なぜ市役所の地図記号が「◎」で、役場が「○」なのか。○印を多用するのは日本人だけだった!?

2024年2月25日(日)9時0分 婦人公論.jp


今尾さんは、市役所と町村役場の地図記号について「どうにも起源がわからない」と言っていて——(写真提供:Photo AC)

地図を読む上で欠かせない、「地図記号」。2019年には「自然災害伝承碑」の記号が追加されるなど、社会の変化に応じて増減しているようです。半世紀をかけて古今東西の地図や時刻表、旅行ガイドブックなどを集めてきた「地図バカ」こと地図研究家の今尾恵介さんいわく、「地図というものは端的に表現するなら『この世を記号化したもの』だ」とのこと。今尾さんは、市役所と町村役場の地図記号について「どうにも起源がわからない」と言っていて—— 。

* * * * * * *

起源は不明、◎市役所、◯町村役場


◎印が市役所の記号であることは広く知られているようだ。現行の地形図だけでなくネット上の地図でも同様のものが多い。町村役場は○印で、これは政令指定都市の区役所にも用いられている。ただし東京都の特別区は市役所と同じ◎印だ。

Chiyoda Cityなどの英語表記を引くまでもなく、市と同じように区議会を持ち、区立小中学校を運営し、その区長は区民による直接選挙で選ばれるから、◎印がふさわしいとの判断だろう。

ところで、なぜ役所が◎や○印なのだろうか。湯気をイメージした温泉記号や逓信省のテの字とされる郵便局と違って、どうにも起源がわからない。そもそも○印はきわめて単純な記号なので、地図に限らずいろいろな場面に用いられている。たとえば多くの情報から特定のものを抽出したいとき、あるいは何らかのモノを強調したいときなど、これまで多用されてきたと思われる。

ところで日本人が○を付ける場面で、欧米人は×印を書くことが多いのはなぜだろう。たとえばホテルのフロントで町の地図に書き込む際など、彼らは目的地に躊躇(ちゅうちょ)なく黒々とバッテンを書く。

私はこれを目の前でやられると少し抵抗を覚えるのだが、やはり日本ではバッテンを否定的な意味で用いることが多いからだろう。これに対して正しいこと、尊重すべきものには○を付けてきた。わかりやすい例が学校の試験で、正解には○が授与され、誤答に対しては容赦なくバツ(罰?)が与えられる。

思えば日本では明治以来「お役所主導型」で国運を盛り上げてきた伝統があるだけに、お手本とすべき場所、正しいことが行われる場所が役所である、という発想なのかもしれない。もっとも賭け麻雀が発覚して職を追われる類のメンバーが、いつの時代も○印の中に若干含まれているのは世の常だが。

欧米の地形図で○印を探してみたが、あまり見つからない。ドイツの地形図ではごく小さな○を「煙突」、または「塔状の建物」に用いている。中世の市壁の要所に建てられた塔などを思い浮かべれば納得できるが、上から見た形だろう。

オーストリアでは小さな○を規則的に並べて「果樹園」を表現している。リンゴなど丸い果物のイメージだろうか。

最初の地形図


日本でこの種の記号が官製の地図に初めて用いられたのは、最初の地形図として知られる迅速測図(迅速図)である。

明治13年(1880)から作製が始まったこのシリーズは関東地方限定で、定められたのは府県庁と「区郡役所」だった。


『地図記号のひみつ』(著:今尾恵介/中央公論新社)

ただし○印ではなく、それぞれ府県の記号は「府」や「県」の字を四角く囲み、また「区」と「郡」の字を楕円で囲んだものである。

明治13年の行政区画といえば、同11年に施行されたばかりの「郡区町村編制法」の枠組みで、府県の下に主要都市の「区」があり、その他のエリアは郡の下に町村が所属するという形だった。

当時まだ「市」は存在しておらず、横浜区、名古屋区、広島区など有力な都市が「区」で、東京、京都、大阪のいわゆる「三都」については、ほぼ江戸の区域を引き継いだ東京15区(後の東京市旧15区に該当)の他、京都が上京(かみぎょう)・下京(しもぎょう)の2区、大阪が東西南北の4区に分けられていた。

具体的には東京府麹町(こうじまち)区、京都府上京区、大阪府東区といった行政区画である。

当時の町村は生活実態により多種多様で、町と村の他にも江戸時代からの伝統で漁村を示す浦や浜、宿場に該当する宿と駅、農村部の新田などが混在しており、サイズとしては現在の大字レベルであるから非常に細分化されていた。このためそれぞれの役場に該当する「戸長役場」は迅速測図には示されていない。

