なぜ紫式部の父・為時は「藤原」なのに落ちぶれていたのか…「おまえが息子であったら」と嘆くのも納得な<一族の歴史>
2024年2月28日(水)12時30分 婦人公論.jp
紫式部の父親は「非エリートの貴族=下級貴族」だったそうですが——(写真提供:Photo AC)
『源氏物語』の作者・紫式部の生涯を描いたNHK大河ドラマ『光る君へ』の放送が、今年1月からスタート。一方で「源氏物語にはたくさんの謎があり、作者の紫式部にも、ずいぶんと謎めいたところがある。彼女にも彼女なりの『言い分』があったにちがいない」と話すのは、日本文藝家協会理事の岳真也さん。岳さんいわく「紫式部の父親は非エリートの貴族」だったそうで——。
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出自と生家
紫式部の生年は諸説ありますが、天禄(てんろく)元年〜天元(てんげん)元年、西暦にすると970〜978年ごろではないかと言われています。
「諸説の差が9年もある」となると、あやふやで疑わしく思ってしまいますが、当時の女性の名前や生まれ年、亡くなった年などの記録は、ほとんど残っていないのです。
記録が残されていたとしても、天皇家の子女のような、ごく限られた女性たちだけでした。
わりと確実性が高いのは、天延(てんえん)元年(西暦973)です。
『源氏物語の謎』(三省堂選書)の著者・井伊春樹氏は、兄の藤原惟規(のぶのり)の生年から推(お)して、そう記していますし、平安朝史の大家たる角田文衛氏も各著で、そのように表記しています。
また、「兄ではなく、弟だった」という説もありますが、けっこうな「オシャマさん」とおぼしき幼いころの紫式部が、そのかたわらで父の講義を聞いてしまう、といった逸話からしても、私は断然、「兄者(あにじゃ)」説を支持します。
ですから基本、天延元年の生まれということで、話を進めていきたいと思います。
下級貴族
彼女は貴族の娘ではあったのですが、紫式部の父親は、さほど位の高い貴族ではなく、受領(ずりょう)階級の貴族でした。
「受領」とは、「お上(かみ)から、いずこかの領地(地方)の差配権をあたえられる」との意味で、いわゆる国司(こくし)をつとめる階級です。
『紫式部の言い分』(著:岳真也/ワニブックス【PLUS】新書)
今日で言うなら、知事か市長、といったところでしょうか。
まぁ、それでも庶民からすれば、偉い人にちがいはありません。が、貴族社会では、天皇のそばで仕え、政治の中枢に身をおくことが、エリートの証(あか)しなのです。
つまりは、中間管理職とでも申しましょうか、紫式部の父親は非エリートの貴族=下級貴族というわけです。
名前は藤原為時(ためとき)。「藤原」と聞けば、平安時代ではかなりの家柄と思われるでしょうが、藤原氏にはさまざまな家系があって、奈良時代には南家(なんけ)、北家(ほっけ)、式家(しきけ)、京家(きょうけ)の四氏に分かれています。
平安時代中期になって、北家の藤原良房(よしふさ)が清和(せいわ)天皇の外戚となったことで、摂政(せっしょう)の役職に就き、実権を握ったのです。
為時も藤原北家の出ではありますが、良房の弟・良門(よしかど)の系統だったため、主流の藤原摂関家(せっかんけ)とは大きく差のついた地位に甘んじなければなりませんでした。
ただ、為時の祖先には有名歌人が輩出し、為時みずから歌も詠みますし、優れた漢学者だったのです。
曾祖父と賀茂河畔の邸宅
紫式部の兄・惟規は子どもの時分から、父親に漢籍を教えられていました。彼らの家では、学問で身を立てていかなければ、出世はおぼつかなかったのです。でもそれは、男子(おのこ)の話であって、「女子(おなご)は漢籍を学ぶものではない」というのが平安時代の常識でした。
ところが、兄のすぐそばで、父の教えを聞いているうちに、妹の式部のほうが、漢籍のイロハを覚えてしまう。やがては、かなりの「漢学通」になっていきます。
「ああ、娘よ。おまえが息子であったらなぁ」
それが父・為時の嘆きであり、口癖であったようです。
ここで、紫式部の父方の家系について、簡単に触れておきます。
何となれば、紫式部が育った家の環境は、彼女の父方の祖父—曾祖父の力が大きく影響しているからです。
紫式部の曾祖父・藤原兼輔(かねすけ)は、文人として名を残した人で、従三位中納言(じゅさんみちゅうなごん)の位まで出世し、「三十六歌仙の一人」にあげられるほどの有名な歌人でした。
漢学・和歌の両方に長(た)けていて、当時の醍醐(だいご)天皇の信任すこぶる篤(あつ)く、「『聖徳太子伝略』上下巻をまとめあげた」と言われています。
その兼輔は京極(きょうごく)賀茂川の河畔に邸宅をつくり、邸内に賀茂川の水を引きこんで、四季豊かな風情のなかで暮らしていたそうです。当時の人びとは彼のことを「堤中納言(つつみちゅうなごん)」とよび、尊敬の眼差しを向けていました。
紀貫之や大江千里(おおえのちさと)など当代きっての歌人たちが、兼輔の邸宅や山荘につどい、歌会など、雅(みやび)な交流をくりひろげました。
兼輔は、彼ら歌人たちのパトロンだったのです。
さらに兼輔の娘・桑子(そうし)は、更衣(こうい)と称される女官として、醍醐帝のそば近くに仕えていました。
更衣とは、天皇夫人である皇后・中宮(ちゅうぐう)・女御(にょうご)より下位で、その名のとおり、「帝(みかど)の衣裳をととのえ、身支度を手伝うのが勤め」ですが、帝の眼にとまることも多く、気に入られた場合は閨(ねや)によばれ、側室のような扱いを受けたのです。
この「更衣」という役職名は、『源氏物語』序盤の重要なキーワードにもなりますので、ぜひ覚えておいてください。
落ちぶれた貴族の屋敷
話をもどします。
紫式部は、「先祖の兼輔が著名な歌人であった」ということを、たいそう誇りに思っていたようです。京師(けいし)随一の教養人であった兼輔の屋敷には、多くの漢書や和歌集などが残されていました。
紫式部の祖父や父は、歌人・文人の家門であることを意識し、そのぶん懸命に勉学に励んだにちがいありません。
当然のことながら、賢い少女であった紫式部は、多くの書物にかこまれた環境のなかで、しっかりと教養を身につけていきました。
しかし、兼輔の代につくられた風趣あふれる邸宅は、為時の代にはどうなっていたでしょうか。
紫式部の曾祖父・兼輔は従三位中納言でしたが、祖父や父は、「従五位(じゅごい)の受領階級」にしかなれませんでした。
しかも、です。
紫式部の父・為時は越前守(えちぜんのかみ)に任ぜられるまえは、10年間も無役の身の上でした。ということは、実入りがとぼしく、賀茂河畔の優雅な邸宅を、美麗に維持できるほどの財力はありません。
おそらく庭には雑草が生い茂っていたでしょうし、建物もさぞや傷んでいたでしょう。わるい言い方をすれば、「落ちぶれた貴族の屋敷そのものだった」可能性があります。
紫式部は、和歌などの作品を理解しはじめた少女時代に、先祖の文芸面での栄光の歴史と、零落してしまった家門のわびしさを、ひしひしと感じていたと思います。
※本稿は、『紫式部の言い分』(ワニブックス【PLUS】新書)の一部を再編集したものです。
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