〈泣き歌の貴公子〉林部智史「高校浪人までして目指したプロバスケの夢はかなわず。看護学校に通うも中退。自分探しの放浪先で歌の道を決意して」

2024年2月5日(月)12時30分 婦人公論.jp


「いろいろなことをやっている自覚はあるので、シンガーやボーカリストより、《歌手》《歌い手》という呼ばれ方が一番しっくりきますね」(撮影:宅間國博)

歌謡曲、J-POP、叙情歌など、さまざまなジャンルを歌いこなす林部智史さん。はじめから歌手を目指したわけではないと語りますが、今に至るまでにはいくつもの挫折と再起の日々がありました(構成=上田恵子 撮影=宅間國博)

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浪人して入った高校で直面した現実


2016年にデビューして以来、コンサートアーティストとして生の歌声を届けることを第一に活動しています。この秋、全国ツアーで9月の千葉を皮切りに12の都市をまわり、11月に神奈川で千秋楽を迎えました。

よく「林部さんの歌手としてのジャンルは何になるのですか?」と訊かれるのですが、ひとことで言うのは難しくて。所属レコード会社は若者が好むJ-POPが主流。僕のレパートリーには歌謡曲やカバー曲などもあります。自身で作詞作曲した楽曲もあるため、シンガーソングライターとご紹介いただくことも。

さらに「はやしべさとし」名義では、日本の懐かしい唱歌や童謡といった叙情歌を歌っています。よく冠に「泣き歌の貴公子」とつけていただくのですが、「しっとりと心に訴えかけてくる」という評価を得られたのなら、とても嬉しいことです。

いろいろなことをやっている自覚はあるので、シンガーやボーカリストより、「歌手」「歌い手」という呼ばれ方が一番しっくりきますね。

とはいえ、僕は小さい頃から歌手を目指していたわけではありません。学生時代の夢はプロのバスケットボール選手になることでした。小学2年生からバスケに打ち込み、高校も地元の強豪校、県立山形南高校を受験しています。しかしそこは偏差値も高かったため、学力不足で不合格。それでも諦めきれず、浪人して予備校に通い、1年遅れで入学を果たしました。

そこまでして入った高校のバスケ部でしたが、全国大会に進むと、とんでもない高校生がうじゃうじゃ。地方で少しばかり強くても、全然歯が立たないのです。もはやプロを目指すどころではなく、現実の厳しさに愕然。

「センス」という言葉で片づけるのは大嫌いですが、否応なくそれを突きつけられるのがスポーツの世界なのだと思い知らされた3年間でした。

看護の道に挫折して


バスケで身を立てることは諦めたものの、じゃあほかに何をすればいいのかさっぱりわからない。卒業後はどうしようと迷っていたときに、看護系の仕事に就いている母親から「看護学校に進んでみれば?」と勧められたのです。今となれば短絡的だったと思いますが、その場の流れで「よくわからないけどいいかもしれない」と進学を決めました。

当時はまだまだ、男性の看護師が少ない時代。その学校も圧倒的な女性社会で、男子学生は僕一人でした。男子校にいた人間が、いきなり女性しかいない環境に飛び込んだのですから、孤独なんてものじゃない。

しかも実習は病院内で行われるため、学校と病院を往復するだけの毎日で、外の空気を吸う機会もないのです。何より、目の前で亡くなっていく患者さんを見るのが本当につらくて。精神的にまいってしまい、2年で中退することになりました。

普通ならここで実家に戻るのでしょうが、僕はどうしても帰りたくなかった。地元はいいところもたくさんあるのですが、狭い社会なので「Aちゃん、学校辞めちゃったらしいよ?」みたいに、よその家の事情が筒抜けなんですね。それには耐えられないと思いましたし、腫れ物に触るように接してくる周囲と向き合うのもつらいなあ、と……。

そんなとき、沖縄に住んでいた姉が「じゃあこっち来てみたら?」と声をかけてくれて。渡りに船とばかりに、しばらくの間、姉のところに居候させてもらうことにしたのです。

このとき強く思ったのは、「まだそれが何かはわからないけど、これからの時間で自分が本当に好きになれるものを見つけたい」ということ。言ってみれば「自分探し」ですね。

どうせならこの機会に日本一周してやろうと、ネットで住み込みのアルバイトを検索。北海道の礼文島で働いていたときに、運命の出会いを果たします。

新聞配達で学費と生活費を得る


礼文島の同僚にギターを弾く音楽好きな人がいて、僕も時々ギターに合わせて歌わせてもらっていたのですが、あるとき「その声でなんで歌手を目指さないの?」と言われて。

実は、歌は昔から好きだったものの、音楽と縁のない環境で育ったため、仕事にするという発想がなかったんです。でも、そのときはなぜか「そうだ、歌をやろう」と素直に思えたんですね。バイト生活を始めて1年半、僕は21歳になっていました。

まずは基礎を学ぼうと、東京・高田馬場にある「ESPエンタテインメント東京」のヴォーカルコースに入学。新聞奨学生として新聞配達をすることで、学費と生活費をまかないました。そしてこの経験が、のちに大きなチャンスを運んでくれることになるのです。

在学中の生活は極めて規則正しいものでした。まず夜中の1時半に起きて、新聞にチラシを挟み込む作業。2時半から担当エリアの住宅400軒に配達。朝6時に終えると、寮でシャワーを浴び、まかないの朝食を食べて学校に行きます。

12時半に授業が終わると寮に戻り、14時頃から夕刊の準備。17時には配り終わるので、またまかないのご飯を食べて20時頃に就寝。この生活を卒業までの2年間、ほぼ毎日続けました。大変ではありましたが、食事が出てお給料ももらえたので、すごくありがたかったです。

<後編につづく>

婦人公論.jp

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