松村雄基さんが『不適切にもほどがある!』に本人役で登場。『スクール☆ウォーズ』や『不良少女とよばれて』で不良を演じていた当時を振り返る
2024年3月1日(金)12時30分 婦人公論.jp
俳優・松村雄基さん(撮影=本社◎奥西義和 以下すべて)
本日(3月1日)放送のTBS系ドラマ『不適切にもほどがある!』の第6話に、松村雄基さんが本人役でゲスト出演します。同作品は阿部サダヲが主演を務め、宮藤官九郎氏が書き下ろす意識低い系タイムスリップコメディー。放送当初から話題の作品で、さらに松村さんが本人役として登場することが発表されると、ネットでは大きな反響が。今回は、松村さんが俳優の道に進んだきっかけから、『不良少女とよばれて』や『スクール☆ウォーズ』で不良役を演じていた時の裏側など、人生を振り返ったインタビュー記事(2023年11月公開)を再配信します。
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1980年代のドラマ『不良少女とよばれて』や『スクール☆ウォーズ』などに出演し、人気を博した俳優の松村雄基さん。歌手や書家としても活動の幅を広げる中、11月には舞台『クリスマス・キャロル』で主演を務めます。今年還暦を迎えるにあたり、芸能界入りのきっかけから2人暮らしをしていた祖母の介護を振り返りつつ、今後の活動について語ってもらいました。
(構成=上田恵子 撮影=本社◎奥西義和)
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「芸能界でやっていけると思った」と言われて
芸能生活を始めて今年で43周年。この11月に還暦を迎えます。もう還暦だなんて、誰よりも僕自身がビックリしています。(笑)
この世界に入ったきっかけはスカウトでした。たまたま同級生の女の子のお母さんと今の事務所の社長が知り合いだった縁で、声がかかったのです。そのとき僕は14歳、中学2年生でした。
その同級生にはカッコイイ彼氏がいたため、後になって「なぜ彼氏じゃなく俺を推薦したの?」と聞いてみたところ、「彼には芸能界みたいな汚い世界に染まってほしくなかった。でも、あんたが生徒会長として演説をする姿を見て、この人ならやっていけると思った」と言われて。(笑)
確かに僕は当時、生徒会長をしていましたが、彼女は選挙の際、僕に対して不信任投票をしているんです。つまり好かれてはいなかった。推薦の理由を聞いても褒められているのかけなされているのかさっぱりわからず、ポカーンと話を聞いていたことを覚えています。(笑)
僕としては芸能界に興味がなかったので断わるつもりでいたのですが、一緒に暮らしていた祖母から「無下にお断りするのも失礼よ。お会いするだけお会いしてみなさい」と諭されて。後日、六本木にある喫茶店「アマンド」で、社長と面談することになりました。
高校生の時に、ドラマ『生徒諸君!』でデビュー
「好きな役者さんは?」「よく知りません」「歌手は?」「知りません」「好きな野球チームは?」「あまり野球は観ません」という感じで、社長との会話はまったく弾まず(笑)。でも逆にそれを面白い、新鮮だと感じてくれたのか、後日僕が学校に行っている間に社長自ら家に来て、祖母を説得したそうなんです。
最終的に、「今日一日社長さんとお話したけど、信頼できる人だと思うからやってみなさい」という祖母の鶴の一声で、僕は芸能の道に進むことになりました。社長と祖母の連携にまんまとはめられたような気もしますが、こうして43年も続けられているわけですから、二人の目は正しかったということになりますね(笑)。きっかけを作ってくれた同級生にも感謝しています。
それから2年間、新劇系の「劇団俳小」の聴講生として芝居を学び、1980年、高校2年生のときにドラマ『生徒諸君!』の沖田成利役でデビューしました。大阪から来たちょっとクールでアウトローっぽい学生の役で、皆さんに話題にしていただいたおかげか、すぐに次作となるドラマ『ぼくらの時代』への出演が決定。こちらも学園もので、教師役に国広富之さん、生徒役には時任三郎さんや柳葉敏郎さんがいました。
そのころ僕は一般の都立高校に通っていたのですが、仕事が忙しくなるにつれて徐々に学校に行けなくなって。高3の時の出席日数は、わずか50日でした。そこで当時、都立では唯一通信制の授業があった都立上野高校の4年生に編入。1年間通信で学び、なんとか卒業することができたのです。
