コシノヒロコ×コシノジュンコ×コシノミチコ「三姉妹」ではくくれない、三者三様の人生。「競争心がモチベーションになって成長できた」
2025年2月17日(月)12時30分 婦人公論.jp
コシノヒロコさん(中)、コシノジュンコさん(左)、コシノミチコさん(右)(撮影:下村一喜/『コシノ三姉妹 向こう岸、見ているだけでは渡れない』より)
大阪・岸和田のコシノ洋装店に生まれたコシノヒロコさん、コシノジュンコさん、コシノミチコさんの三姉妹は、50年以上ファッション業界で世界的な活躍をしています。そんな三姉妹の初の共著『コシノ三姉妹 向こう岸、見ているだけでは渡れない』が、2025年1月10日に刊行されました。そのなかから、三者三様の人生哲学の一部をお届けします。5月23日からは、連続テレビ小説『カーネーション』のモデルになった母・小篠綾子さんとコシノ三姉妹の人生を描いた映画『ゴッドマザー コシノアヤコの生涯』も公開され、ますます目が離せない姉妹です。
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仕事も生活も三者三様
ヒロコ ミッちゃんと会うのは、3月のお母ちゃんの慰霊祭以来よね?
ミチコ そうやね。母の命日と岸和田だんじり祭の2回、毎年必ず帰国するから。
ジュンコ ミッちゃんがロンドンに渡ったのは、1973年?
ミチコ 30歳のときだから、50年たつんかー。まったく気にしてへんかったけど。
ヒロコ 私だってデザイナーになって60年以上だもの。あっという間だったわね。
ミチコ ファッションの世界は、春夏、秋冬と新作を発表して、それが毎年続くやろ。だから、歩みを止めたら終わりやん。大変やけど、目の前のことに精いっぱい取り組んで、楽しんでいたら、気づけば何十年もたっていた。
ジュンコ 私は、年数を意識しない。若い人と仕事しているし、自分の年齢も一切考えないわ。
ミチコ 私も。イギリスでは、年齢を聞かれることがまったくないしね。私のブランドのコンセプトも変わらへんし、年をとったからといって感覚が変わるということも絶対にない。
ジュンコ そうね。年齢を意識したら、そこで止まってしまう。
ヒロコ 年齢は単なる数字だからね。でも、3人とも今も現役で、それぞれにブランドを立ち上げて、ここまでよくやってきたと思う。一つのことを長く続けるって、普通はなかなかできないものよ。自分を褒めてあげたい気分。
“三姉妹”でくくられる抵抗感
ジュンコ 私たちは岸和田の商店街で洋装店を営むお母ちゃんの背中を見て育っているから、女性もずっと働くのが当然だと思っていたでしょ。
ヒロコ いわゆる“良妻賢母”になれという教育は、受けてこなかったわね。
ジュンコ 「なにになりなさい」とも一切言われなかった。どんな仕事に就いてもよかったんだけどね。
ヒロコ 盆暮れなく働く母の姿を見ていたから、ファッションの仕事に特に憧れなんてなかったのに……。
ミチコ 私も、デザイナーになるとは思わんかった。(笑)
『コシノ三姉妹 向こう岸、見ているだけでは渡れない』(著:コシノヒロコ、コシノジュンコ、コシノミチコ/中央公論新社)
ジュンコ そういえば私たち、お母ちゃんをモデルにしたNHKの連続テレビ小説『カーネーション』が放映されて以降、“三姉妹”でくくられることが増えたじゃない? 私、それにはちょっと抵抗感がある。ずっと三者三様でやってきて、一人ずつ立っているのに。ユニットの3分の1なんかじゃない。
ヒロコ 自分は自分、だものね。
ジュンコ そう。デザインの方向性も生活スタイルも性格も違う。お互いに連絡もほとんどしないから、「生きてる?」っていうくらいの距離感よね。
ミチコ LINEでたまにやりとりするくらいやな。
ヒロコ 生活の拠点もバラバラ。私は自宅がある兵庫の芦屋(あしや)と仕事場の東京を、週に数回飛行機に乗って行ったり来たりする生活を40年続けている。それで耳が悪くなってしまったけれど、どんなに忙しくても、私にとっては大切な習慣なの。自然が息づく芦屋の家に身を置くことで元気になれるから。
ジュンコ 私、そんなんできないわ。仕事でパリに滞在した以外は、ずっと東京。仕事場の近くに、私と夫、息子夫婦、孫3人の7人暮らし。夫と息子とは一緒に仕事をしていて、家族7人で毎週教会に通っているの。
ヒロコ 意外よね。ある意味、ジュンコが一番家庭的かも。
ミチコ 私はロンドンでひとり暮らしやし。
ジュンコ ミチコ、なんでも全部ひとりでやってんの、偉いわ。
子どもの頃は取っ組み合いも
ヒロコ 小さい頃、お母ちゃんが仕事で忙しかったから、私は祖父母に預けられていたでしょ。祖父は初孫の私を溺愛して、歌舞伎や文楽に連れて行ってくれて。創作の源泉は、この頃に培われたのだと思う。
ジュンコ 私はすごくヤンチャで、お母ちゃんも手を焼いていたほど。
ヒロコ そうよ。祖父が亡くなって7歳で家に戻ったら、激しい妹がいるもんだから、ひ弱な私も強くなったわよ。(笑)
ミチコ 私は激しくないけど、(ジュンコさんを指さして)この人は激しいな。
ジュンコ ようケンカしたね。お姉ちゃんは口が達者やから、私はバシッとお腹を蹴って、取っ組み合いになる。(笑)
ヒロコ ジュンコとは2歳違いだからお互い対抗心があったけど、ミチコは私の6歳下でしょ。もう可愛くて仕方なかった。みんなに自慢したくて、赤ちゃんのミチコを小学校に連れて行って、机に座らせてね。
ミチコ よう、やるよな。
ジュンコ それ、本当なの? びっくりするわ。でもお母ちゃん、私たちのやることを止めたことないもんな。
新人デザイナーの登竜門「装苑賞」
ヒロコ 一度だけ、絵描きを目指していた高校時代に「貧乏画家にはならんといて!」って美大行きを反対されたことはあったけど。
ジュンコ でも、そのおかげでデザイナーの道が開けたじゃない。
ヒロコ そうね。イラストで洋服のデザインを紹介する「スタイル画」に出合い、絵の技術をファッションに生かせるとわかって、文化服装学院に路線変更したの。絵を描くのはやめたくなかったから。
ジュンコ 私はお姉ちゃんと比べられるのがイヤで、別のことをしようと思っていたのに、お姉ちゃんのスタイル画の先生が私の絵を見て、「上手ですね。なぜ、お母さんと同じ仕事を目指さないの?」って。その言葉に導かれて、結局、文化服装学院に入学。やっぱり、道って敷かれているのね。反発していても、スーッと進んでしまう。
ヒロコ 私の後をついてきたのよ。(笑)
ジュンコ でも私は、新人デザイナーの登竜門「装苑賞」を最年少の19歳で取った。かわいそうだけど、お姉ちゃんは取れなかったのよね。「あんな腹立つことはないわ」って言ってた。
ヒロコ 妹に先を越されて、人生で一番悔しかった出来事だけど、私のときは装苑賞が始まったばかりで要領が掴(つか)めなかったのよ。でも、身近に最大のライバルがいたおかげで、競争心がモチベーションになって成長できた。それが今も、私たちを奮い立たせている部分はあると思う。
ジュンコ それは確かにそうね。
※本稿は、『コシノ三姉妹 向こう岸、見ているだけでは渡れない』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
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