ジェーン・スー 誰かがSNSで幸せの数を数え出したら私の<違和感センサー>が反応する。「むしろ幸せを感じられていないのでは」と邪推する私はどこかで自分の違和感を絶対的に信用している

2024年2月28日(水)12時30分 婦人公論.jp


(イラスト=川原瑞丸)

ジェーン・スーさんが『婦人公論』に連載中のエッセイを配信。今回は「違和感の正体」について。違和感について近頃よく考えているというスーさん。その結果たどり着いた「大人になればなるほど、違和感が拭えない場面が多々出てくる理由」とはーー。

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違和感の正体


近頃は、違和感の正体についてよく考えている。違和感を持つことが少なからずあるからだろう。

取っかかりを掴むため、まず辞書を引いた。小学館デジタル大辞泉には、「しっくりしない感じ。また、ちぐはぐに思われること」とあった。「違和」とは、「からだの調子がくずれること。周囲の雰囲気に合わないこと」だそうだ。

なるほど、肉体に関する違和の解釈はすんなり腑に落ちる。「お腹に違和感がある」とは、普段の肉体とは異なる感覚を察知した、という意味だ。病院へ行くことで違和は解消される。

しっくりしない、ちぐはぐ、周囲の雰囲気に合わない、に関しても、おでんとともに紅茶を出されたら違和感を持つし、葬式にマイクロミニスカートの参列者がいたら、まあ本人の好きにしたらいいが違和感は否めない。どちらも違和感の正体はハッキリしている。そぐわない、ということ。

私がどうにも引っかかるのは、他者の言動に自分が違和感を持ったときだ。言動がしっくりこない、そぐわない、ちぐはぐに感じる、とはどういうことなのか。言語化しづらいモヤモヤを「違和感」のひと言で片づけまくってきたせいで、違和感の正体が掴めない。

他者の言動に持つ違和感とは、煎じ詰めればジャッジメントだ。否定や断罪まではいかない、「でもやっぱり、なんかおかしいよ」というジャッジメント。相手の言動をそのまま受け取れない我が心の状態を高解像度で見てみると、要は相手が嘘をついていると私が判断していると言える。あら、なんか怖いわね。他者の言動の真偽を私が決めるなんて、不遜にもほどがある。だがしかし、違和感はそこかしこに確実に横たわっている。

「違和感」という言葉で、私は他者をジャッジしている


40過ぎたら勘は経験値の蓄積が導き出した推測だ。「今朝はおにぎりを100個食べました」と誰かが言ったら、確かめずとも嘘だとわかる。私が5歳児だったら、わからないだろう。経験が浅いから。

しかし、経験には年を重ねるごとに個々人のバイアスがかかる。よって、私の持つ違和感にも私のエゴや歪んだ認知が作用している。私は私の持つ違和感を絶対視してはならない。そうわかっていても、大人になればなるほど、やはり違和感が拭えない場面が多々ある。歳を重ねると嘘がうまくなるからだろう。

私は底意地が悪いので、誰かがSNSで自分の幸せの数を毎日のように数え出したら、違和感センサーが反応する。投稿者は、むしろ幸せを感じられていないのだろうと邪推する。

自己防衛のために、違和感という名の勘が働くのは良いことだ。「なんだか違和感がある。早く帰ろう」とか。しかし、すべてにおいてジャッジメンタルな人間にはなりたくない。だが、確実にそうなりつつある。「違和感」という言葉で、私は他者をジャッジしている。そして、どこかで自分の違和感を絶対的に信用している。

恐ろしいのは、自分が他者に与える違和感を察知できないことだ。私が他者に「違和感があるよ」とは言わないように、他者も私にそうは言わない。だから、心と言動がそぐう状態にあるかを、自分でこまめにチェックするしかない。

自分に嘘をつかないでいることは、子どもの頃からずっと難しい。でも、やるしかない。だって、私が違和感を持った人たちは、たいていあとから辻褄が合わなくなって、大変な目にあっているから。



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