SNSはやればやるほど不幸になる…スマホを手放せない現代人が抱えている「寂しさ」の正体

2025年5月6日(火)7時15分 プレジデント社

※写真はイメージです - 写真=iStock.com/ViewApart

現代人にとってスマホは欠かせないものになっている。哲学者の谷川嘉浩さんは「スマホやSNSによって、いつでもどこでも情報を得られて、だれかと繋がることができるようになった。こうした常時接続の世界で、何かを見逃す、取り残されることに対する恐怖が生まれている」という——。

※本稿は、谷川嘉浩『増補改訂版 スマホ時代の哲学 「常時接続の世界」で失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー携書)の一部を再編集したものです。


写真=iStock.com/ViewApart
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■何度も何度もSNSを更新してしまう理由


そもそも、なぜSNSは寂しさを加速させるのでしょうか。たくさんの人と一緒にいるはずなのに一人だと感じて他人を依存的に求めてしまうのはなぜでしょうか。この辺りの疑問を手に持って歩き始めましょう。


いいね、シェア、スタンプ、リプライなどといったリアクションがSNS上であるとき、私たちは、何か立派な人間になったと錯覚しますし、人から関心を持たれているという感覚になります。


でも、この安心感や自信の背後には不安がありますよね。止めなければと思っていても、何度もSNSを更新してしまうのは、たいてい拭いがたい不安があるからです。疎外の感覚を持たずに済むように、取り残される不安を覆い隠すように、いつもオンラインでいようとしている。


■何かを見逃す、仲間外れになる恐怖


シェリー・タークルというMIT(マサチューセッツ工科大学)の心理学者がインタビューした一人の少女は、「仲間はずれになることや、何かを見逃すことも怖いから」SNSは常にチェックするほかないと語っています。でも、「Facebookがその恐怖をやわらげてくれる」。


この少女が抱いている恐怖には、Fear Of Missing Out(見逃す/取り残されることへの恐怖)という名前があります。この頭文字を取って「FOMO」と呼ばれることもあります。FOMOは、寂しさの別の呼び名だと思って構いません。


しばしば指摘されることですが、ネット上の話題にせよ、物理的なイベントにせよ、人気の食べ物やメイク、ファッションにせよ、話題の出来事に「居合わせること」の価値が高まっています。「居合わせる」とは、場所の共有ではなく、時間の共有を指しています。時間価値の高まりを指摘する各種の議論は、私たちの議論の方向性が間違っていないことの傍証になっています。


■負のループによって寂しさが加速する


私たちは「居合わせなければ」「時間を共有しなければ」と恐怖しながら生きていますが、その感情にはFOMOという名前がついている。そのとき冷静に認識すべきなのは、FOMOに駆られてSNSにアクセスするとき、私たちは進んで負のループに入り込もうとしているということです。


言い換えると、必死に情報を入れたり、流れの早いコミュニケーションに追いつこうとしたりすることは、不安を解消するものではないのです。


Instagramが恐怖をやわらげてくれるとしても、そもそもの不安を生み出しているのがInstagramにほかならないわけです。だから、寂しさ対策としてSNSに訴えるのは、二日酔いがつらいから迎え酒を飲むみたいなやり方なんですね。


居合わせることの価値の高まりがFOMOを生んでいるのだから、話題や流行や人気に乗り遅れまいとする(=できるだけ居合わせようとする)ことは、FOMOを消すどころか加速させてしまいます。


写真=iStock.com/P. Kijsanayothin
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/P. Kijsanayothin

■現代人からスマホを奪うのは難しい


精神科医のアンデシュ・ハンセンが紹介する社会調査によると、SNSなどを通じてソーシャルネットワークに時間を使えば使うほど幸福感は減退しています。かくして、彼は次のように述べています。


私たちはSNSによって、自分は社交的だ、意義深い社交をしていると思いがちだ。しかし、それは現実の社交の代わりにはならない。

ハンセンの指摘はもっともですが、現実の他者抜きに私たちの生活は成り立たないことを誰しも頭では理解しているはずです。もう知っているけどどうしようもないことを無頓着かつ声高に伝えてくるように感じさせるからこそ、ハンセンやデジタル・ミニマリストの主張は、どこか説教臭く思えるのでしょう。


