テレビ局は原点を忘れていないか、“ためる”方向に変えるべき――重松清×阿武野勝彦<後編>

2024年2月4日(日)7時0分 マイナビニュース

●“複眼”であることの必要性
指定暴力団に密着した『ヤクザと憲法』、ミニシアターで異例の観客動員28万人超を記録した『人生フルーツ』、自局の報道部にカメラを向けた『さよならテレビ』など、社会的に高く評価され、大きな話題を呼んだドキュメンタリー作品を制作してきた東海テレビの阿武野勝彦プロデューサーが、1月末で同局を退社した。局員として最後のプロデュース映画『その鼓動に耳をあてよ』が、東京・ポレポレ東中野ほか全国で順次公開され、退社後の2月10日(14:15〜 ※東海ローカル)に最後のテレビ作品『いもうとの時間 名張毒ぶどう酒事件 裁判の記録』が、仲代達矢のナレーションで放送される。
東海エリアで放送を終えたテレビ番組に映画という形で再び命を吹き込み、全国の人たちに作品を届ける「東海テレビドキュメンタリー劇場」は第15弾となるが、この取り組みに熱い視線を送り続け、「ここまで来たんだね」と感慨を述べるのは、作家の重松清氏。そんな同氏が、新たなスタートを切った阿武野氏に、東海テレビドキュメンタリーの真髄やテレビの現状と今後、そして今後の活動まで、様々なテーマで切り込んだ——。(第2回/全2回)
○取材対象へのシンパシーにブレーキをかける役割
重松:今回のインタビューにあたり、年末に『平成ジレンマ』(※)と『ホームレス理事長』(※)と『ヤクザと憲法』(※)を改めて観直しました。このラインの作品、つまり硬派で挑発的な東海テレビのドキュメンタリー作品群を観ていると、困ってしまうんです。というのも、登場人物たちにシンパシーを持っちゃいけないと思いながら、どこか理解できるところもあったりして、まさにジレンマをすごく感じるんですよ。だから不思議なぐらい魅力的になっちゃって、小説の書き手からすると、戸塚ヨットスクールの戸塚(宏)さんについて、寂しそうに見えたり、傲岸不遜(ごうがんふそん)に見えたりする揺れ動く心理を描きたいと思ってしまう。それは怖いなと思うんですけど、取材対象を追うときにシンパシーを持ってしまうことへのブレーキは、どうやってかけるのですか?
(※)『平成ジレンマ』…訓練生の死亡や行方不明事件を起した「戸塚ヨットスクール」の戸塚宏校長への長期取材から、現代社会が抱えるジレンマを描いた。
(※)『ホームレス理事長 退学球児再生計画』…様々な事情で高校をドロップアウトした球児たちによる野球チーム「ルーキーズ」を創設したNPO法人の山田豪理事長が資金集めに奔走しながら奮闘する姿を追った。
(※)『ヤクザと憲法』…大阪の指定暴力団「二代目東組二代目清勇会」にカメラが入って密着取材。暴力団対策法、暴力団排除条例を受けた“ヤクザ”たちの姿から、社会と反社会、権力と暴力、強者と弱者の構図を考える。
阿武野:現場ではブレーキはかからないと思うんです。どんなに時代のヒールだと批判されていた人でも、実はこういう一面を持っているということを知ると、その人間性に惹かれていくということがあります。制作者の心は自由なので、それはそれで良いと思うのです。そこで、編集という作業が頭を冷やせるタイミングになっているんです。ディレクターと編集マンが小部屋で喧々囂々(けんけんごうごう)闘いながら第一稿を作っていく。そして、プロデューサーやタイムキーパー、(音響)効果マンが加わって、完成した第一稿にいろんな意見や見方を出し合う。そうしていくうちにクールダウンしていく。そこが優れたスタッフを持つことの良さで、作品に深みが出てくるスタッフワークだと思いますね。ドキュメンタリーは、1人ではできない仕事だと思います。
重松:クルーで動くというのは、1人でできてしまう作家としては一番惹かれますね。昔、NHKの番組(『最後の言葉〜作家・重松清が見つめた戦争〜』など)でサイパンやガダルカナルに行ったときに、現地の人が英語や現地の言葉でしゃべっているんですけど、その言葉が全然分からないベテランのカメラマンが、現地の人がすごくいいことをしゃべってるときにズームで寄っていたんですよ。言葉は分かってないんだけど、話してるオーラで分かるんですね。あと、親しいディレクターに聞いたんですが、ロケ中にクルーがケンカしてしまった番組があるんです。そのロケから帰国したら、編集マンに「ここから揉めたでしょ?」としっかり見抜かれて(笑)、プロの職人は本当にすごいなと思いますね。
 そういうスタッフを抱えるチームで動く素晴らしさを感じる一方で、近年は経費節減もあるだろうし、カメラが小型化してディレクターが1人で取材してくるということもあると思うんですよ。その流れというのは、どのように感じますか?
