、ぼくもまだ32歳。青春のまっただ中だったんです。


1976年、オープン当時の新宿ロフト。(『1976年の新宿ロフト』より)

■ライブと革命は似ている


——逮捕されるほど学生運動に傾倒したとおっしゃっていましたが、学生運動とロックに重なる何かを感じたのですか?


【平野】いまになるとバカみたいな話だけど、学生運動にかかわっていた時期はプロの革命家を気取っていたんですよ。ヘルメットかぶって、ゲバ棒を持ってね。その時代に「音楽で革命」なんて聞いていたら「そんなのできるわけないだろう。暴力革命しかない」と粋がっていたはずです。体制をぶっ壊すんだ、と(苦笑)。


改めて振り返ると、予定調和からの逸脱という点で、ライブと革命は似ているのかもしれません。


ライブハウスは何が起きるか分からないから面白い。客とミュージシャンがケンカになったり、物を投げ合ったり……昔のロフトではそういうことがしょっちゅうあった。


■80年代のバンドブームは「愚か」


【平野】記憶に残るのがマイナーだった時代の、あるロックシンガーです。「新宿ロフト」でライブ中に電源が2回も飛んでしまったんですよ。原因はバンド側にあったのですが、演奏が途切れた。するとその歌手がアカペラで歌った。やがてお客さんも歌いはじめて、最終的に大合唱になった。こんな一体感がある空間がほかにあるだろうかと本当に感動しました。


でもこのエピソードには後日談があるんです。その歌手を売り出そうとしていたレコード会社がライブハウスでの混乱を嫌って「ロフトにはもう出さない」と怒ったらしい。結局、その人はこのライブを最後にロフトのステージに立つことはなかった。


©地引雄一
81年の新宿ロフト(『1976年の新宿ロフト』より) - ©地引雄一

ミュージシャンが有名になると古巣から旅立っていく。これはライブハウスの宿命です。でも、このときは「ちょっと待ってくれ」と思った。ロックは反権力、反体制のシンボルだったはずでしょう。その頃から「がんばろう」とか「手をつなごう」とか薄っぺらい人生応援歌のような楽曲を歌うバンドが増えてきた。


孤立無援だったはずのロックミュージシャンに、大手の芸能事務所やレコード会社が目を付けたんです。そして80年代のあの愚かなバンドブームにつながっていく。ライブを経験していないようなバンドが青田買いされて、瞬く間に売り出されて消費されていく。


それまでぼくが付き合ってきたのは、孤立無援の独立したミュージシャンたちだった。彼らが芸能界に絡め取られていく。ぼくはもうイヤになっちゃって……。


■仕事を辞めるきっかけはBOØWYだった


——1984年、順調だったライブハウス「ロフトプロジェクト」の解散を、突如宣言しました。いったいなぜですか?


【平野】81年の春に、ぼくを訪ねてきた音楽制作会社ビーイングの創業者・長戸大幸さんに、高崎出身の元暴走族の「暴威」というバンドがあるのだが、手に負えないから面倒を見てくれ、と頼まれたんです。実際に会ってみるとカミソリみたいなギラついた連中だった。


暴威は81年5月に「新宿ロフト」でロフトデビューを飾りました。でも、客はわずか13人。その後、BOØWYに改名して、ファーストアルバムを出したんですが、鳴かず飛ばず。


そんな時期、彼らはライブに打ち込みました。「新宿ロフト」では月に一度のペースで続けていた。メンバーに不協和音が生じていて、解散の噂が常に流れていたけれど、彼らの動員はどんどん増えていった。ついに300人の新宿ロフトのキャパでは入り切らなくなり、主戦場をより収容人数の大きいライブハウスへ移していった。


アルバムのリリースも決まり、人気者となった彼らの勢いを目の当たりにして、ぼくの出番はもうないなと感じました。加えてロフトを手がけて、10年近く経っていたでしょう。少し前から音楽業界から離れたくて仕方なかった。80年代のバンドブームから商業主義的なバンドが増えて、音楽自体への関心が薄れてしまったのかもしれません。