ネットに現実のすべてがあるわけではないにもかかわらず、それ抜きにはいられないことにこそ「スマホ時代の哲学」の難しさがあります。今日の私たちが他者を求め、他者とつながろうとするとき最初にとる手段は、ネットへの接続です。


そうして一日中スマホから刺激を浴びていると、スマホを直接さわっていなくても、その感性が対面にも持ち越されてしまう。スマホやSNSが避けられないという前提に立つと、この辺りにこそ取り組むべき問題があるように思われるのです。


■SNS上の会話は中身がなくてもいい


FOMOや寂しさに自分の主導権を握られたとき、私たちはどんなコミュニケーションをしているでしょうか。恐らく、大体において定型的なコミュニケーションをしているはずです。ごく短いテキスト、スタンプ、仲間内のイディオム、ネットスラング、流行語、あるいは、決まった動画や画像などを用いるような。


ここで念頭に置いているのは、互いの意図を繊細にすり合わせる話し合いや合意形成、あるいは、互いの態度を変えるような対話などではなく、むしろつながること自体が大切であるようなコミュニケーションです。


会話自体が目的であるような会話で交わされるのは、中身のあるやりとりではなく、やりとりを続けてつながること自体を目的としています。互いに接続し合うこと自体を志向するやりとりのあり方は、「つながりの社会性」と呼ばれることがあります。


■「モヤモヤ」から目を背けてしまっている


コミュニケーションがこういう形に変わっていることに、もちろんタークルは気づいています。彼女の観察は、学生たちが、当意即妙に画像や写真、短いテキストなどを瞬発的にシェアしながらコミュニケーションを重ねている様子にも向けられているからです。彼女は、その当意即妙なやりとりに素直に感心しながら、警戒心を示してもいます。


こうしたやりとりは、内容が難しくなったり、理解が及ばなかったりしたとき、突っ込んだことを聞いたり、込み入ったことを考えたりして「かみ砕きにくい考えを言葉にしようと努力する」ことを止め、気楽な記号のやりとりで済ませる役割を担ってしまっているからです。


このコミュニケーション様式は、「モヤモヤ」「消化しきれなさ」「難しさ」から目を背けることを助けてしまっているのではないかとタークルは心配しています。


つながること自体が目的であるような瞬発的で定型的なやりとりは、複雑な事柄、繊細な感情、微妙な感覚、曖昧な事情に対して、理解を積み上げる習慣を失わせるところがあるとタークルは考えました。スマホによって自分や他人の情動や感覚についての理解力が落ちていくとの前述の指摘を考慮すれば、タークルの指摘には説得力があります。


■心の傷、誰かの痛みを理解する仕組み


似たことを、社会的感情について研究した神経科学者のメアリー・ヘレン・イモディノ=ヤンやハンナ・ダマシオらの研究グループが論じています。


この研究は苦痛の経験に関わる神経回路を調べたものです。身体的苦痛に関する回路が基本になっていて、それを転用する形で精神的な苦痛が経験されている、また、自分の苦痛に関する回路を転用することで、他者の苦痛を感じ取っている、などといった可能性が指摘されています。


ちょっとわかりにくいですが、ダマシオらが読み取った含意は単純です。自分の身体的苦痛の情報処理が最も迅速なのに対して、自分の精神的苦痛の情報処理は、いくらか時間を要する、さらに、他者の苦痛に関する情報処理は、それよりも時間を要するようだということです。


ダマシオらの研究からも、自分の心の傷や、誰かの痛み(特に精神的苦痛)を理解することは、決してインスタントに済みそうにないことがわかります。


写真=iStock.com/kitzcorner
※写真はイメージです - 写真=iStock.com/kitzcorner

■「内省的処理」はすぐにはできない


実際に、この論文の考察パートを見てみると、そこには、「他者の心理状況に対する情動が誘発・経験されるために」文化的・社会的コンテクストについての「内省的処理にさらに時間が必要かもしれない」との指摘があります。