阿武野:今、取材をされる側の皆さんが、大きなカメラで来ることを嫌がるんですね。カメラで撮られている自分を他の人が観ているという構図がどうも嫌みたいで。プロタイプの大きなENGカメラで撮って、音をとるための長いブームを助手が持っていたり、ライトをつけたりする取材のされ方が嫌われる時代になっているので、ディレクターが1人で取材に行くケースは、これからどんどん増えていくと思います。
 でも、取材対象が強烈であればあるほど、1対1になるよりも、2対1か3対1で行くほうが良いと思います。つまり“複眼”になれることの大事さです。カメラマン兼ディレクターで行くと、勘違いしたまま取材が進んでしまうおそれがあるけど、もう1人いることによって、行き帰りのタクシーの中ででも「あれはこうやって解釈すりゃいいんじゃないの?」と違う見方を提示してくれたり、スタッフのコミュニケーションによって「次はこういう取材を繰り入れよう」とアイデアが出てきます。やっぱりチームで動くことのほうが、作品は圧倒的に深まると言いたいですね。
重松:僕は長年、女性週刊誌で人間ルポの連載をやっていたんですけど、そこでは取材するデータマンがいて、1年くらいかけて単行本1冊分くらいになる資料を作ってくれるんです。それを、アンカーマンである僕が記事に落とし込んでいくんですけど、出来上がった原稿を見て、データマンの人は「せっかく俺が取材したこの部分を使わないのか!」って怒るわけですよ。でも、まさに阿武野さんがおっしゃった“複眼”にすることで、僕は取材相手に情が移ることを避けることができるし、必要ない部分を取材が大変だったからという理由で入れることにならないんですよね。
●テレビは「日常と地続きになってやってくる」
重松:今、複眼であることよりも、単眼で極論のほうが持てはやされがちな風潮を感じるんです。YouTuberが1人で作るドキュメンタリーもこれからどんどん出てくると思いますが、みんなが発信する時代のドキュメンタリーは、どんなふうになっていくと思いますか?
阿武野:分かりやすいとか、つかみのインパクトが重要視されていくんですよね。でも、再生回数とかリアクションの数とか、テレビでいう視聴率みたいなところで、世の中が数字ばかりに追われていくことによって、落としてきたものがいかに多いかというのを、最近よく感じます。
 大学に教えに行ったときに、担当の教授に「学生は5分しか映像を観ていられない」と言われたんですけど、60分の番組をそのまま観てもらうことにしたんですが、ほとんどの学生がきちんと感想をくれたんですよ。つまり、面白いものであれば60分でも観ていられるし、つまらないものは5分でも耐えられないという、ただそれだけのことだと思いました。だから、発信する側の人間が「今の子はこうだから」と思い込んで、そこに合わせて行くみたいなことはしないで、作りたいように作り、自由に表現して、その中で取捨選択してもらえばいいような気がします。
重松:配信コンテンツだと、スマホで観られる可能性があるわけじゃないですか。ドキュメンタリーにとって、スマホのサイズ感というのが、発想を変えてしまうような気がするのですが。
阿武野:そうですね。スマホでは、映像のディテールまで見ることができないのですよね。しゃべってる口がちょっとピリピリ引きつっているとか、笑顔なのに瞳が輝いていないとか、テレビサイズだと受け取れるものが受け取れないコミュニケーションの形になるのは、制作者としては怖いことですし、そういう観方をされるのは嫌ですよね。
重松:でも、スマホで観られたときにどこまで通じるのかというのを考えて、ナレーションやテロップでフォローするということに関しては、禁欲的ですよね。
阿武野:そうですね。どう感じてもらえるか、どう考えてもらえるか“余白”を残すことが一番大事なことだと思うんです。私の求めているコミュニケーションは、想像力を喚起できるものなんです。ドキュメンタリーをやり始めた頃に、このジャンルが世の中で嫌がられていると思いました。「ドキュメンタリーって、社会的弱者を扱って、出てくるのはみんな良い人で、最後は無理矢理にでも感動的なお話にして、音楽で煽って終わりみたいな感じでしょ?」と言われて。安直な定型みたいなものを見抜かれていて、ドキュメンタリーが時代遅れになっていると思いました。
 そういう経験があったので、説明みたいなものはなるべく省き、“想像の翼をいくらでも広げていただけるんですよ”と映像を差し出すように、コミュニケーションがしたい。そのほうが、豊かなキャッチボールができるんじゃないかと思って、字幕は極力つけないし、音楽もなるべくつけない、ナレーションも省いたり、「呪文のように唱える」ナレーションの使い方など、ちょっと冒険をしました。
重松:その豊かなキャッチボールの放り方というのは、映画館で観てくれるお客さんに対するものと、テレビで観る視聴者に対するもので違いはありますか?
