海原かなた76歳「相方の薄い髪をフッと吹いたらドーンと笑いが」50歳で売れた男が語る〈辞めたらアカン〉の力と自らの引き際
2024年3月10日(日)10時30分 婦人公論.jp
(撮影◎中西正男)
相方・海原はるかさんの頭髪をフッと吹くネタでおなじみの漫才コンビ「海原はるか・かなた」の海原かなたさん(76)。2018年には脊柱管狭窄症の手術をし1年7ヵ月の休養の後、再び舞台に復帰しました。先が見えないトンネルの中「お医者さんがびっくりするくらい、トレーニングしてました」と語る原動力。そして、座右の銘でもある「明日を信じて」に込めた思いとは。(取材・文・撮影◎中西正男)
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前回「桂南光「天命」と言われた72歳になり、噛みしめる師匠・桂枝雀さんへの思い。今一度話せるなら伝えたい言葉とは」はこちら
手術で1年7ヵ月仕事を休むことに
寄る年波には勝てないというか、2018年に腰の手術をしたんです。病名としては脊柱管狭窄症でした。
その何年か前からね、少しずつ動きづらくなっていって、足腰に力が入りにくくなっていたんです。さらにそれが進んで立つこともしんどくなってきて、これはもう手術するしかないとなりまして。ほとんど大きな病気もしたことなかったんですけど、結果的に、この手術で1年7ヵ月仕事を休むことになりました。
漫才コンビは一蓮托生ですから。僕が止まると、相方も止まってしまう。お医者さんに聞くと、僕くらいの症状だと車いすの生活になる人も多いとのことだったんですけど、そうなるととにかく相方に申し訳ない。
手術後にできることはリハビリ、トレーニングくらいなんで、ひたすらにそれを頑張る。「負荷をかけて15回を2セット。計30回を目安にやってください」とお医者さんから言われている運動だとしたら、ゆうに100回以上はやっていたと思います。
その時の適した運動というものがあるので、ホンマはなんでもかんでもやったらいいわけではなかったんですけど(笑)、とにかく早く戻ろうと。結果、1年7ヵ月かかってしまいましたけど、なんとか漫才ができる場には戻ってこられました。
何があっても「明日を信じて」やってきた
お医者さんも「まさかここまでになるとは」と驚いてらっしゃいましたけど、僕としてはね、もう1回舞台に上がる。仕事に戻る。その思いしかなかったんです。「戻りたい」ではなく「戻る」。
そもそも、なぜそう思ったのか。思えたのか。僕らは世に出るのが本当に遅かったんです。キャリアで言うと28年目くらい、年齢で言うと50歳前後になってやっと見てもらえるようになりました。
昔はね、今よりももっと芸人が若くして世に出ていたので、周りは平均して10年以内には売れっ子になってました。
だからこそ、やっと世に出られたのにここで辞めるわけにはいかない。そして、何があっても「明日を信じて」やってきたからこそ、その「明日」が来た。その感覚があったからこそ、毎日これでもかとリハビリができたんやとも思います。
僕らがなんとか世に出られるようになったきっかけは、僕が相方の髪の毛を吹くネタができたことです。あれも、続けてきたからこそ生まれたもの。つくづくそう思います。
髪の毛を吹くネタのきっかけ
あれができたのは40歳過ぎの頃でした。楽屋で相方がいきなりカミングアウトしたことがきっかけでした。
出番の合間、楽屋で横山たかしさんとしゃべってたんです。「40歳を過ぎると、いろいろ体にもガタが来るもんやな…。ワシも胃が良くないから、すぐ胃もたれするし、薬を飲まないといけないし、年は取りたくないもんや」。そんなことをたかしさんが言ってたら、それを楽屋の端で聞いていた相方がこちらに向かって声を上げたんです。
「薬で治る胃もたれはいいけど、こっちはもうどうにもならんねん」
髪の毛をオールバックにして、大きく露出した頭皮を見せてきたんです。(笑)
いや、びっくりしました。それまで僕は相方がいわゆるハゲ隠しをしていたことを知らずに、薄毛であることも知らなかったんですけど、楽屋でのノリが盛り上がったことがそうさせたのか、自ら薄毛ボケみたいなことをやってきた。
