「せっかく家族サービスしてやると言っているのに」怒鳴り散らして子どもに嫌われる父親が変わる唯一の方法

2024年2月24日(土)6時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/tomazl

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「怒鳴るのをやめられない人」は、どうしたら怒鳴るのをやめられるのか。かつてDVやモラハラの加害者だった中川瑛さんは「自分が怒鳴ってしまう理由や背景を明らかにし、構造を変えようとしないと難しい。自分というシステムを理解し、現実の言語化をすることが必要だ」という——。(第1回/全3回)

※本稿は、中川瑛『孤独になることば、人と生きることば』(扶桑社)の一部を再編集したものです。


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■「怒鳴ってしまう」理由や背景を明らかにする


例えば「怒鳴ってしまう」という現象があったときに、「本当に悪かった。なんで怒鳴っちゃうのかわからないけど、これからもう二度と怒鳴らない!」と約束する人のことを信じられるでしょうか。僕は信じられません。なぜなら「どうして自分は怒鳴ってしまうのか」その理由や背景を明らかにして、その構造を変えようとしていないからです。


ここからは、「怒鳴ってしまう人」の立場から説明していきます。


■パターン、構造、メンタルモデル


システム思考では(いくつかの流派に分かれていますが)、出来事、パターン、構造、メンタルモデルといった分類をすることがよくあります。


「怒鳴る」が出来事だとすると、どんな条件が揃ってしまうときに怒鳴ってしまうのか? というのが「パターン」であり、その条件を頻繁に満たしてしまう状況が「構造」で、その構造をどこかでは自らが望んで選んでしまっていることを「メンタルモデル」と考えます。


例えば怒鳴るのは旅行をしているときに渋滞に引っかかってなかなか車が動かずイライラしているときかもしれません。すると、これがパターンとなります。「ああいうときに大体やっちゃうんだよな」がパターンであると言えるでしょう。


このケースだと、もはや「渋滞に引っかかってしまった」時点でパターンに入ってしまっていて、怒鳴ることをやめたくても簡単にはやめられないでしょう。周りの人は「あっ、これはいつものイライラから怒鳴るパターンだ……やだな……」と目配せを始めている場面です。


そうなるとそもそもなぜそのパターンが生じてしまうのかを理解する必要があります。それが「週末に旅行しているから」なら、それが構造だと考えることができます。


週末に旅行する限り、遠出をするときは渋滞を避けられないのです。こう考えてみると、週末の遠出をやめることなしには「怒鳴る」をやめられない、と考えることもできます。


そしてさらにはなぜ「週末の旅行」をしたいのか。そこには「週末くらいは家族サービスをしないといけない」という思いがあるからかもしれません。これをメンタルモデルと呼びます。さて、このあたりにくるとずいぶん現実の言語化がされてきたと言えます。


「なぜ怒鳴ってしまうのかわからない」から「怒鳴るのをやめる」という空虚な約束しかできない状況ではもうありません。「現実の言語化」は自分というシステムを理解することです。


■「渋滞を避ける」「遠出をやめる」「週末に家族サービスをしない」


システム思考にならって上からいくなら、一つの解決策は「渋滞に引っかからないようにする」かもしれません。怒鳴ってしまうパターンから離れることです。一つの方法としてはあるかもしれませんが「渋滞に引っかからないようにする」のは状況によりすぎて、あまり現実的な解決策ではなさそうです。


それよりは「週末に遠出をしないようにする」などの構造へのアプローチのほうが現実的かもしれません。そうすれば「怒鳴る」をやめられるかもしれません。では、さらに潜ってみるとどうでしょう。


「週末くらいは家族サービスをしないといけない」というメンタルモデルがあるとしたら、これにはどんなアプローチができるでしょうか。「平日に家族サービスをする」とか「家族サービスをしない」選択肢もあるかもしれません。


しかし平日は疲れ切っていて結局イライラしてしまってダメかもしれないし、家族サービスをしないことが、結局家族との関係をさらに悪くすることもあり得ます。


ではどうすれば一緒に生きていくために役に立つ言葉を作っていけるでしょうか。


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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/undefined undefined

■「共生の言語化」


こんな時こそ「共生の言語化」が必要になってきます。


「いつも怒鳴るからもう行きたくない。来週の旅行はやめようよ」と子どもから言われた時、どう対応できるでしょうか。孤独になる人はこんな場面で「ああそう、じゃあもう俺は家族サービスなんかしなくていいんだな! それで満足か?」と言うかもしれません。これは軽蔑の言語化です。


あるいは「どうせみんな俺のことが嫌いなんだろう。せっかく旅行に連れていってやっているのに、俺はなんて可哀想なんだ……はあ……」と落ち込んだ様子を見せ、いつもより多くのお酒を飲んで周りに罪悪感を与えて、忖度(そんたく)させようとするケースもあるでしょう。これは妄想の言語化とも言えるでしょうか。