他者の心理状態について何かを経験することは、一定の「思考」(=内省的処理)を要するもので、それは決して「即時」には済まないと示唆されているのです。


言われてみれば当たり前のことです。例えば、ヤマシタトモコさんの『違国日記』という漫画には、自分の恋愛への感覚が、世間的な「普通」とは違うと知りつつある高校生が、昔からの親友に異性愛を前提とした恋愛話を振られたときに、話題を逸らしたり、丁寧語を用いたり、突っぱねたりしながら、その話題を終わらせるシーンがあります。その途中で、この子は、表情を真顔のまま一瞬固めたり、言葉に詰まったりすることもあります。


そんな複雑すぎるやりとりをしている様子をみて、この子の精神的苦痛を知り、その内容を繊細に理解するには、それなりの知識と、それに基づく想像が必要なはずです。


■他者を理解するために孤立や孤独が大切


日本社会において、親友同士では軽口を言い合ったり恋愛話をしたりすることは珍しくない。セクシュアルマイノリティへの理解や配慮が実質的な形では広がっていない。だからこそ、自分のセクシュアリティについて親しい人に明かすことすら難しい状況がある。自分のセクシュアリティを秘密として持っていることは当事者に疾(やま)しさを感じさせうる。



谷川嘉浩『増補改訂版 スマホ時代の哲学 「常時接続の世界」で失われた孤独をめぐる冒険』(ディスカヴァー携書)

すぐに恋愛話を終わらせるのは不自然に思われるかもしれない。こうした状況を問題視する声も広がっている。微妙な話題を振られたからといって、親友をわざわざ恨みに思いたい人はいないだろう。……などといった、文化的・社会的な知識がなければ、この高校生の苦痛を想像することはできないはずです。


このように考えると、他者の心理状態を知るために、私たちは「かみ砕きにくい」事態の処理時間を意識的に確保する必要があるというのはもっともです。


消化しきれないモヤモヤした状態で、それでも、何とか理解しようとすること。それが「内省的処理」(=思考/自己対話)を前提とするものである以上、他者から切り離されて何かに集中する状態である〈孤立〉や、自分自身と対話している状態である〈孤独〉は大切なのです。その意味でダマシオらの研究は、孤独の重要性を裏書きするものです。


■スマホによる常時接続が奪っているもの


実際、ダマシオらも、自分たちの研究はそうした文脈で読まれうると考えていたようで考察の内容を「常時接続」や「マルチタスキング」という論点と結びつけています。曰く、「デジタル時代の特徴である注意を要する迅速かつ並列的な処理は、そうした情動を十全に経験する頻度を下げ、潜在的にネガティヴな帰結をもたらしかねない」。


スマホなどで「つながりの社会性」ベースの即時的なコミュニケーションを重ねてきた人は、かみ砕きにくい心理状態を想像する機会や、他者の心理状態に共感的にかかわる機会をみすみす手放し続けているのかもしれません。


常時接続こそが、心理状態に集中するための孤立を奪い、それを掘り下げていくための自己対話の機会を奪っている。自分や他人の感情や感覚を繊細には理解しないための訓練を日夜積んでいるような、そんな危うい道を歩いているのだという判断をここでも改めて確認しておきたいと思います。


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谷川 嘉浩(たにがわ・よしひろ)
哲学者、京都市立芸術大学 講師
1990年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在、京都市立芸術大学美術学部デザイン科講師。哲学者ではあるが、メディア論や社会学といった他分野の研究やデザインの実技教育に携わるだけでなく、企業との協働も度々行っている。著書に『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』(筑摩書房)、『鶴見俊輔の言葉と倫理』(人文書院)、『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる』(さくら舎、共著)、『働き方と暮らし方の哲学』(丸善出版、共著)『公式トリビュートブック「チ。—地球の運動について—」第Q集』(小学館、共著)など多数。翻訳に、マーティン・ハマーズリー『質的社会調査のジレンマ』(勁草書房)など。
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(哲学者、京都市立芸術大学 講師 谷川 嘉浩)

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