フジ石田弘EPが語る『ミュージックフェア』の精神 “照明”や“コラボ”で守ってきた60年の歴史

2024年3月2日(土)6時0分 マイナビニュース

●最初の関わりは…クビ覚悟で出社拒否
フジテレビ系音楽番組『SHIONOGI MUSIC FAIR(ミュージックフェア)』(毎週土曜18:00〜)が、1964年の放送開始から今年で60周年、放送回数3,000回を迎え、これを記念した特別企画を3月2日から9週にわたって放送する。
このフジ最長寿番組に半世紀にわたって携わるのが、現在もエグゼクティブプロデューサーとして腕を振るう石田弘氏(80)。同局の港浩一社長とともに『とんねるずのみなさんのおかげです』を立ち上げ、石橋貴明が扮するキャラクター「ダーイシ」のモデルとしても知られる名物Pだ。
日本の音楽業界とともに歩んできた石田氏は『ミュージックフェア』をどのように作り、精神が受け継がれてきたのか。その歴史を振り返るとともに、特別企画のブッキング秘話、今後の番組やフジテレビへの期待など、たっぷりと話を聞いた——。
○ドラマやビデオ制作でも音楽知識を生かす
——『ミュージックフェア』にはどのような形で関わるようになったのですか?
最初はドラマの第一制作部に配属されて、『三匹の侍』のADをやってたんだよ。予告編を作るんだけど、当時アートシアターでモダンジャズを使ったフランス映画が流行ってたから、殺陣のシーンでバサッと斬って、チャーリー・ミンガスをBGMにかけたら、ディレクターに「お前何やってんだ!」って怒られたり、そんなことばっかりやってた(笑)。それとは別に、自分の上には太地恒夫さんというバラエティとかいろんなショーをやる親分がいて、ドラマをやりながらそこでディレクターになっていくんだけど、フジの制作部門がプロダクション化するんだよ。
でも、プロダクションに行ってもしょうがないからって、事業局にできたビデオ制作部ってところに行ったんだね。そこで「何か作れ」って言われるんだけど、当時のビデオなんて「How toモノ」か「裸モノ」しかない。著作権の問題があって曲も使えないから、簡単な歌を考えて、下着のモデルだった人を呼んできて、3人組作って歌わせて、「ビートポップス」にかけて「ヌードポップス」なんてビデオを作ってたんだ。
そういうしてる間に、親分がフジテレビを辞めてブラジルに行っちゃったからビデオ制作部にいてもしょうがないなと思って、フジプロ(ダクション)に行ったわけ。そのときに『ミュージックフェア』にいたチーフADが体調を崩してできなくなったから、譜面が読めて、セットのことも分かってるし、音楽に強いということで、代わりにやってくれって言われたの。それが『ミュージックフェア』に初めて絡んだときで、27歳だったかな。
——50年以上前から携わってきたんですね。
いや、ところがなんだよ。担当ディレクターが忙しくて、「デューク・エイセスの演出考えといてくれよ」って言われたから、カット割り作って、スタジオセットも図面に書いて、アレンジのテープも作って、それを全部入れた封筒をディレクターのデスクに置いたら、夜中に電話かかってきて「失くしちゃったから、もう1回作って」って言われたの。それでもう俺は「あんたとなんか仕事したくない!」ってブチ切れて、朝10時くらいからドライリハーサルが始まるんだけど、クビになってもいいと思って行かなかったね。
——デューク・エイセスの演出は幻に…。
○自らの企画番組で音楽業界の人脈構築
