追悼・鳥山明さん。「国民的マンガ家を他社のプロジェクトに関わらせる」のは担当編集者が最も嫌がってもおかしくなかったのに…国民的ゲーム『ドラクエ』が生まれた背景

2024年3月11日(月)11時25分 婦人公論.jp


渡辺さん「ドラクエは、その製作段階から不思議なほど外部のクリエイターとの縁に恵まれていました」(写真:婦人公論jp編集部)

「Dr.スランプ」「ドラゴンボール」などの作品で知られる、漫画家の鳥山明さんが3月1日に急逝しました。68歳。世界的人気を誇る巨匠の死に悲しみの声があふれています。ご冥福をお祈りするとともに、鳥山さんが国民的ゲーム『ドラゴンクエスト』と関わることになった背景について、ゲームデザイナー兼プロデューサーとして活躍中の渡辺範明さんが記した記事を再配信いたします。
*****『ドラゴンクエスト』と『ファイナルファンタジー』シリーズは「国民的ゲーム」として、日本のカルチャーに大きな影響を与えています。渡辺さんいわく「ドラクエは、その製作段階から不思議なほど外部のクリエイターとの縁に恵まれていた」そうで——。

* * * * * * *

『ポートピア連続殺人事件』の発売


エニックスが自社から販売できるゲームソフトを求めて開催したゲーム・ホビープログラムコンテストは、結果的に20本以上の新作ゲームをエニックスにもたらし、そのなかには『ドアドア』をはじめとするいくつかのヒット作にも恵まれましたが、むしろそのクリエイターたちとの出会いの方が、はるかに大きな鉱脈だったといえるでしょう。

ドラクエシリーズの初代プロデューサー千田幸信*1さんは、この出会いを活かし、堀井雄二と中村光一という次世代スター2人にタッグを組ませて新作ファミコンソフトを発売しました。それが、1983年の『ポートピア連続殺人事件』です。

この『ポートピア連続殺人事件』は、堀井さんがもともとパソコン用ソフトとして制作済みだったものを中村さんのプログラミングでファミコン用に移植したもので、完全新作ではありません。

しかし、このゲームの発売にも、「後にファミコンでRPGを出したい」という堀井さん、中村さん、千田さんの戦略がありました。

ゲーム・ホビープログラムコンテストの開催はアメリカでの『ウルティマ』『ウィザードリィ』発売の翌年であり、それぞれにパソコンフリークでもあった堀井さんと中村さんは、出会った時点ですでにこの新しいゲームジャンルに魅了されており「RPGの魅力を日本でも広めたい!」ということで意気投合したようです。

その2人をバックアップするかたちで、エニックス千田プロデューサーがプロジェクト化に踏み切りました。

RPGへの準備


ところが当時、ファミコンの主な顧客であった子供たちは、ほぼ『マリオブラザーズ』のようなアクションゲームか、『ゼビウス*2』のようなシューティングゲームしか遊んだことがありませんでした。

そういった「動的」なゲームだけが認知されている状況で、RPGのようにまったくアクション性のない「静的」なゲームの面白さを理解してもらうのは難しい時代でした。


『国産RPGクロニクル ゲームはどう物語を描いてきたのか』(著:渡辺範明/イースト・プレス)

RPGとはいわば、文章を読んで謎を解き、物語を前進させていくアドベンチャーゲームの要素と、攻撃力や防御力といったパラメータのやりとりで戦闘を表現するシミュレーションゲームの要素が組み合わさったジャンルです。

この馴染みの薄い2つの要素を同時に押し付けてしまうと、子供たちに面白さが伝わらないのではないか? という懸念がありました。

そのため、まずは画面上の文字を読み、情報を整理しながら「コマンド(行動の選択肢)」を選んでお話を進めていくというゲーム形式に慣れてもらいたいという狙いもあって、ファミコン版『ポートピア連続殺人事件』を発売したわけです。

これは一見まわり道のようで、非常にクレバーな戦略でした。

すぎやまこういちからのハガキ


彼らがそのクレバーなまわり道をしていたころ、他にも奇跡的な出会いが続きました。

コンテストでも活躍した森田和郎さんがエニックスから発売した将棋ゲーム『森田和郎の将棋』の商品アンケートハガキで「すぎやまこういち*3」という差出人名の一通が届いたのです。