阿武野:ありませんね。よくテレビは分かりやすく作らないといけないと言われますが、私は視聴者のほうがよっぽど感度が高いのだから、啓蒙的な発想でいるテレビマンが嫌いです。それに、「夕方のニュースはご飯を作りながら片手間で観てる主婦が多いから、テロップがいる」なんて言うニュースデスクには、「そういう人のために作ってない」と言うことにしていました(笑)。“キャッチャーミットに目がけて投げるけど、捕れるかどうかは分からないよ?”という感じが好きなんですよね。
重松:一方で受け手からすると、映画館に行くのは戸塚ヨットスクールの校長に会いに行くんだけど、テレビは戸塚さんが僕たちの日常と地続きになってやってくるんですよ。この日常に入ってきたときに、いつもゾクッとする感じになるんです。もう20年以上前のことですが、森達也さんと『A2』(※)について対談するにあたって試写用のDVDを家で観るんですけど、小学生の娘が騒いでたり、外で救急車が通ったりする中で、荒木(浩)さんが話してるのをずっと観ている。そんな観られ方は森監督は望んでないかもしれないけど、結果的に“日常生活の中に入ってくる非日常”という観方は、映画館とはまた別の楽しみ方でもあるのかなと思います。
(※)『A2』…オウム真理教(現・アレフ)の荒木広報副部長を中心に密着し、オウム事件の本質に迫った森達也監督のドキュメンタリー『A』の第2弾。
阿武野:日常の中で観せられちゃうというのは、面白いですよね。テレビって“びっくり箱”だと思うんです。「つけっぱなしにしてたら、よく分かんないけどずっと観入ってしまった」という感じで観てくれる人がいるのがテレビだと思うので、ドキュメンタリーとそういう出会い方をしてほしい。まさに求めていることですね。
重松:出会い頭に衝突したことで発見するものってありますよね。テレビには地上波と別にCSというのもあって、ここはしっかり観に行くチャンネルだから地上波と映画館の真ん中ぐらいのメディアだと思うんですよ。そのCSである日本映画専門チャンネルで、東海テレビのドキュメンタリー特集というのをやっていますが、そこでのリアクションはいかがですか?
阿武野:なぜCSでの放送をしたいと思ったかというと、東海テレビでの放送は1回か2回で、しかもローカルで終わってしまう。もっとたくさんの人に観てほしいと思っているので、映画という形で出してみる。だけど、ミニシアターは全国で2万人観客が入ればヒットという世界で、どこの街にもシアターがあるわけではない。多くの人たちが触れる機会を考えたときに、日本映画専門チャンネルに出すということだったんです。
 ここでうれしかったのは、加入動機のレスポンスが「岡田准一特集」より多かったというのを聞いて、私たちのドキュメンタリーを積極的に観てくれる人たちがいるということの証しだと思いましたね。『その鼓動に耳をあてよ』の公開に合わせてまた特集してくれて、新作映画の告知もしてくれるので、うれしい関係ができています。
重松:それも、15本の積み重ねがあるからこそできるんですよね。小説に文学史があるように、ドキュメンタリー史があってもいいと思うんです。前の作品を観た上で新しい作品を観ると、その背景も思い浮かべるから見え方が変わってくる。例えば、『さよならテレビ』を観た後に『ヤクザと憲法』を観ると、ヤクザ相手にも事前の試写を許さなかったのに、東海テレビの社内では事前にチェックされちゃうんだ、とびっくりしたり(笑)。だから特集放送や特集上映に向いてますよね。
阿武野:ヤクザより身内のほうが怖い…(笑)
○地上波テレビにジャーナリズムは存在していたのか
阿武野:私は43年地上波ローカルで仕事をしてきましたが、ずいぶん紆余曲折したなと思うんです。重松さんは、地上波のテレビはこれからどうなっていくと思っていますか?