「監督から『ケンカだぞ!? なに丁寧にやってるんだ!』と怒鳴られることもありました」
祖母の厳しいしつけと、乱暴な役柄とのギャップ
ありがたいことに、その後も『不良少女とよばれて』『スクール☆ウォーズ』等、途切れることなくドラマへの出演が続きました。人を殴るような役柄が多かったため、素の僕も乱暴な人間だと思っていた人もいたようです。役のイメージって強いんですね。(笑)
でも、実際は真逆。僕は家庭の事情で両親と離れて祖母と住んでいたのですが、この祖母が本当に厳しい人で。小学生の頃から食事は正座、食べ始めるのは目上の人が箸をつけてから。食事中はおしゃべりもテレビも禁止という厳格さで、年賀状を書いていても、少しでも字が曲がると無言で書き直しを命じられる。まるで武家の暮らしのようでした。
僕は祖母が50歳の時の孫です。祖母は「両親と暮らしていない子だからといって後ろ指を指されないように」と、人一倍頑張って僕を育ててくれたのだと思います。とにかく強い人で、僕が学校でいじめられたりすると「うちの憲幸(松村さんの本名)がお宅の※※くんにいじめられたそうですが」と、相手の家に乗り込んで行くんです。僕も一緒に連れて行かれるため、内心「これでまた明日もいじめられる。勘弁してよ〜!」と思っていました。(笑)
詩吟の先生をしていた祖母は、礼儀作法だけでなく所作にも厳しい人でした。正座をする際はズボンの膝が出ないよう、膝の上をクイッとたくし上げてから座るようしつけられたのですが、僕はドラマの乱闘シーンで相手に馬乗りになって殴る場面でもそれをやってしまって(笑)。監督から「ケンカだぞ!? なに丁寧にやってるんだ!」と怒鳴られることもありました。
しかも、これまで人のことは必ず「さん・くん」をつけて呼んできたのに、ドラマでは呼び捨てどころか暴言を吐かなくてはいけない。日々、現場で日常とのギャップを感じていましたね。
祖母をおぶって近所のお風呂屋さんに
もともと高血圧だった祖母が脳梗塞で倒れたのは、僕が高3のときです。祖母は68歳でした。冬の寒い日だったので、それがこたえたのかもしれません。僕は翌日から一週間、名古屋で撮影の予定が入っていたのですが、近所に住むおばと事務所の社長が「留守中のことは任せて、心配しないで行ってこい」と送り出してくれました。
祖母は後遺症で半身まひと言語障害が残り、一人でトイレに行くのもままならない状態に。自身を律して生きてきた人だけに、誰かに頼らねばならない生活は辛かっただろうと思います。
当時僕らが住んでいた家は都営アパートの4階。部屋にはお風呂がなかったので、仕事から戻った僕が祖母を背負い、近所のお風呂屋さんに連れて行くこともありました。お風呂屋さんの入り口で、待っているおばとバトンタッチ。男湯と女湯に分かれてお風呂に入り、出てきたらまた僕が背負って帰るのです。まるでフォークソングの『神田川』の世界ですね。(笑)
こんな話をすると「10代で介護だなんて大変でしたね」と言われるのですが、僕は本当に大したことはしていないんです。昼間はおばが祖母の世話をしてくれましたし、ご近所の方も手を貸してくれましたから。事務所の社長や現場の皆さんも、いろいろ気遣ってくれました。きっと僕が知らず知らずのうちにSOSを発していたんでしょうね。そういった周囲の方々の助けがなければ、早々にパンクしていただろうと思います。
「僕、20歳になるまで、玄関に鍵をかけたことがなかったんですよ」
ご近所さんが、「おばあちゃん、今日も憲ちゃんにおぶってもらっていいねえ。ゆっくり浸かってくるんだよ〜」と声をかけてくれたりして、下町らしい、あたたかな雰囲気がありました。時には「おかず、作りすぎちゃったから」と差し入れをしてくれたり、家に来て祖母の手を引いてリハビリをさせてくれたり。僕、20歳になるまで、玄関に鍵をかけたことがなかったんですよ。
さらに当時はエアコンなんてなくても、夏は玄関と窓を開け放しておけば風が通って涼しかった。のんびりした、いい時代でした。
享年88。眠るように亡くなった祖母
それともうひとつ、僕にとっては仕事がちょうどいいストレス発散の場になっていました。大声で叫んだり暴れたりする芝居が多いので、気分がスッキリするんです(笑)。どの作品も視聴率が良く、祖母が喜んでくれたのも励みになりました。朝早く家を出て、夜遅く帰宅して、夜中に起きて祖母のケアをするのは肉体的には大変でしたが、精神的にはさほど苦ではなかったです。
