平原綾香 19歳のデビュー曲で「Jupiter」を選んだ理由「子どもたちの平和を祈る気持ちは、亡き父から受け継いで」

2024年3月18日(月)12時30分 婦人公論.jp


「私も立ち上がって何か役に立つことをしよう——。その時強く思ったのが基金設立のきっかけです」(写真提供:平原綾香さん 以下すべて)

19歳で「Jupiter」を発表し、2023年12月でデビュー20周年を迎えた歌手の平原綾香さん。音楽活動だけでなくミュージカルの出演など多方面で活躍する中、2015年には「平原綾香 Jupiter 基金」を設立し、以降開催しているチャリティーコンサートは今年で8回目となります。音楽活動の根源や歌に込める思いを伺いました(構成◎上田恵子)

* * * * * * *

子どもの頃から音楽がごく身近に


わが家は父(サックス奏者の平原まこと)の影響で、子どもの頃から音楽がごく身近にありました。——と言うとよく、英才教育だと思われがちなのですが、実際は真逆。姉(シンガーソングライターのAIKA)も私も音楽の道に進みなさいと言われたことさえありませんでした。また、クラシックのカバーでデビューすると、クラシック音楽の家系だと思われるのですが、祖父がジャズトランペッターでもあり、元々はジャズ家系なんです。昔から“お笑い家族”で、誰が皆を一番笑わせられるか、常に競っているような家族でした。

両親は共に忙しいはずなのに、家族との時間を大切にして、いつもいろんな所に連れて行ってくれました。月に1度のペースでキャンプに行ったり、車でどこかに行く時も歌のワンフレーズをみんなでハモるゲームをしたりして、とても楽しい子供時代を過ごしました。

父はジャズ、ポップス、ロック、演歌、童謡など、あらゆるジャンルの音楽に携わっていたサックス奏者だったので、家には父の参加作品のCDがジャンルを問わずたくさんありました。ソロ活動に加え、スタジオミュージシャンとしての仕事も多く、安全地帯さだまさしさんなど多数のアーティストの楽曲やドラマ・映画の劇伴に呼ばれ、多い時は年間1000曲を超えるレコーディングに参加していました。またNHKの紅白歌合戦では歌手の方の指名でソリストとしてサックスを吹いたり、毎年レコード大賞でサックスセクションを務めたりと、たくさんのアーティストの方々に愛されるミュージシャンでした。

私が音楽の道に進んだのは、間違いなく父の影響です。もしも父がサックスをやっていなかったら私は何をしていたでしょう……? 動物が好きなので、ドックトレーナーを目指していたかもしれません。


平原まことさん


「Jupiter」原曲との出会い


デビューのきっかけは、高校時代の文化祭です。映画『天使にラブソングを2』のミュージカルで歌った映像がレコード会社に渡り、それまでサックスを吹いていた私が、歌手の道を歩むことに。音大在学中の19歳の時に、「Jupiter」でデビューしました。

なぜデビュー曲が「Jupiter」になったのか。曲を決める時期、私にはその時どうしても伝えたいメッセージがあったのです。

それは、2001年に起きた9.11事件のこと、あるひとりの少女の生き方、その当時自分が抱えていた心の中にある葛藤でした。

ニューヨークは私にとって初めての海外。当時、姉がボストンのバークリー音楽大学に通っており、両親と3人で会いに行った際に立ち寄りました。その約2年後に9.11事件が起こります。ニュースでみた、思い出の貿易センタービルがなくなってゆく光景……。月日が経っても心に焼きついて離れず、いまだ世界中が混とんとする中でデビューすることになった私は、人々の心が少しでもあったかくなるような歌を歌いたいと思うようになりました。

当時、抱えていた心の葛藤を母に相談したことがあったのですが、その時に教えられた「ありのままであること」へのメッセージは、私の人生を大きく変えました。「この思いを歌詞にしてみたら」と背中を押され、それから私は無心で歌詞を書き始めました。2003年4月に放送された、難病を抱えた少女アシュリー・ヘギちゃんのドキュメンタリーは、さらに私の背中を押してくれたように思います。