その後は明治21年(1888)に施行された市制と町村制に基づく基礎自治体である、市・町・村が翌22年に誕生した(香川県は同23年。北海道と沖縄県および一部の離島は除外)。

三都はそれぞれ東京市・京都市・大阪市となり、従来の区は行政区となる(京都府上京区は京都府京都市上京区となった)。

三都以外の区は市に移行したが、同年末における市の数はわずか39。道府県の数より少なかったので、埼玉県や長野県、宮崎県など市のない県がいくつもあった。

「明治24年地形図図式」


市制・町村制施行後に正式な地形図が誕生するのだが、「明治24年地形図図式」ではこれに伴って市役所の記号を◎、町村役場および三都の行政区役所を○と定めた。ただし厳密に言えば◎が使われ始めたのはこれが最初というわけではなく、ごく一部での適用ながら「明治18年図式」が◎を郡役所に用いている。


<『地図記号のひみつ』より>

たとえば手元にある2万分の1「小田原」で同市街の現市民会館あたりに見える◎印は足柄下郡(あしがらしもぐん)役所だ。

「明治24年図式」ではこれに加えて府県庁および郡役所の記号として、それぞれ◎と○を上下につぶした楕円形のものが新たに定められている。

郡役所の記号は正式には「島庁及郡役所」で、島庁は大島、八丈島、隠岐(おき)、対馬(つしま)など主な島に設けられた役所。こちらは大正末に支庁に統合されている。

郡役所は大正15年(1926)になくなったので聞き慣れないが、郡は府県と町村の中間に位置する自治体として郡長と郡会(議会)が置かれ、郡立病院や郡立農学校なども設置された。

当時の府県知事は官選で内務省の官僚が赴任したが、郡長も同省若手のキャリア組が着任するポストであった。

「府県庁」は現在では都道府県庁であるが、東京都が発足するのは太平洋戦争中の昭和18年(1943)であり、北海道では道庁が明治20年頃から地形図を独自に作成していたこともあって、図式規程から除外されていたのかもしれない。

細かいことを言えば、道庁の測量原図を基に陸地測量部(国土地理院の前身)が明治29年(1896)頃に発行した5万分の1地形図には府県庁の記号が道庁の位置に印刷されているが、手元にある道庁地理課作製の20万分の1地図「札幌」(明治30年3刷)では、札幌市街のちょうど道庁の位置に「北」の字が印刷されており、これが独自の道庁記号だったらしい(記号凡例に「道庁」の記載がないため確認できない)。

いずれにせよ陸地測量部では「明治33年図式」で府県庁を「道庁及府県庁」と改めた。

記号の統廃合


戦後は昭和28年(1953)10月1日施行の町村合併促進法のもとで、合併が大々的に進められていく。これにより市町村数は減少した。

具体的には同法施行前日に9869市町村に及んだ基礎自治体数は、同法失効直後の昭和31年(1956)12月1日に3975市町村と6割減となっている。

このため特に○印は全国的に減少した。平成の大合併後の今ではもっと減って792市743町183村、これに東京都23区を加えて1741市区町村と、市が最多になった。

昭和40年(1965)前後には地形図作製工程の合理化や写真植字の採用(それまで文字はすべて手書きだった!)により、図の見た目もだいぶ変わっていった。

ちょうど高度成長期で国土の変貌が激しく、地形図の主力も5万分の1から2万5千分の1に移行して作製すべき図の面数が飛躍的に増えたことにより、短時間に多くの図を作製する必要に迫られる背景もあって、記号の統廃合が進められたのである。

役所関係の記号としては、都道府県庁の記号が「昭和40年図式」で廃止された。1200面を超える5万分の1,4000面を超える2万5千分の1地形図のうち、都道府県の数、全国でたった47ヵ所にしか載らない記号であるためだ。

廃止に伴って図上では「県庁」「道庁」といった文字表記に置き換えられている。

そういえばアメリカ合衆国の地形図は記号数をなるべく少なくする主義のようで、病院はHosp、消防署はFire Sta、墓地はCemなどと略記が目立つ。

きわめて珍しい例外として、地形図上で村役場が記号でなく文字表記される場合もある。

交通事情のため他市に役場を置いている村がそれで、三島村と吐喝喇(とから)列島の十島(としま)村は鹿児島市街に、西表島や竹富島を擁する竹富町は石垣市内に、いずれもその旨がわかるように「三島村役場」などと記載されている。

※本稿は、『地図記号のひみつ』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

「地図」をもっと詳しく

「地図」のニュース

「地図」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