そしたら、吉永小百合さんの旦那さんで、フジプロ専務の岡田太郎さんに「今編成が、日曜日の競馬中継の時間の後に、若い世代のサラリーマンを対象にした生放送をやりたがってるから、それを考えろ」って言われて作ったのが『リブ・ヤング!』っていう番組。そこに、ラジオで一番人気があったキンキン(愛川欽也)を呼んできて、『平凡パンチ』を辞めた今野雄二を呼んできて、LF(ニッポン放送)で番組やってたビーバーを呼んできて立ち上げたの。俺は28歳で若すぎるからって、『ミュージックフェア』もやってた林良三さんがプロデューサーでついてくれて、音楽情報がウケたり、プロモーターが洋楽のアーティストを連れてきたりしてくれて、自分の人脈が全部できたわけ。吉田拓郎とかユーミン(松任谷由実)とか呼んで、キャロルをテレビデビューさせて、矢沢永吉と今でも付き合ってる。出演していた女子大生の中の1人が、石坂敬一(当時・東芝EMI、後にユニバーサルミュージック社長、日本レコード協会会長)の女房ですよ。
そんなことしてたたら今野雄二も有名になって、キンキンと一緒に『11PM』(日本テレビ)に行っちゃった。この『11PM』をやってたのが井原高忠さんなんだけど、俺は井原さんをすごく尊敬していて、高校生の時からああいうテレビマンになりたいって思ってたんだよ。親父の知り合いから読売映画の社長を通じて会いに行って「弟子にしてください」って言ったら、「大学出てからいらっしゃい(※モノマネ)」って(笑)。それくらい憧れてたから、ショー番組をやりたかったんだよ。「とんねるず」って名前つけたのも井原さんだからね。
——縁があったんですね。
『リブ・ヤング!』を始めたときには、シンコーミュージックの草野昌一さんという人にかわいがられて、まだビデオもないから16ミリ(フィルム)の機材持って、ナッシュビル、メンフィス、LA、サンフランシスコ、ニューヨークとか、どんどんロケに行かせてくれたんだよ。それで、フィルムで撮ることを覚えた。それと同時に、チューリップが「魔法の黄色い靴」でデビューするんで、その短編映像を作ってくれと言われた。「心の旅」でも、財津(和夫)が千疋屋の2階にいるのをローアングルから撮ったりして。それを見ていたフォーライフ・レコードを作る後藤由多加から「つま恋で5万人コンサートやるから、ウッドストック・フェスティバルみたいに撮ってくれ」って言われて、どんどん音楽の実績ができていったんだ。
——その『リブ・ヤング!』は75年に終了します。
終わった後に『ニューミュージックスペシャル』って6スタ(フジテレビ河田町旧社屋で最大の広さだった第6スタジオ)に客入れて、スタジオライブみたいな番組を、月に1回、土曜に1時間半とか2時間やって、拓郎とかが出たりしてたんだよ。そうしたら、社内でフォークやロックと言えば俺だなって感じになってきて、林良三さんに「『ミュージックフェア』やってくれないか」と言われて戻ることになった。それが30代前半かな。38歳でプロデューサーになっちゃうんだけど。
——再び『ミュージックフェア』にやってきて、最初に撮ったのは誰だったのですか?
ん〜分からない(笑)。はじめの頃は(南)こうせつと(坂本)九ちゃんを撮ったかな。ユーミンも撮ったけど、話題になったユーミンとジュリー(沢田研二)のを撮ったのは斉藤敏ちゃん(ディレクター)だった。あの頃、ユーミンはアルファ(レコード)にいて、敏ちゃんは村井邦彦(アルファレコード創立者)と仲良かったから。俺がユーミンを初めて撮ったのは、『ミュージックフェア』に出て3回目か4回目くらいだろうな。
●“一社提供番組”の強み「すごく理解してくれている」
——いろんな番組や映像制作で蓄えたノウハウを持って『ミュージックフェア』に来たときは、「こういうふうに撮れ」と言われるのではなく、自分の自由にやれたのですか?