すぎやまこういちさんは、この時点ですでにザ・ピーナッツ、ザ・タイガースといった有名ミュージシャンを何組も世に送り出し、「亜麻色の髪の乙女」などヒット曲を多数かかえた有名作曲家でした。

まさかそんな大御所がPCゲームのアンケートハガキを? とエニックス社員たちも困惑したようですが、結果的にこのハガキはまぎれもなく当人が送ったものであり、すぎやまさんは大のゲーム好きだったということが判明したのです。

今では大御所有名人でゲーム好きな方は加山雄三さん、鈴木史朗*4さんをはじめ何人もいらっしゃいますが、当時の感覚としては非常に珍しいことでした。

千田プロデューサーはこの縁を活かしたいと考え、すぎやまこういちさんにドラクエの音楽を依頼することになります。

まだ出来立てホヤホヤの新興メディアであり、世間からは低く見られがちだったテレビゲームの音楽をすぎやまこういちさんが担当したことは、その後、テレビゲームの文化的地位を向上させていくひとつの要因にもなりました。

異端の編集者、鳥嶋和彦


これに加えて大きく関わるのが、当時の「ジャンプ」における鳥山明さんの担当編集者であり、『Dr.スランプ』に登場する悪役キャラ「Dr.マシリト」のモデルとしても知られる鳥嶋和彦さんです。

ライターとしての堀井さんにジャンプの読者ページやゲームの紹介ページを依頼していたのも鳥嶋さんであり、一種の「マンガ至上主義」に貫かれていた当時のジャンプ編集部のなかで、「マンガよりゲームの方が好き」といってはばからなかった鳥嶋さんの存在は非常に異端でした。

堀井さんとのつながりから『ドラクエ』の企画を聞きつけた鳥嶋さんは「本気でRPGをメジャーに売っていくつもりなら、最初からジャンプと組んで企画を進めよう」と持ち掛けました。

これによって、『ドラクエ』は発売前からその開発過程を「ジャンプ」誌上でレポートされ、さらにキャラクターデザインとパッケージイラストを鳥山明さんが担当することが可能になったわけです。

当時すでに『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』で立て続けにヒットを飛ばし、誰もが知る国民的マンガ家であった鳥山明さんをこのように他社のプロジェクトに関わらせることは、普通であれば担当編集者がもっとも嫌がってもおかしくないことです。

それをむしろ積極的に進めていった鳥嶋さんの先見の明が、鳥山明さんにもうひとつの代表作「ドラゴンクエスト」をもたらしたといえるでしょう。

このように、ドラクエは、その製作段階から不思議なほど外部のクリエイターとの縁に恵まれていました。

*1 千田幸信:岩手県出身。福嶋康博が立ち上げた東芝のオフコン販売代理店(MCB)に入社し、一度は退職。その縁からエニックス設立に参画して取締役となった。ちなみに漫画家の吉田戦車は親戚である。

*2 ゼビウス:1983年から稼働したアーケードゲーム。空中と地上の撃ち分けや美しいグラフィック、SF的な世界観が大ブームに。ファンの同人誌『ゼビウス1000万点への解法』はゲーム攻略本の原点である。

*3 すぎやまこういち:東京都出身。フジテレビ在籍時には「ザ・ヒットパレード」等を担当しつつCMも作曲。退社後にはザ・タイガースの楽曲やアニメ・特撮の音楽を手がけ、活動範囲はケタ外れ。2021年に90歳で没。

*4 鈴木史朗:1938年生のフリーアナウンサー。筋金入りのゲーマーで、テレビで『バイオハザード4』(当時69歳)をプレイした際に「手榴弾で一応ぶっ殺しときます」といいつつ高スコアを叩き出していた。

※本稿は、『国産RPGクロニクル ゲームはどう物語を描いてきたのか』(イースト・プレス)の一部を再編集したものです。

婦人公論.jp

「ゲーム」をもっと詳しく

「ゲーム」のニュース

「ゲーム」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