そんなぼくに対して、BOØWYのマネージャーの土屋浩が涙を流しながら言うんですよ。「平野さん、BOØWYから逃げるんですか?」って。


ぼくは「もう興味がない」と言うと、彼は「見ていてください。BOØWYは絶対に天下を取って見せますよ」って。その1年後です。アフリカでBOØWYのブレイクを耳にしたのは。


■「サブカルチャーの殿堂」を作ったワケ


——ロフト解散宣言後はアフリカに行ったんですね。


【平野】バックパッカーになって、84年から3年間で87カ国を放浪しました。そのあとは、ドミニカで5年間、日本食レストランを経営していました。1990年に大阪で開かれた「国際花と緑の博覧会」でドミニカ政府代表代理、ドミニカ館の館長もまかせてもらいました。


そんなときに「新宿ロフト」の立ち退き問題が持ち上がったのがきっかけで、92年に帰国したんです。


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現在の新宿ロフト - 撮影=プレジデントオンライン編集部

ひさびさに訪れた「新宿ロフト」は、もともと自由な空間でしたがぼくが一切口を出さずに人任せにしていたおかげで、より自由な空間として残っていた。


それはよかったのですが、問題はぼくの音楽観が通用しなくなっていたこと。新しいバンドも知らないし、社会の変化にも世間の流行にもついていけない。


「新宿ロフト」の移転先もめどが立ったこともあり、今度は自分が楽しめる場をつくろうとトークライブハウス「ロフトプラスワン」を95年に立ち上げた。


——いまや「ロフトプラスワン」は、サブカルチャーの殿堂とも呼ばれています。


【平野】正直に言えば、成功するなんて思ってもいなかったんですよ。だって、トークで3000円、4000円も取るんですよ。まさかこんなに認知されて人気が出るとは想像もしていなかった。


とはいえ、いまの「ロフトプラスワン」はぼくが思い描いていた形とは大きく違います。実は、ぼくがホスト役をつとめる「エド・サリヴァン・ショー」をやりたかったんですよ。


■77歳の時に下した大きな決断


【平野】でも、ぼくはエド・サリヴァンにはなれなかった。


うちのスタッフが女優の渡辺えりを「ロフトプラスワン」に呼んで、ぼくがホストをやったんです。ぼくが、昔の劇団民藝の話をしたら、「あんた劇団民藝の何を知っているんだ!」って渡辺えりがキレちゃって。


ホストをやるのがいかに大変か実感しました。あれから基本的にホストは辞退しています。いまはぼくが出る幕はありません。


そんな経験を何度もしているからか、「新宿ロフト」にしても、「ロフトプラスワン」にしても、自分のモノという感覚はありません。執着がないと言えばいいか……。店はいつか潰れてしまうものでしょう。だから僕がいついなくなっていい。あとは、若い人たちが何かするでしょう。だからぼくは引退したんですよ。


(後編へ続く)


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平野 悠(ひらの・ゆう)
ライブハウス経営者
1944年8月10日、東京生まれ。70年代に烏山、西荻窪、荻窪、下北沢、新宿にライブハウス「ロフト」を次々とオープン。その後、海外でのバックパッカー生活、ドミニカ共和国での日本レストランと貿易会社設立を経て90年代初頭に帰国。1995年、世界初のトークライブハウス「ロフトプラスワン」をオープンし、トークライブの文化を日本に定着させる。著作に『旅人の唄を聞いてくれ! ライブハウス親父の世界84カ国放浪記』(1999年/ロフトブックス)、『ライブハウス「ロフト」青春記』(2012年/講談社)、『セルロイドの海』(2020年/世界書院)など。
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(ライブハウス経営者 平野 悠 インタビュー・構成=ライター 山川徹)

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