そうだね。『ミュージックフェア』で大きいのは、谷川富也っていう後に日本照明家協会の会長になる照明マンがいて、よくアメリカのロケに連れて行くんだよ。飛行機乗ってるときに、雲の下から後光が差すように明かりが照らされることがあるでしょ? そしたら谷やんが「あれテレビでやろう!」って言うの。こっちが「あんなのどうやってやるんだ?」って聞くんだけど考えてくれるんだ。海外に行っていつも研究する人で、ニューヨークで明け方にビルの間から見える日差しを写真に撮って、どうやったらこれをスタジオでできるかって考えてたね。スタジオセットは妹尾河童さん(後に小説『少年H』などを執筆)が作ってたんだけど、「俺のセットに勝つ歌を持ってこい」なんて言うから苦手だった(笑)
——現役ディレクターの松永健太郎さんが「照明でどう見せるかがいかに大事かというのを学びました」とおっしゃっていたのですが、『ミュージックフェア』という番組において、照明は特に大事なものであるという精神が受け継がれてきたんですね。
そうそう。昔は1日1本撮りだったのが、今は2本撮りになって、なかなか照明の仕込みが深くできなくなったんだけど、その代わり、LEDが出てきたりいろんな技術が進んできた。ただ、俺は谷村新司や加山雄三のコンサートもずっとやってきたんだけど、ステージのようにいろんな機械を使ってバチバチ細かく明かりを作ることは1回のテレビ収録では予算的にもできないから、今までのやり方では限界がきてることは事実。『ミュージックフェア』には、シオノギ製薬というこの番組を大事にしてくれるスポンサーがいるからある程度作り込んでできるけど、その中でいかにうまくやっていくかだね。
——この春で日立の『世界ふしぎ発見!』(TBS)が終了しますし、シオノギ製薬の“一社提供番組”というところでの強みは感じますか?
シオノギと言えばミュージックフェア、ミュージックフェアと言えばシオノギってイメージが付いてるからね。シオノギ製薬は内容について俺らに任せてくれて、すごく理解してくれている。だからこっちも「こういうことをするのはマイナスだろうな」って気をつける。そういういい関係で60年続いてきたんだよ。
○『夜ヒット』『HEY!HEY!HEY!』に対する位置づけ
——『ミュージックフェア』という番組が60年にわたり存在する中で、『夜のヒットスタジオ』や『HEY!HEY!HEY!』といった音楽番組がゴールデンタイムに編成される時期もありました。こうした番組に対して、『ミュージックフェア』はどのように位置づけられてきたのでしょうか。
『ミュージックフェア』は持ち歌を歌うというより、「あの人とあの人が一緒にコラボしたらどんなものが生まれるんだろう」というところにポイントがあるわけ。新曲を出したらその人を出せばいいってやってたら、普通の番組で終わっちゃう。もちろん、新曲も紹介してプロモーションになるようにしてあげないと歌手に悪いから歌ってもらうけど、必ずコラボをやってもらうといった感じ。要するに、井原高忠さんがやってた『光子の窓』(日本テレビ、草笛光子メインの音楽バラエティショー)みたいなのがいいなと思って、それが基本にあるから「コラボだけはなくすをやめよう」って言ってきたんだ。
——持ち歌の歌唱に比べ、コラボは準備が大変ですよね。
(本番収録と)別日にリハーサルをやるからね。昔から服部克久さん、前田憲男さん、今は武部聡志と音楽監督がいて、「この人とこの人のキーならできるな」とか「ここは変えなきゃいけないな」とか考えてアレンジを作っていく。担当ディレクターも、ある程度そういうことが分かってないといけない。
——その精神が『FNS歌謡祭』にも伝播していったのですね。
『FNS歌謡祭』がコラボを打ち出す形に変わっていったのは、やっぱり『ミュージックフェア』の影響だよ。
●千昌夫×オリビア・ニュートン・ジョンがコラボ
——半世紀にわたり担当してきて、特に印象に残るパフォーマンスを挙げると何でしょうか?
俺が一番興奮したのは、やりたくてしょうがなかったレイ・チャールズ。「いとしのエリー」を歌ってもらった。それと、これは自分の趣味の部分だけど、ブルーグラスっていうアメリカのカントリーの原点の音楽が大好きで、ビル・モンロー&ザ・ブルーグラス・ボーイズが日本に来たときに、森山良子と共演させたのも良かった。くだらないので面白いのは、千昌夫とオリビア・ニュートン・ジョン。2人で「カントリーロード」を歌いながら、千昌夫が「故郷に帰ろう〜」とか言うんだよ(笑)。その後に、オリビアが「フィジカル」歌ってるんだから。
——錚々たる海外アーティストが出演されてきましたよね。
マライア・キャリーは2回出て、2回目に出るときに「客がいないところで歌うのは嫌だ」って言い出したから、急きょヴィーナスフォートに客入れて歌ってもらったよ(笑)
——海外アーティストの出演といえば、先日亡くなった黒木彰一さんも『SMAP×SMAP』などで手がけられていました。石田さんとは班が違いましたが、交流はあったのですか?