その後、僕らはアパートからマンションに引っ越したのですが、そこで僕の留守中に家を出た祖母が迷子になり、警察に保護されるという出来事がありました。おばとも話し合い、祖母の介護のために僕と祖母とおば一家の計5人で一軒家に住むことになったのですが、実はそこからが大変で。全員が24時間、祖母と向き合うことになったため、お互いの精神的負担が大きくなってしまったのです。
人間は疲れると、つい厳しいことを言いがちになります。身内に対しては特にそうですよね。祖母の認知症が少しずつ進んできたこともあり、話し合いの末、特別養護老人ホームに入居してもらうことに。祖母が倒れてから、ちょうど10年目のことでした。
最初は特養ホームに入ってもらうことに心苦しさがあったのですが、プロの方の介護はさすがですね。手厚いケアに安心したのか祖母にも笑顔が戻り、僕らも祖母に優しくできるようになりました。本人にとっても家族にとっても、良い選択だったと思います。
祖母はそこで10年お世話になったのち、最期は眠るように亡くなりました。ちょうど部屋に誰もいないタイミングだったのですが、僕としては苦しまずに逝ってくれたのが何よりだったなと……。享年88。大往生だったと思います。
「セリフの練習をしながら、『人生は厳しいけれど、本当に素晴らしいものだよ。そして、いつからでもやり直せるものなんだよ』と、エールを送られているような気持ちになった」
ミュージカル『クリスマス・キャロル』に出演
還暦を迎えて初の舞台が、11月19日から始まるミュージカル『クリスマス・キャロル』です。僕が演じるのは守銭奴のスクルージ。オファーをいただいたときは、主演ということはもちろんですが、年齢や経験を重ねないとできない役だけに「そういう役を演じられる役者だと思っていただけるようになったのか」と嬉しく思いました。
スクルージはお金持ちではありますが、家族もおらず、孤独な生活を送っています。一方的で人の話を聞かず、相手を否定してばかり。こういうキャラクターは、台本を読んでいてもセリフ覚えが大変なんですね。なぜならお芝居が一方通行だから。
セリフというのはキャッチボールのようなもので、こちらがこう言って相手がこう返す、というやり取りがあって初めて成り立つもの。そうでない場合はプツンプツンと言葉が切れてしまって、なかなか頭に入ってこないのです。
しかも彼のセリフは「うるさい!」とか「くだらん!」という相手を否定する激しい言葉が多いので、自然と顔の筋肉がこわばってしまって(笑)。彼が人の優しさに触れて変わっていく2幕になると、徐々に表情も柔らかくなっていくんですけどね。
スクルージにとって忘れられない女性を始め、舞台に登場する3人の女性を演じるのは、昔と変わらずエネルギッシュでキュートな杉本彩さん。まだ公式動画の撮影現場でご挨拶をしただけですが、本格的に稽古でご一緒するのが今から楽しみです。
セリフの練習をしながら、「人生は厳しいけれど、本当に素晴らしいものだよ。そして、いつからでもやり直せるものなんだよ」と、エールを送られているような気持ちになった『クリスマス・キャロル』。人は1人では生きていけず、心の交流は何よりも大切です。寒い季節、ぜひこのミュージカルを観て、人のあたたかさを感じていただけたら嬉しいです。
朝3時半に起きて、公園を11kmランニング
現在の日課は、朝、近所の公園を走ること。舞台をコンスタントにやるようになった30歳頃から始めた習慣で、毎日11㎞を走っています。その公園では近隣の大学の選手が早朝練習をしているため、邪魔にならないようその前に走るようにしていたら、いつの間にか3時半起きになってしまいました。(笑)
朝食のメニューは20年間変わらず、納豆、キムチ、ヨーグルト、バナナ、キャベツとキュウリとトマトとパセリのサラダ、ゆで卵、ワカメスープ。メニューを考えるのが面倒なので、ずっと同じものを食べています。これでトータル600キロカロリー。野菜を切る程度なので料理というほどではないですが、すべて自分で作っています。
30歳になったころから書を習い始め、現在は書家としても活動しています。僕は今年60歳で還暦を迎えますが、還暦には「ひとまわりして生まれ変わる」という意味があるそうなので、ここでまた何か新しいことを始めるのもいいなと思っています。いつまでも健康に気をつつ、興味のあることに果敢にチャレンジする人生を送っていけたら最高です。
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