この思いを表現できる曲は、どんな曲だろう。最初は自分で作曲をし、模索する時間が続きました。一方で、レコード会社からはデビュー曲候補としてラブソングの提案もありましたね。

そんな中、ジャズ科のサックス専攻で入学した音大の授業でホルストの組曲『惑星』の「木星」に出会います。聴いた瞬間、涙がブワッとあふれ、ずっと探していた人に会えたような懐かしい気持ちになりました。この思いを、この曲にのせて伝えられると感じ、授業が終わって直ぐ「木星に歌詞をつけてカバーさせてもらえないか」とレコード会社に電話したのが始まりです。

デビュー決定後の多忙な日々


デビュー当時は、自分の声がどこまで出るのかすら知りませんでした。レコーディングやコンサートツアーなど、突然喉を酷使する生活に変わり、身体がビックリしたのでしょう。デビューして2年ほどは、毎日風邪を引いているような状態でした。歌は独学なので、自分で研究する楽しさを今も感じています。

学校と音楽活動の両立でとにかく忙しかったので、どうしても減ってしまう睡眠時間を、移動中の車だけでなく、寝ながらメイクをしてもらって補っていました。

楽屋が畳の場合は、そのまま横になった状態でメイクしてもらいます。ソファで寝ながらメイクや、時にはパイプ椅子を並べて簡易ベットを作ることも。コンサートツアーでは、いつもマッサージベットを持ち歩いて寝ています。一見やりにくそうに見えますが、メイクさんいわく、横になることで顔に均等に光が当たってメイクしやすくなるのだとか。とはいえ、メイクさんの素晴らしい技術の成せる技です。デビュー以来、今日に至るまでずっと、睡眠不足の日は、このやり方でメイクをしてもらっています。


だったらずっと悲しいままでいい


歌に悩んだ時は父に相談していました。「こういう声を出したいんだけど、どうすればいいかな?」と聞くと、「サックスで吹くとしたら、息のスピードはこれくらいで、息の方向はこれくらいだと出るから、そんなイメージで歌ってみたら?」と。その通りにすると、本当に歌えるようになりびっくりしました。

また、サックスで吹けないフレーズがあったときは、「まずは楽器をおいて歌ってごらん」と。実際に歌ってみると最初は歌えなくて、歌えるようになるまで練習し、それからサックスで吹いてみると、不思議とちゃんと吹けるようになるんです。

父は、2021年に亡くなりました。69歳でした。もう三回忌も済んだのに、父がいなくなったことがまだ信じられず、今もふとした時に泣いてしまいます。

その一方で、これまで「悲しい」という感情はマイナスなものだと思っていたのですが、今は父を思い出して悲しくなるのは悪いことではない、と考えられるように。悲しいのは、父を忘れていないということ。だったらずっと悲しいままでいいや、と思うようになりました。


「私が大黒柱になって家族を守らなきゃ!」


父が出演するはずだったコンサートのステージに立った時、「父が隣にいるような気がする」みたいなことが起こるのかなと、ちょっと期待していたのですが、実際、父はどこにもいませんでした。

ところが歌い始めた瞬間、びっくりしました。父は自分の中にいたんです。声が勝手に出るような感覚で、今まで出なかった声が出たり、自分の声から父のソプラノサックスが聞こえたり。自分の細胞ひとつ1つに父が宿っているような気がしました。

他にも、父を受け継いだと思う瞬間があります。父は食欲旺盛な人で、食事中家族が食べきれない時は代わりに食べてくれたのですが、父が亡くなってからは、私がその役目を担うように。(笑)

今までは硬くて開けられずにいたビンの蓋も、自分で開けられるようになったり、かなり重いソファーも持ち上げられるようになったり。きっと、自分でも気づかないうちに「私が大黒柱になって家族を守らなきゃ!」と強がっているのかもしれません。


もっとも困っている人にエールを届ける


今年3月、東京国際フォーラムにて「第8回平原綾香Jupiter基金MyBestFriendsConcert〜顔晴れ[がんばれ]こどもたち〜withOrchestra」と銘打ったコンサートを開催します。これは2015年に「その時もっとも困っている人にエールを届けたい」という思いからスタートさせたもので、今年で8回目を迎えます。