あんまりないけど、よく知ってるよ。黒木は俺が『ライヴエイド』(アフリカ難民救済を目的として世界中のミュージシャンが参加したチャリティコンサート)の番組をやったりしてたのがうらやましくて、「僕もやりたい」とか「今に勝ってやる」とか、よく言ってたんだよ(笑)
——黒木さんは、コロナ禍で多くの世界的アーティストが出演した配信のチャリティライブ『One World: Together At Home』を担当されましたからね。
○ディレクターが「さりげなく撮る」時代に進化
——60年も番組が続いていくと、放送時間も変遷してきました。
一番最初は、今はドラマのイメージが強いけど月曜9時だった。俺がやりだした頃は火曜9時半だったな。この時間は(プロ野球の)ナイターが押してくることがあるから、延長して9時半から『ミュージックフェア』ができないと飛んじゃうんだよ。だから、レギュラーの30分枠用とは別に15分バージョンっていうのを作ってたんだ。
——繰り下げにならずに、そこで調整されちゃうんですね。
9時45分からでもいいからやらしてくれってね。15分バージョンが日の目を見たのは数本くらいだと思うけど。その後、木曜22時30分、日曜23時と変わってきた。
——2001年に23時台から今の土曜18時台に移動したのは、大きな変化でしたよね。番組の作り方は変えたんですか?
うん。夕方の番組だから、ミュージシャンは日頃何を食べてるのかってロケもやってたんだよ。すぐやめたけどね(笑)
——時代を経て、演出面の変化や進化というのは、どのように感じていますか?
今のディレクターは、なんだかんだうまく処理をする時代になったと思う。それは言い換えると、こだわりすぎないってこと。こだわりすぎると撮り切れないから、さりげなく撮るのがうまいやつが増えてきたっていうことだよね。チーフプロデューサー兼演出になった浜崎綾は、番組を実に爽やかに商品の形にするということにおいて、抜群のセンスがあるよ。俺にはできないな。
●ユーミン、松田聖子、矢沢永吉を自らブッキング
——3月2日から9週にわたり、放送60周年3000回記念企画が展開されます。
いつもは100回区切りで2月に1日やる記念コンサートの模様を3月に放送してるんだけど、今回はコンサートを3月に2日間やることになったんで、それを3月の4週目から流すことにしたんだ。ただ、その前の3週も特別企画にするから、皆さんに「こんなことやるんだ!」って思ってもらうために、「頼む!」ってお願いして1週目はユーミンに決まった。
——2週目は、4年ぶりの松田聖子さんです。
エリック・クラプトンの来日ライブ(23年4月)に行ったら、帰りの関係者駐車場で隣に聖子の車が停まってたんだよ。そこで、「あー、石田さん!」って紹介されたのが、ライブでベースを弾いてたネイザン・イーストだった。聖子が出すアルバム(『SEIKO JAZZ 3』)をプロデュースしてて、そのリリースがちょうど2月になったんだよ。聖子は「私でいいんですか?」って言ってたんだけど、「ネイザン・イーストはこっちで呼ぶから」って口説いて、久しぶりに出ることになった。ネイザンにはクラプトンと日本に来るといつも泊まる六本木のハイアットを取って、2月20日に収録して、3日で帰っていったな。
——まさにこの収録のために来日されたんですね。そして3週目は矢沢永吉さんです。
矢沢は『リブ・ヤング!』からだから、こっちが困ってたら出てくれる。去年の12月14日に日本武道館150回公演を見に行って、終わって楽屋行ったらもう帰っていなかったんだけど(笑)、多少のことは聞いてくれるいい人なんだよ。「俺、最後だから」って言ったら出てくれることになった。
○人の琴線に触れて、感性とマッチするものが音楽
——60周年というのはまだまだ番組の通過点だと思いますが、今後への期待はいかがでしょうか。