そして、たまたまその日の漫才が夫婦げんかのネタで、その中でドライヤーが出てくる場面があったんです。さっきのやり取りが頭にあったので、僕がアドリブでドライヤーよろしく相方の髪の毛をフッと吹いた。髪の毛が舞い上がって頭皮が丸見えになる。これが、ドーンと音がするくらいウケたんです。
僕もマジで笑ってしまって笑いが止まらんくらいやったんですけど、そこからネタの中に髪の毛を吹く流れを入れるようになっていきました。
大切なのは情熱を持って続けること
それまでも、周りがどんどん売れていく中、ウチはなかなか売れ切らない。それでも、ここで辞めたら意味がない。そして、やっぱり舞台が好き。それでやってきて、この世界は運と縁が大事なことも痛感してきました。
このネタができた時に思いました。「笑いの神様がやっと武器をくださったんだ」と。この年齢までやってきて、相方も髪が薄くなったからこそ生まれたもんだと。周りが売れていく中、やっぱり舞台が好きだし、途中で投げ出したらこの世界に入れてくださった師匠の「海原お浜・小浜」に申し訳が立たない。辞めずに続けてきてよかった。純粋にそう思いました。
そして、もしこの武器を持っても売れなかったら、それは本当に運がなかったんだと。もしくは純粋に僕らの力がなかったんだと。もう一つ向こうの思いにもたどり着いた気がしました。
こんなんね、今まであんまり口にしたことはないんですけど、リハビリを頑張れたのも、40過ぎて髪の毛のネタができたのも、50歳から少しは見てもらえるようになったのも、全ては「続けたから」です。そして、口幅ったいですけど、ただ続けるのではなく、大切なのは情熱を持って続けること。それだけはサボらずにやってきたつもりです。
その結果、出てくるのが「明日を信じて」。やっぱり、この言葉なんです。
行けるところまで行ってみよう
若い頃にね、今所属している松竹芸能の前にいた事務所の社長さんから言われたことがありましてね。
「若いうちに売れて、チヤホヤされたいやろ?周りがうらやましいやろ?でも、人生そこからどれだけの時間があると思う?いったん売れて歳を取ってから落ちていくほどつらいことはない。若い時には明日がある。一生懸命に積み重ねる。そうすればどこかで花が開く。その結果、40歳、50歳で売れたら最高やで。先の計算も立てやすいし、それまでに蓄えてきたものをそのままやったらエエんやから」
今思い出しても、ホンマにその通りやと思います。だからね、他の事務所でも若い子には「辞めたらアカンで」とずっと言ってきました。
(撮影◎中西正男)
もちろん、売れるとは限らないし、辞めることに意味もあります。でも、続けていない限り、絶対に売れない。そして、続けるなら情熱を持って続ける。もし別の人生を歩むことになっても、その積み重ねはどんな人生においてもムダにはならんと思います。
今年11月で77歳になります。否応なく先のことも考えます。どんな引き際がいいのかと。まだできるうちに辞めるのも考え方だろうし、ここは美学の領域なんだと思います。
でも、幸い、ウチはまだ二人とも漫才ができている。だったら、もうちょっとやってみようか。それが今思っているリアルなことでもあります。そして、みんなにずっと言ってきた「辞めたらアカン」の言葉が、今は自分の背中を押しているような気もしています。
無理やりカッコつけるわけではないですけど(笑)、なんとか、行けるところまで行ってみよう。そう思っています。
■海原かなた(うなばら・かなた)
1947年11月12日生まれ。奈良県出身。本名・西尾伊三男。松竹芸能所属。68年、俳優養成所「明蝶芸術学院」に入学。70年に「明蝶—」で知り合ったはるかから誘われ「海原お浜・小浜」門下に入り「海原はるか・かなた」を結成。若手時代はアイドル漫才師的な扱いを受けるも、賞レースで結果を残せない時期を過ごす。2000年頃、楽屋での芸人同士の会話の中ではるかが薄毛だったことが話題になり、それをかなたがネタの中でいじったことがきっかけで髪を吹くムーブが出来上がっていく。
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