私は2003年のデビュー以来、さまざまなチャリティーコンサートにお声がけいただきました。参加するうちに、私も「日本や世界で役に立つ基金を自身で立ち上げたい」と、いつしかそんな夢を描くように。

2004年に新潟県中越地震が起きた時、デビューしたばかりの私は、歌うことしか出来ないもどかしさを抱えていました。「音楽で何ができるのだろう。私は何のために歌うか。私の歌を聴いてくださる方はいるのだろうか」と自分に問いかける日々の中で、避難所からラジオ局にたくさんの「Jupiter」のリクエストが来ていることを知って。歌うことへの意味を教えてくれたのは、被災された方々でした。

2011年3月の東日本大震災でも、家や仕事、大切な人を失った深い悲しみや苦しみに触れました。私も立ち上がって何か役に立つことをしよう——。その時強く思ったのが基金設立のきっかけです。

「平原綾香Jupiter基⾦」の存在を知り、取材に来てくださるメディアも年々増えています。基金のためにたくさんのテレビ局や取材の方々が来てくださったことが嬉しくて、思わず泣いてしまったこともありました。今日もこうして取材していただき、本当に嬉しく思っています。

令和6年能登半島地震の被災地医療に


このコンサートの雰囲気が、思い出すだけで泣いてしまうくらいあたたかいんです。観に来てくださる皆さんも、誇り高い表情をしていらっしゃるように見えて、毎回ステージで歌いながら、「本当にありがとうございます」という気持ちでいっぱいになります。

父は生前、自ら募金箱を持って会場のロビーに立ってくれました。すると、父のファンの方々が「あっ、まことさんだ!握手してください!」と集まり、募金をするために長い長い列が出来たのです。お客様のあったかさに感動し、父も泣いていました。ひとり1人に握手をする父の姿を思い出します。

8回目の開催となる今回は、認定NPO法人「ジャパンハート」を通じ、令和6年能登半島地震の被災地で今も多くの避難者が身を寄せる避難所での診療所運営と遠隔地への巡回診療などで、被災地医療支援を行う支援金として寄付させていただきます。

コンサートに来てくださることが寄付につながりますので、ぜひ読者の皆さんも足を運んでいただき、音楽を楽しみに来てくださったら嬉しいです。

子どもと一緒に楽しめるツアーを計画中


現在、夢のひとつとして、子どもと一緒に楽しめる「SHOUT&CRY」ツアーを計画しています。これは、客席で赤ちゃんが泣いても叫んでもOK!というコンサート。もちろん、子連れじゃなくても聴いていただけます。

私の同級生はほとんど結婚しているのですが、いつもコンサートに来てくれていた友達も、子どもが生まれると来れなくなってしまい……。子どもを預けて観に来たとしても、やっぱり気になると言っていました。私はまだ独身で子どももいないですが、気持ちはなんとなく分かるので、ならばそういう場を作ろうと思い立ちました。

私も、幼い頃に観たコンサートが、今でもかけがえのない宝物の思い出になっているので、もっともっとたくさんの子どもたちに音楽を届けたいです。この「SHOUT&CRY」ツアーの夢が叶ったら、ぜひ参加していただけたらと思います。

昨年は歌手デビュー20周年を迎え、今年はミュージカルデビュー10周年を迎えます。夏には『ムーラン・ルージュ!ザ・ミュージカル』への出演も控えていますので、バキバキに鍛えて、力持ちのサティーンを目指したいと思っています。(笑)

いつか結婚もしたいですが、なんの予定もありません(笑)。父は仕事で美味しいものを食べると、「家族にも食べさせたい!」と、すぐに私たちを車に乗せて同じ店に連れて行ってくれるような人でした。家族を大事にしてくれる人がいいですね。


平原綾香さん(左)、さだまさしさん(右)

婦人公論.jp

「平原綾香」をもっと詳しく

「平原綾香」のニュース

「平原綾香」のニュース

トピックス

x
BIGLOBE
トップへ