重松:申し訳ないけど僕、地上波はほとんど観なくなっちゃったんです。バラエティの面白さを突き詰めるんだったらYouTubeにもいっぱいあるし、全体的に僕たち視聴者のことを低く見て、言葉は悪いけど、ナメて番組をつくってる気がするんですよね。もちろん、そうじゃない番組もたくさんありますが。ドラマも今はNetflixでやってる韓国のドラマのほうが面白い。NHKのBSは面白いんですけど、1チャンネル減っちゃったのがショックで。
 僕の大学の教え子に民放キー局に入った人がいるんですけど、番組じゃなくてイベントをやりたいと言うんです。もしかしたら、テレビ局がテレビの好きな人ばかりではなくなっているのかもしれない。そうなると、やっぱりしんどいんじゃないかなと思いますね。東海テレビでの実感として、阿武野さんはいかがですか?
阿武野:経済的にはかなり縮小してきてますね。その中で何とかしなきゃいけないというときに、“何とか”が「番組をちゃんと作らなきゃ」っていう方向に行けば、まだやっていけるような気がするんですけど、そうなっていない。他のところでお金を稼ごうと考えがちで、番組に作る費用を削ってまで、新規事業という他のところに予算を持っていこうとする。原点は何かです。テレビの経営者のテレビ番組に対する熱量がどんどん下がっている。その程度の熱量の番組など、観る人が減ります。そこに広告を出す意味をスポンサーが持てなくなる、と。経営は、原点を忘れて迷走してるところですよね。
 特に地方局は、これから4局あった地域が3局になったり2局になっていくかもしれない。そうなっても、誰も何も困らないっていうというのが恐ろしいですよね。多様なものが観られたはずなのに、「多様なものなんて、今のテレビにはない」と言われると、非常にまずいなと思います。それと、ジャーナリズムが相当抜け落ちている気がするんです。地上波のテレビにジャーナリズムが、もともと存在していたのか、ということを今ちょっと考えてます。もともとなかったのかもしれないし、作ろうと思ったけど、お金に紛れて、あるいは権力の前に屈服していったんじゃないかというような気がして。
重松:テレビの強みって“今”だったと思うんですよ。つまり、生放送のスポーツとニュース。しかし、スポーツは放映権料が上がってしまって消えていき、ニュースも阿武野さんがおっしゃった状況にあるし、“今”を追いかけるにも配信にかなわなくなってきてる。そしたら、『人生フルーツ』(※)の津端夫妻が言っていた“時をためる”じゃないですが、“ためる”という方向に変えていかなければならないんじゃないかと思います。報道も時間をかけて厚みのある取材をしていく。そこに、スポンサーや経営の論理がどこまで立ちはだかるのかという問題もありますけどね。
(※)『人生フルーツ』…50年前に植えた小さな苗木から成長した雑木林に囲まれた30畳一間、平屋建ての杉の丸太小屋で生活する建築家の津端修一さん(90、当時)と妻の英子さん(87、同)の暮らしを追った作品。
●退社後のテレビとの付き合い方
重松:阿武野さんは、これからテレビというものとどういうスタンスでお付き合いしていこうと考えているのですか?
阿武野:僕はもともとテレビが好きで好きでしょうがないというテレビ人間です。子どもの頃からテレビのある生活で、22歳からはテレビの中に入り、生業としてきたわけですから、テレビを諦められない。好きなテレビがどんどんダメになっていく流れに抗おうと思って、ドキュメンタリーをいろんな形に変態させてきたということがあるのですが、ここでテレビ局を辞めてみて、今もテレビの中で働く仲間のことを考えてしまうんですよね。テレビ局で働く尊厳とは何か、みたいなものが抜け落ちていくことに対しては、メッセージを発していかなければならないんだろうなと。そういう視線で、僕はおそらくテレビを厳しく観ていくような気がしますね。テレビがダメになってほしくないという希望のもとで。
重松:何か発信するスタンスやポジションは、具体的に見えているのですか?