レコードは昔に比べて売れなくなったけど、やっぱり新譜が出たら音楽番組は減ったけど情報番組でもテレビに出て、新曲をフォローするという文化がある。もちろんそれは大事なんだけど、テレビはそこに振り回されるより、「こんな人とこんな人がこんな素晴らしいショーをやってくれた!」っていうほうが、俺は大事だと思う。そして、時代が変わって音楽もどんどん変わっていろんなものが出てくるけど、やっぱりメロディラインやリズムがちゃんとしてて、ハーモニーがあって、歌詞もいい曲が残っていってほしい。面白おかしく脅かしみたいな曲もあるけど、やっぱり人の琴線に触れて、感性とうまくマッチするものが音楽だと思って俺は生きてきたから。
——その「残していく」というのは、『ミュージックフェア』のような音楽番組が果たしていく役割の一つですよね。
各局そうだったんだけど、番組が始まった60年、70年代の映像は、2インチ(テープ)がもったいないからって、収録したのがどんどん消されて上書きされて、残ってないんだよ。
——ユーミンさんの初出演の映像もないそうですね。
今回流すジュリーと歌ったのも残ってなかったんだけど、映像を持ってたアーティストから拝借してきたんだから。
——記念コンサートには、常連のアーティストからコンサート初出演の方もいらっしゃいます。
番組の出演回数ナンバーワンは森山良子で、男性は谷村新司だったんだけど、その次がさだまさしなんだよ。KinKi Kidsはコンサート初めてなんだけど、大阪だからゆかりがあって出てくれることになった。OA上の一番最後には、みんなで谷村の「昴」を歌うんだ。谷村の声も使って画も出して、「谷村、ありがとう」ってやったら笑うかなと思ってね。
——素敵なエンディングです。
俺ももうすぐ去っていくからね。
——何をおっしゃいますか。ぜひ70周年も目指して。
70周年はあるかも知れないけど俺は無理だよ、無理。
——今でも毎回収録に全部立ち会ってるんですよね。
でも、文句言わなくなったな。昔だったら「何だこの明かり!」ってすぐ言ってたけど(笑)。今はただのジジイだから。
——「ただのジジイ」が、ユーミン、松田聖子、矢沢永吉というビッグネームをブッキングできませんって(笑)
そんなの長くやってりゃできるんだよ。ただこの前、うちの港(浩一)社長とビリー・ジョエル見に行ったら、すっごいんだよ! 70歳過ぎてあんなパワフルなステージができるなんて、感心しちゃったもん。
——港さんのお名前が出たので、長年一緒に仕事をしてきた港社長になってのフジテレビはいかがですか?
すごくフットワークいい社長だから、どのセクションにも顔出すんだよ。そうやって、社員を大事にしようという気持ちが満ちあふれてるから、いいんじゃないの? かつての仕事仲間が社長だから、正月の全体会議で彼が挨拶するのを会社に来て見るんだけど、誰かが書いた原稿じゃなくて、自分の言葉で全部しゃべるんだよ。だから気持ちが伝わる。さすが、港浩一だよ。
——愛弟子が社長というのは、やはり誇らしい気持ちですか?
弟子じゃないよ、俺があいつに教わったようなもんだから。「あいつ」じゃないな、「あの人」だ。まあ、彼のもとでまたフジテレビが元気になってほしいよね。
●石田弘1943年生まれ、東京都出身。日本大学芸術学部在学中からアルバイトをしていたフジテレビジョンに67年入社。ドラマ『三匹の侍』のADからスタートし、『こんにちはふるさとさん』などのディレクターをした後、事業局でビデオ制作を担当。制作に戻り、『リブ・ヤング!』『オールナイトフジ』『夕やけニャンニャン』『とんねるずのみなさんのおかげです』『とんねるずのみなさんのおかげでした』などを手がけ、現在は『ミュージックフェア』『FNS歌謡祭』のエグゼクティブプロデューサーを務める。

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