子どもたちはそういう様子を見せつけられて「旅行は嫌だ」ともう言えなくなるかもしれません。喜んでいるふりや、楽しんでいるふりをするかもしれません。イライラして怒鳴って最悪の空気になった車の中では何も感じていないふり、悲しくないふり、傷ついていないふりをしないといけないかもしれません。


「もう怒鳴るから来週の旅行はやめようよ」と言われただけで孤独になる反応をしてしまう人が世の中にはたくさんいます。これは、「人と生きるための言語化」を目指さない点で責任の放棄です。その責任を引き受けることを考えてみましょう。


■なぜ「週末は家族サービス」なのか


「そもそも、なぜ週末くらいは家族サービスをしないといけないのか」を深めてみましょう。


「週末くらいは家族サービスをしないといけない」とは「私たちの言葉」なのでしょうか。


「家族サービス」って具体的にはどういうことなのか、家族は一緒に話し合ってみたのでしょうか。


もしかしたら「お父さんは平日は仕事だから、旅行は絶対週末になるし、そうすると毎回帰り道とか渋滞になってイライラし出してどうでもいいことでキレるんだよな、本当にいつも最悪な気分になる……なのに旅行はしなくていいよと言えば、それはそれで怒るし、意味がわからん……」と思われているのかもしれないのです。なぜ家族サービスをしないといけないと思っているのか、なぜそれが遠出の旅行なのか考えてみる必要があるでしょう。


もしかしたら「自分の父親は家族に全然構わない人だったから、自分はいい父親になりたい」と思って家族サービスをしているのかもしれません。そして「珍しく父親が家族サービスをしてくれたのが遠出の旅行だった、あれは今でもいい思い出だ」と思っていて、だから自分も遠出の旅行をしているのかもしれません。


「ああ、あの日は本当に楽しかったな」としみじみと自分の感情に触れてみたり、あるいは「よく考えたら別の日には俺が全然欲しくないプレゼントを買ってきて、喜ばなかったら怒鳴って窓から捨てられたこともあったな……今自分が家族にやっていることは、結局そういうことじゃないか」と理解することもあるかもしれません。


■無意識に感じ考えていることを言葉にする


このように、自分が無意識に感じ考えていることを言葉にすることが「現実の言語化」です。それに対して「なんとなく」「そういうものだ」「週末くらいしか旅行できないだろう」「家族なんだから」など、十分に深掘りされることなく、もはや自分自身もうまく説明できない言葉は「妄想の言語化」です。それらは、現実の説明になっていないのです。


実はこんなふうに自分の考えを深めて話すことのできない人はたくさんいます。


「自分でもよくわからない、自分を、周りを生きづらくしている言葉」で自分を作ってきた人です。何を感じ、どう考えるべきか、どう言動するべきかを「人に言われたこと」で作ってきた人です。


そういう人は「自分の言葉」を失ってしまっているか、「誰かの言葉」によって覆い尽くされてしまっています。そういう方は、まずその自分の言葉に見せかけた「誰かの言葉」を一つひとつ丁寧に観察し、自分を語り直すことが必要になります。


■「私の言葉」の次は「あなたの言葉」を聞く


「私の言葉」を作り出せたら、次は何ができるでしょうか。今度は尊重の言語化です。他のメンバーがどんなことを考えているのかを聞くことができるのです。「みんなは家族旅行を楽しんでる? なんか違うことがしたいかな?」と。


そうするとこんな返事がくるかもしれません。「旅行は毎回お父さんが怒鳴るからもういきたくない」とか「休みの日は家でのんびりゲームとかしたい」「家でお菓子を食べたい」などなど。


それを聞いて過度に落ち込んだり、怒ったりすることは「尊重の言語化」ではありません。なぜなら、相手が感じ考えていること、すなわち「あなたの言葉」を共有することを恐れるようになってしまうからです。


■「私たちの言葉」を一緒に作る


相手から「あなたの言葉」を聞かせてもらえるように関わることが大切なので、そういった旅行を別に楽しんでいないし、行きたくないと言われたときに「そうだったのか、気づいてなくてごめんな」と言えるかどうかなのです。


そしてただ自己憐憫に走るのではなく「じゃあ、こういうのはどうかな?」とか「来週はそれをやってみよう」と言えるかどうかなのです。過度に落ち込むことは相手に罪悪感を与えます。怒るのは当然相手を萎縮させます。


萎縮させたり罪悪感を与えてばかりしていると誰も「あなたの言葉」を共有してくれない関係になります。相手が何に喜び何を嬉しく思うのか、どんなことに傷つき、どうすれば少しでも楽になるのか、そういったことがもう何もわからなくなるということです。