阿武野:全くないですね(笑)。今は田舎に引っ越しているので、用事のない日は、ずっといろんな作品を観続けようかなと思っています。
重松:引っ越された田舎というのは、岐阜県の東白川村。95年に阿武野さんが監督した映画『村と戦争』(※)の舞台ですよね。
(※)『村と戦争』…909人が戦場に送り込まれ、203人が戦死した岐阜県東白川村で、戦争の記憶を持つ人が生きているうちにと始まった平和祈念館建設を追いながら、村と戦争の関わりを描いた作品。
阿武野:そうです。『村と戦争』に出てくる戦争遺品を集めた平和祈念館が東白川村にあるんですけども、それを教育の中に位置づけるというのが、村のおじいさん、おばあさんたちに託された私のミッションだと思っていて、講演会や映画の上映会、また戦争遺品に関連するエッセイの朗読会といったイベントを、村での活動として一番最初にやりたいと思っています。
 その他にも、いろんな取材をしてきたおかげで、やりたいことがいっぱいあるんです。徳山ダムの取材でミツバチを育てるおじいさんと出会った経験があって、東白川村でミツバチを飼ってみたいと話をしたら「6月にやろうよ」と誘われたり、炭焼きのおじいさんを取材したことがあるんですけど、炭焼きの職人が村には1人もいないんで、「炭焼いてみようよ」という話があったり。面白そうなことを、自分の手と足を使ってやれることを見つけていこうと思っています。
重松:そのときに、カメラは回さないんですか? YouTuberみたいに(笑)
阿武野:回さないですよ、コメディになっちゃう(笑)。でも東白川は、冬はすごく寒いんですけど、夏は抜群にいいです。わが家の横に渓流が流れてホタルが乱舞しますし、天の川も見えますし、夕方4時半くらいには日が陰ってくれるので、快適なんです。
重松:もう完全に“村民”になるんですね。
阿武野:“村人”ですね(笑)。「辞めたらどうするの?」と聞かれたら、「立派な村人になる」というのが第一で、その次が「詩を書きたい」、その次が「高校生からの夢だった童話作家になる」という感じです。
重松:童話作家になったら、厳しく読んであげますよ(笑)
○ものを作る現場だけはきちんと守ってほしい
重松:ドキュメンタリーの方から、「プロデュースをお願いしたい」とか「作りませんか」と声がかかったら、どうされますか?
阿武野:どうしますかね…。自分のできることは何でもやってみると思います。今までも、どういう仕事も頼まれたら、嫌だと言わないことにしようと、ずっとやってきたので。一緒に悩んでくれる人や汗かいてくる人がいるんだったら、一緒にやるべきだと思っているので、「できるかもしれない」と思って、頼んでくれるのがいい人だと思ったら、やるんじゃないですかね。
重松:東海テレビでは、齊藤(潤一)さんが大学の先生(関西大学社会学部教授)になりましたが、若い学生さんたちに何かを伝える、教えるという仕事も、可能性としてはありますか?
