Jリーグ最大の悲劇…寝耳に水だった選手たちが証言する「横浜フリューゲルス消滅」発表の日の裏側合併

2024年4月14日(日)15時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/wilpunt

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所属するクラブチームが突然消滅を発表したら現場は何を思うか。横浜フリューゲルスの横浜マリノスへの吸収合併が報じられた日、選手たちは「納得するもしないも、もう決まったことだから」「サッカーのクラブの吸収合併は銀行とは違う」とコメントを残した。リーグ最終戦が終わると、彼らはJリーグチェアマンの川淵三郎と面談し「もうこの人と話しても無理だ」と思ったという。田崎健太氏の著書『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)より紹介する——。

※本稿は、田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』(カンゼン)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/wilpunt
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■「どうするの、俺ら」と半ば放心状態の選手たち


この日、ゴールキーパーの楢﨑正剛は大阪にいた。


前夜の10月28日、長居スタジアムで日本代表対エジプト代表戦が行われた。代表監督に就任したフランス人、フィリップ・トゥルシエの初戦である。朝早く部屋の電話が鳴った。もう少し眠りたいと最初は無視していた。しかし、あまりに続くので受話器を取った。


「本当なのかというのが最初の感想でしたね。それで何人かの選手に確認をしました。その後、新聞も読んだと思います。すごいことになっていると思って、とにかくすぐに(クラブハウスに)向かうことにしました」


監督のエンゲルスが合併を知ったのは、クラブハウスに向かう車の中だった。


「ラジオでフリューゲルスのニュースが流れたんです。ぼくは合併という日本語を知らなかった。サッカーでは使わない言葉だからね」


グラウンドに着くと大勢の報道陣が待ち構えていた。いつもとまったく違った雰囲気だった。クラブハウスに入り、今泉に何が起こっているのかと訊ねた。


「合併という単語を(日独)辞書で調べたような気がする。2つのクラブが対等に合併するならば、悪いことではないと思った。2チーム分の監督やコーチングスタッフ、選手をどうするのか。それをまず考えた」


しかし、実際には合併ではなかったね、と顔を顰めた。この日は午前中の練習となっていた。とても練習できる状態ではない。練習は午後にずらすことになった。


9時半からクラブハウス2階にある会議室で、エンゲルス、選手たちは山田、中西たちの説明を受けた。


手嶋は山田、中西の隣りに座った。


「全日空としての決定だったので、説明は山田、中西がした。選手たちは、なぜもっと早く教えてくれなかったのか、相談してくれなかったのかと。新聞報道で合併を知ったことの怒り、不信感がありましたね」


山口の証言だ。


「合併に至る経緯を詳しく説明してくれるのかと思ったら、本当にペラ一枚の紙が配られて、書かれていることを読むだけでした。それだけで出ていってしまったので、キツネにつままれたような状態で、どうするの、俺らって感じでしたね」


半ば放心状態の選手たちは、そのまましばらく会議室に留まった。


■どうして僕らの生き甲斐であるフリューゲルスを取りあげるんですか


翌日の新聞は、選手たちの戸惑い、諦めの声を拾っている。


〈クラブハウスから出てきた選手の顔から血の気が引いていた。
「納得? 納得するもしないも、もう決まったことだから」と前日本代表の山口主将がイレブンの気持ちを代弁すれば、川崎から今季完全移籍して新天地を見つけた永井は「まださっき聞いたばかりなので、何とも言えない。サッカーのクラブの吸収合併は銀行とは違う」と今後訪れる大量解雇の不安を口にした〉(「スポーツニッポン」10月30日付)

この記事では楢﨑の去就に重点が置かれている。合併先のマリノスには川口能活がいたのだ。マリノス〈球団関係者〉の「ゴールキーパーは川口一人で十分」という言葉も載っている。大阪から戻った楢﨑は、マリノスに移籍するのかと取材陣から問われ、「分かりません」とぶっきらぼうに答えている。


この日の午後、Jリーグ臨時理事会が開かれ、マリノスとフリューゲルスの合併が承認された。Jリーグ規程には、リーグ脱退は一年前には申請しなければならないと書かれていた。超法規的措置である。


