なぜ武田信玄と上杉謙信の川中島の戦いは「五回」で終わったのか?激戦「第四次」を制したのは結局どっち?本郷和人先生と現地を歩いて分かった真実

2024年3月15日(金)17時30分 婦人公論.jp


いざ信玄と謙信、激突の地へ!(写真:婦人公論.jp編集部)

東京大学・本郷和人先生に連載いただいている『婦人公論.jp』では、そこで生まれた先生とのご縁をきっかけに「日本史ツアー」を開催しております。初回の「徳川」に続く、第2弾のテーマはズバリ「武田」。一泊二日で信玄ゆかりの地を巡り、最終目的地として甲斐武田終焉の地・景徳院に向かいました。そこで本記事では、参加者が味わった臨場感と知的興奮を読者の皆さんにおすそ分けしたいと思います。初回は「川中島・諏訪大社」です。

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「武田」ゆかりの地へ


ツアー第2弾のスタートは新宿駅。あずさに乗って松本駅へと向かいます。

松本駅からはさらにバスへと乗り換えて一路、川中島へ。楽しいおしゃべりを交えながら、バスの中では先生お手製の資料をもとに、事前の解説をいただきました。


まずはキヨスクで旅のお供を入手(写真:婦人公論.jp編集部)

解説をふまえて整理すると、「川中島の戦い」は、信濃国(現在の長野県)南部や中部を制圧した甲斐国の戦国大名・武田信玄(晴信)が北信濃まで侵攻し、そこで越後国(現在の新潟県)の上杉謙信(長尾景虎)と行った戦いのことを指します。

主な戦闘は五回。1553年から1564年にかけて行われたとされますが、一般的には最大の激戦だった永禄4年(1561年)の第四次合戦を「川中島の戦い」と言い表すことが多いようです。

解説に加えて、先生からは「なぜ場所が川中島だったのか。激戦の四次を制したのは信玄と謙信のどちらだったのか。そしてなぜ五回で終わったのか、というナゾについて、現場を歩きながら考えてみてください」との宿題も。

なぜ川中島だったのか


一通りお話をいただいたところで、バスは長野市の川中島古戦場史跡公園に到着いたしました。

公園には武田信玄が本陣を築いたとされる八幡社が鎮座。境内には首塚や三太刀七太刀之跡などもあり、往時をしのぶことができるようになっています。


川中島古戦場史跡公園(写真:婦人公論.jp編集部)

また第四次「川中島の戦い」で両軍がどういった布陣だったのか、という解説の看板や、あまりに有名な信玄・謙信一騎討ちの像も。

周囲を散策するだけでも、信玄・謙信ファンにはたまらない施設になっています。

像の前に立った先生は、あらためて解説を始められました。まず一つ目のポイント、なぜ川中島だったのか、ということ。

そもそも川中島とは、犀川が千曲川へ合流する地点から広がる土地で、古来から交通の要であった。また、有名な仏教寺院・善光寺が控えるなど、信仰的な意味でも価値が高く、武田・上杉双方にとって抑えたい要所となっていた。

それらの結果として、この周辺で戦いを重ねることになったようです。

第4次の戦いで勝ったのは武田か上杉か


そうした背景を踏まえ、激戦「第四次」の戦いについての解説が続きます。


ツアー参加者の前で解説する先生。いわく「ぼく自身は謙信派」(写真:婦人公論.jp編集部)

一般的には、2万の兵を率いる武田信玄が、山本勘助らの「啄木鳥戦法」を取り入れて軍を二つに分けた。しかし、それを見抜いていた上杉謙信から逆に突かれることになり、上杉軍の「車懸りの陣」で窮地に陥った、という話がよく知られています。

しかしその話にどこまで信ぴょう性があるのか。軍略の実現性や、両軍が実際に動かせた兵数をあらためて石高から算出するなど、実態に即しての検証がなされました。

また「両軍が勝利を主張している」という「第四次」の勝敗について、進軍してきたのはあくまで上杉軍で、迎え撃った武田軍は多くの武将や兵を失ったものの、北信濃の地をしっかり抑えた。その意味で、客観的に見て勝ったのは武田では、という見解でした。

なぜ五回で終わったのか


さらに解説は「なぜ五回で終わったのか?」というテーマへ。そこで終わった理由を考えるには、単純に武田・上杉の事情以上に、時代背景が重要になるそう。

あらためて考えると、四次が行われたのは1561年、そして五次は1564年。実はこの直前のタイミングに、世の中がひっくり返る出来事が起きています。それが1560年の「桶狭間の戦い」です。

織田信長と今川義元の間で行われた有名な合戦ですが、結果もご存じの通り、信長が義元を討ち取るというジャイアントキリングが果たされました。

今川・北条と同盟を組んでいた信玄にとってその影響はもちろん大きく、同盟関係が終了した結果として、信玄は今川の地へ進攻。駿河をその手におさめます。

内陸に領土を持つ武田信玄にとって、塩が取れ、貿易の拠点となる海辺の地を手に入れるのは念願でした。一方で太平洋側に進出できた分、日本海側の重要度は下がり、戦いのリスクと、得られるメリットを天秤にかけて戦いを止めたのでは、というのが先生のご見解でした。

明日は勝頼が進んだ道をたどります


途中、親子で参加していた小学生のお子さんからは「武田軍勝利」を聞いてのガッツポーズも。

その後「あの逸話はどうなのか」「もしこうなっていたらどうだったのか」といった質疑応答や、像の前での撮影会などを終え、ツアーは次の目的地・諏訪大社本宮へ。


一行は諏訪大社へ(写真:婦人公論.jp編集部)

信仰にあつかった武田信玄は、諏訪大社の諏訪大明神を軍神として信奉していたとされます。その一方で、父・信虎が同盟を結んでいた諏訪氏を滅ぼしたその背景だったり、諏訪頼重の娘との間に産まれた勝頼がなぜ後継者になったのか、といった説明がバスや大社でなされました。

さらには先生が監修を務め、今年からアニメがスタートする『逃げ上手の若君』に登場する諏訪頼重と諏訪大社の関係など、先生ならではのこぼれ話を交えながら、和やかにツアー初日を終えました。


ツアーバス「風林火山号」で宿泊地の甲府市へ向かいます。おつかれさまでした(写真:婦人公論.jp編集部)

明日は甲府市の武田神社から始まり、新府城や景徳院など、武田勝頼の歩んだ道をたどります。

初回:徳川ツアー「桶狭間」はこちら

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