そうすると一緒にいる意味は何もなくなってしまいます。むしろそんな人と生きていること自体が苦しいでしょうから、相手は少しでも早くこの家から出ていきたいと思うでしょう。もっと「私の言葉」で話すことのできる人、「私たちの言葉」を一緒に作って、一緒に暮らせる場所を作れる人との時間を増やしたいと思うでしょう。


「もう旅行に行きたくない」「それより家でお菓子を食べたい」とはっきり言ってもらえる関係がいかに大切か。そして、それを「勇気を持って言わなきゃいけないこと」に決してしないことが大事なのです。気軽に言っていい、忖度をさせない、それは人間関係を作る上で決定的に重要です。


そこで「そうか。じゃあ今度の週末は近くのお店を探して散歩がてらお菓子でも買いに行くか」と言って、そうできたなら、「家族サービス」という言葉自体の意味が全く変わるでしょう。これは、一緒に生きていきたい人が一緒に生きていける「私たちの言葉」になるでしょう。これこそが共生の言語化なのです。


■本当にしたかったのは「家族サービス」だったのか


本当にしたいことはなんだったのか。それは「週末に遠出する家族サービス」ではなく、自分が大切にしたい人を大切にしたい、よい父でありたい、そんな思いだったはずです。


そういった考えは決して間違っているわけではありません。大事なのは「大切にする」とはどのようなことか、「よい父」とはどのような人か、それは一緒に生きていきたい人たちと、一緒に作る必要があると言うことです。


■他人の言葉を自分の言葉だと思い込む不幸


もしもここで「孤独になる言語化」をしていたら例えばこんな言い方をするかもしれません。


「俺がわざわざ家族サービスしてやるって言ってるのになんで嬉しくないんだ。父親の俺を馬鹿にしているのか?」
「せっかくの家族サービスなのに近くでお菓子なんて全然つまらない。俺はせっかくの週末は遠くに行きたいんだ」
「家でゲームなんてしてるから成績が悪くなるし世間を知らないんだ。もっといろんな経験をさせてやる」


時には「しなきゃならないから、疲れてる中で無理してやっているのに、なぜわかってくれないんだ」「無理して立派なことをしているのになぜ褒めない?」というかもしれません。その場合はもっと悲惨です。なぜなら「本人も本当はしたくない」のですから。


単に「いい父親とはそのようにするべきなのだ」などと、他人から与えられた言葉を、自分の言葉だと思い込んでしまっているのだとしたら、こんな不幸はないでしょう。


登場人物の中で、誰一人楽しんでいないのです。もはやこの家には、誰も住むことができません。自分すら居心地の悪い家を作ってしまう悲劇がここにはあります。


孤独になる言語化


現象=いきなりキレてしまう


パターン=渋滞にイライラしたとき
構造=週末しか遠出できず、さらに渋滞する
メンタルモデル=良い父親は家族サービスをする


人と生きる言語化


現象=どうしたらもっと楽しいか聞ける


パターン=相手が喜んでくれなかったとき
構造=最善策を一緒に考えようとする
メンタルモデル=良い父親像とは何かを考察

■約束するだけでは意味がない


このように言語化のプロセスを踏んでいくことで、ようやく「怒鳴る」を減らすことができるようになるはずです。



中川瑛『孤独になることば、人と生きることば』(扶桑社)

「もう怒鳴らない」と約束しても意味はありません。どんな状況で怒鳴ってしまうのかを考え、その状況がなぜ引き起こされるのかを考え、それが引き起こされることを促す自分の考え方にまで辿り着いて、ようやく「私の言葉」を掴むことができ、そうして人と話し始めることができるのです。


そして人の話を聞くときも、相手を尊重するように尋ねる必要があります。そうでなければ相手はだんだん自分の言葉を言ってくれなくなります。これまで傷つけ続けてきた場合には、「なんでも言っていいんだよ」「言っても怒らないから」などと言っても全く効果がない可能性があります。


それは、これまで散々相手を尊重してこなかった結果だと思って、反省する必要があるでしょう。小さなことから1つひとつ尊重の言語化を日々行い、相手が生きやすい言語化を一緒にしていくことで信頼を改めて培っていくしかありません。


「出来事」を直接変えることはできませんが、パターンや構造やメンタルモデルを理解して、それを変えることはできます。普段無意識に感じたり考えていたりすることを「内的に言語化すること」は、まさにこういった背景にあるものを引っ張り出して、名前をつけ、別の形や方法もあるのかもしれない、と「気づき」を得ることに他なりません。


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中川 瑛(なかがわ・えい)
「GADHA」代表
妻との関係の危機から自身の加害性に気づき、ケアを学び変わることで、幸せな関係を築き直した経験からモラハラ・DV加害者変容に取り組む当事者団体「GADHA」を立ち上げる。現在は加害者個人だけではなく、加害的な社会の変容にも取り組んでいる。
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(「GADHA」代表 中川 瑛)

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