翌30日、十数人のフリューゲルスのサポーターがJリーグに現れ、チェアマンの川淵に面会を求めた。約束のない訪問であり頭に血が上った人間が突発的な事件を起こす可能性がある、事務局の人間は会わないほうがいいと川淵に忠告した。しかし、川淵は逃げていると思われるのは嫌だと、部屋に入れるように指示した。


〈全く背広姿が板についていないなという感じの青年が「僕は今日、チェアマンに会うので生まれて初めてスーツを着てネクタイをしてきました」と自己紹介し「サポーターは川淵さんがつくったんじゃないですか。サポーターをつくった人が、どうして僕らの生き甲斐であるフリューゲルスを取りあげるんですか」と言われてしまった。
涙目でそう訴えられて、僕も泣いてしまった。本当にその通りだ! それでも必死で気を取り直して、納得はいかないかもしれないが、いろんなことがあって単独ではやっていけないんだと説明した。
言葉を荒げることもなく、彼らは「よろしくお願いします」と言って帰っていった。礼儀正しい青年たちだった〉(『「J」の履歴書 日本サッカーとともに』)

これまで分裂していたサポーターグループが初めて一堂に会したのだという。心は痛んだが、前に進まねばならないと川淵は自分に言い聞かせた。


最悪の選択肢はチームの解散だった。フリューゲルスは合併という道を選んだ。合併したクラブを残すことを第一義とすべきだった。


川淵は、この日開催される選手委員会に〈チェアマン私案〉を準備していた。Jリーグでは一定以上の試合に出場している〈A契約選手〉は1クラブ25人と決められている。


フリューゲルスとマリノスの選手を受け入れる場合、1名の増枠を認め、両クラブの選手が移籍する場合、移籍金を発生させないことを提案したのだ。


■マリノスに移籍する気はまったくなかった


合併報道以降、最も移籍先が取り沙汰されたのはゴールキーパーの楢﨑である。


前ゴールキーパーコーチの栗本直のいた札幌の他、名古屋、関西出身ということでセレッソ大阪、京都、さらには中田英寿が所属していたイタリアのペルージャという名前までスポーツ紙に出ることになる。


楢﨑はなぜ根も葉もない噂をわざわざ書くのだと苛立っていたという。


「移籍先を考える余裕などほとんどありませんでした。とにかくフリューゲルスを残すこと。そのために選手ができることは何か。フィールドで結果を出すことしかなかった」


写真=iStock.com/piranka
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楢﨑の記憶では11月ごろ、代理人の今時靖から、移籍の助けをしたいという連絡を貰った。


「ぼくはまず人を疑うほうなんです。どういう人かと思って会ってから決めたかった。年内には具体的な移籍先の話はしていないです」


ただ、マリノスに移籍する気はまったくなかった。マリノス以外とだけは考えていましたね、と付け加える。


山口も同じだった。


「自分がマリノスのユニフォームを着るイメージはまったくなかった。マリノスが嫌いとかではなくて、(横浜)ダービーで激しく戦っていたわけです。マリノス側にしても、そうした選手を獲得するとサポーターにどうやって説明するんだということになりますよね」


自身の「移籍先」を報じられたことがあった。


「ヴェルディってスポーツ紙に出たんでしたっけ。食事のとき本当ですかって誰かに聞かれましたね。こんなの全部嘘だよって答えました。


いっさいそういう話はないのに勝手に書くんだって。いい気分はしないですよね。逆にすごいと思いました。ナラ(楢﨑)もそうだったんじゃないですかね。すごく怒っていましたよ」


■チームが消滅すれば戻ってくることさえできない


山口が考えていたのは、どのようにしてこのクラブを残すか、だった。


「ホーム最終戦でゲルト(・エンゲルス)が、誰か助けてくれって言いましたけど、そんな気持ちでしたよね。ぼくも他の選手も代わりのスポンサーとなってくれる企業がないか探していました。


ただ、こうも思っていました。もしスポンサーが見つかったとしても予算は縮小される。ぼくは年俸が高いほうの選手だったので、負担を減らすために他のクラブに売られることになる」


でもね、自分が他のクラブに移籍しても、フリューゲルスが残っていればそこに戻ることができるじゃないですかと続けた。


「ぼくの中ではどこのクラブでプレーしたとしても最後はフリューゲルスのユニフォームで三ツ沢に戻るというイメージを描いていた。チームがなくなればそれができなくなる。消滅してしまうことだけは避けたかった」