阿武野:時々スポット的に大学にお邪魔することはあるんですが、パワーがいりますよね。週に何時間も継続的にやるとなるにはすごく準備もいるし、学生の持ってるパワーに負けないパワーを出さなきゃいけない。今の状態はもうヨレヨレですから(笑)、1回自分の気持ちを建て直さないと、ちょっと無理だと思います。
重松:たしかに結構体力を使いますからね。僕は53歳から教え始めて、最初の2〜3年は授業のある日もうちに帰ってから仕事できたんだけど、もう「今日は何もできない!」ってなっちゃいます。でも、阿武野さんには若い人との接点はどこかで持っていてほしいというのが、僕の個人的な思いですね。若い人たちにテレビ、あるいはドキュメンタリーで何かを作っていくということを知ってほしい。今、一人暮らしの学生さんの中には、テレビを持ってない人が結構多いんですよ。週刊誌を一度も読んだことのない学生さんもたくさんいます。そんな時代に、僕は僕で活字の雑誌ジャーナリズムの面白さを伝えたいと思ってるし、テレビはオワコンとか言われているけど、伝えておくべきものはちゃんと伝えておきたいと思うんです。
阿武野:そうですね。やりがいのある仕事だということは、伝えたいです。人を相手にする仕事というのは、実に面白いと。それに、しち面倒臭いくさいことほど面白いっていうことも伝えたいです(笑)
重松:薬師丸ひろ子さんの歌う「セーラー服と機関銃」に「♪さよならは別れの言葉じゃなくて 再び逢うまでの遠い約束」という歌詞がありますし、中国語の「さよなら」も“また会いましょう”の「再見(サイチェン)」なんですよね。だから、『さよならテレビ』の「さよなら」も、“もう1回テレビに出会おう”という意味が込められていると思うんです。そのためにも、東海テレビのドキュメンタリーは、これからも財産になっていくと思うのですが、阿武野さんが去った後の東海テレビの後輩たちにメッセージを残すとすれば、どんなことを伝えたいですか?
阿武野:大変な組織かもしれないけど、そこに腐心するだけじゃなくて、「自分が面白いと思ったことは徹底的にやり尽くせ」と思いますね。そのために捨てるものなんか一つもないし、命が取られることもないんだから、ものを作る現場だけはきちんと守ってほしい。そうすれば、きっと歴史が評価してくれると思います。
重松:阿武野さんがいなくなったことで、その存在の大きさが分かるかもしれないですが、これからも東海テレビのドキュメンタリーと、阿武野さんのご活躍を楽しみにしています。阿武野さんは、東海テレビのドキュメンタリーに対して、一番厳しい視聴者になるか、それとも一番優しい視聴者になりますか?
阿武野:それは作った人によりますね(笑)
●重松清1963年、岡山県生まれ。早稲田大学教育学部卒業後、出版社勤務を経て執筆活動に入る。91年『ビフォア・ラン』でデビュー。99年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、同年『エイジ』で山本周五郎賞を受賞。01年『ビタミンF』で直木賞、10年『十字架』で吉川英治文学賞、14年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞した。現代の家族を描くことを大きなテーマとし、話題作を次々に発表。著書は他に、『流星ワゴン』『疾走』『その日のまえに』『きみの友だち』『カシオペアの丘で』『青い鳥』『くちぶえ番長』『せんせい。』『とんび』『ステップ』『かあちゃん』『ポニーテール』『また次の春へ』『赤ヘル1975』『一人っ子同盟』『どんまい』『木曜日の子ども』『ひこばえ』『ハレルヤ!』『おくることば』など。多数。16年から早稲田大学文化構想学部で教鞭を執っている。
●阿武野勝彦1959年生まれ。静岡県出身。同志社大学文学部卒業後、81年東海テレビ放送に入社。アナウンサーを経てドキュメンタリー制作。ディレクター作品に『村と戦争』(95年・放送文化基金賞)、『約束〜日本一のダムが奪うもの〜』(07年・地方の時代映像祭グランプリ)など。プロデュース作品に『とうちゃんはエジソン』(03年・ギャラクシー大賞)、『裁判長のお弁当』(07年・同大賞)、『光と影〜光市母子殺害事件 弁護団の300日〜』(08年・日本民間放送連盟賞最優秀賞)など。劇場公開作は『平成ジレンマ』(10年)、『死刑弁護人』(12年)、『約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯』(12年)、『ホームレス理事長 退学球児再生計画』(13年)、『神宮希林』(14年)、『ヤクザと憲法』(15年)、『人生フルーツ』(16年)、『眠る村』(18年)、『さよならテレビ』(19年)、『おかえり ただいま』(20年)、『チョコレートな人々』(23年)、『その鼓動に耳をあてよ』(24年)でプロデューサー、『青空どろぼう』(10年)、『長良川ド根性』(12年)で共同監督。個人賞に日本記者クラブ賞(09年)、芸術選奨文部科学大臣賞(12年)、放送文化基金賞(16年)など、「東海テレビドキュメンタリー劇場」として菊池寛賞(18年)を受賞。著書に『さよならテレビ ドキュメンタリーを撮るということ』(21年)。24年1月末で東海テレビを退社した。

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