毎日、練習の前後に選手たちは自然と集まり、様々な話をした。


「ぼくらと同年代の選手は若い選手のことを心配していました。自分たちはいいから若い選手をなんとかしてあげたかった。


残り試合は若手選手を出してあげたほうがいいんじゃないかという話も出ました。品評会ではないですが、彼らが他のクラブの目に留まる機会を与えようという考えでした」


前田もクラブの存続を第一義としていた。


「ぼくは全員の前ではっきり言ってましたよ。年俸の高い選手、おじさんは出ていくしかない。年齢的に、ぼくと山(口)、そしてサンパイオが一番上。存続させるならば、そうした選手は大幅に減俸を受け入れる、あるいは退団するしかない。そういうリアルな話はしました」


■「もう川淵さんと話しても無理だ」


11月14日、リーグ最終戦となる第17節札幌戦が札幌市の厚別公園競技場で行われた。このとき手嶋はサンパイオと膝詰めで話をしたのだと振り返る。


「誰が言い出したのか忘れたけれど、選手たちが全日空に乗りたくないと言い出した。サンパイオがチーム全体の飛行機代は自分で出すというんです」


しかし、適当な便がなく、予定通り全日空機で北海道に入ることになった。この遠征にはベンチ入りしない選手たちも自費でチームに帯同している。試合は4対1で勝利した。


2日後の16日、サポーター代表が約34万人の署名を持ち、Jリーグ、横浜市、全日本空輸を訪問した。同日、前田、山口、佐藤尽、そして楢﨑は川淵と面談している。


山口と楢﨑はそれぞれ自著でこの日のことをこう記している。


〈川淵さんは、
「自分がなにかをできるなら、なんとかしたかったんだが、そういう状況でなにもできなかった。チェアマンという立場上、企業のそういう話し合いに入るわけにはいかない。企業の話し合いでチームがなくなることだけは避けたかった。Jリーグの理念として絶対にあってはならないことだと思う」
と続けた。
その言葉を聞いたとき、もう川淵さんと話しても無理だ、僕はそう思った。
横浜フリューゲルスのフロントと話をしたときもそうだ。Jリーグ選手協会との話し合いのときも、そして川淵さんも同様だ。話し合いに行く前は、こんなことを聞いてみよう、なにか力になってくれるだろうと、いつも、そう期待していた。でも、すべて無駄だった〉(『横浜フリューゲルス 消滅の軌跡』)
〈チェアマンなりに努力して、僕らのことを考えてくれていることは理解できた。しかし、わざとそう振る舞っているのかもしれないし、僕の立場からそう見えただけかもしれないが、クールな印象が残った〉(『失点』)

田崎健太『横浜フリューゲルスはなぜ消滅しなければならなかったのか』

合併報道直後、多くの報道陣が集まった。山口はまるで日本代表でワールドカップ最終予選を戦ったときのような騒ぎだと思った。2つのクラブが生き残るために1つになることは沈みつつある日本経済の象徴としてテレビのワイドショーで取りあげられることもあった。


一度もサッカーをスタジアムで観たことのないであろうコメンテーターがしたり顔で、スポーツチームの経営について論評していた。


サッカークラブは1つの企業であるが、それだけではない。もっと大切な何かがあるのだと山口は言いたかった。


やがて合併撤回の可能性はないと判断したのか、報道陣の数は減っていた。


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田崎 健太(たざき・けんた)
ノンフィクション作家
1968年3月13日京都市生まれ。『カニジル』編集長。『UmeBoshi』編集長。早稲田大学法学部卒業後、小学館に入社。『週刊ポスト』編集部などを経て独立。著書に『偶然完全 勝新太郎伝』『球童 伊良部秀輝伝』(ミズノスポーツライター賞優秀賞)『電通とFIFA』『新説・長州力』『新説佐山サトル』『スポーツアイデンティティ』(太田出版)など。小学校3年生から3年間鳥取市に在住。2021年、(株)カニジルを立ち上げ、とりだい病院1階で『カニジルブックストア』を運営中。
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(ノンフィクション作家 田崎 健太)

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