「信玄は偉大で勝頼は凡庸」との評価は正しい?なぜ二人は「甲斐」に拠点を置き続けた?新府城に景徳院。甲斐武田終焉の地を本郷和人先生と歩いて見えてきたもの
2024年3月19日(火)12時30分 婦人公論.jp
新府城へ続く険しい階段(写真:婦人公論.jp編集部)
東京大学・本郷和人先生に連載いただいている『婦人公論.jp』では、先生とのご縁をきっかけに「日本史ツアー」を開催しています。初回「徳川」に続く第2弾のテーマはズバリ「武田」。一泊二日でゆかりの地を巡り、最終目的地として甲斐武田終焉の地・景徳院に向かいました。そこで本記事では、参加者が味わった臨場感と知的興奮を読者の皆さんにおすそ分けしたいと思います。第三回は「新府城・景徳院」編です。
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新府城へ
「日本史ツアー」2日目。後半は信玄の後継者・勝頼の歩みに沿ってツアーは進んでいきます。
バスはまず、韮崎市の新府城跡へ向かいました。
新府城は、躑躅ヶ崎館では敵を防ぎきれないと判断した勝頼が、短期間で築いたとされる新しい拠点です。険しい七里岩と呼ばれる岩盤の上に立地しているうえ、周辺には沢が入り混むなど、かなりの要害地にあります。
のぼってものぼっても階段は続く(写真:婦人公論.jp編集部)
馬出し・三日月堀などの迎撃設備が設けられるなど、技巧的な平山城だったとされますが、織田軍らに領地へ攻め込まれて配下の武将が離反した結果、たった数か月で放棄されたという、悲運の城でもあります。
バスを停めて、降りた先で待っていたのは、険しい斜面に作られた長い長い階段。下からは頂上が見えません…。
先生も一緒に階段を進みます(写真:婦人公論.jp編集部)
ようやく階段を登ったころには息も絶え絶え。その防御力の高さを自らのカラダで思い知ることになりました。
馬出に圧倒される
ぜえぜえ言いながら辿り着いた本丸跡には神社がありました。
新府城本丸跡(写真:婦人公論.jp編集部)
周辺を散策しながら「またあの険しい階段を下って戻るのか…」と途方に暮れていると、参加者の一人から「向こうにもっとゆるい散策道がある」との救いの声が!
そちらがおそらく本来の登城道だったようですが、実際に歩くと緩やかながら複雑に曲がっており、城のありようをよく伝えてくれました。
さらにずんずん先へ進むと、なんと再現された立派な馬出が!
新府城に再現された馬出。かなりの規模!(写真:婦人公論.jp編集部)
実はこの馬出、ツアーの行程から抜け落ちていたのですが、ここまで来て見逃すのはあまりにもったいない規模のもの。そこからは雄大な甲府の景色に加え、富士山を拝むことも。
この城に入ったころの勝頼公は、すでに追い込まれていたのかもしれません。でも同時にここからの景色を見て、この国を守りたいという決意をあらたにしていたはず。
実際に現場に来たからこそ、そしてツアー参加者の皆さんと一緒に歩いたからこそ出会えた景色に、心から感動しました。
そして終焉の地・景徳院へ
そしてツアー最後に訪問したのが、甲州市にある景徳院です。
あらためて先生の解説を整理すれば、織田軍から猛攻を受けた勝頼は新府城を捨てることになり、重臣の小山田信茂を頼って落ちのびます。
しかし信茂はここに至るまでに反目。勝頼らは真田昌幸の岩櫃城を目指すも、織田軍によって補足。正室・北条夫人や子・信勝とともにこの地で自刃し、甲斐武田は滅亡することに。
ツアーはいよいよ最終目的地、景徳院へ(写真:婦人公論.jp編集部)
なお、新府城から景徳院までの距離は50キロほどあるでしょうか。バスを使ってもなかなかの移動時間を要したうえ、景徳院がなかなかの山中にあることを鑑みるに、なんとしてでも生き延びようとした、勝頼らの強い意志を感じた気がします。
景徳院に到着するころには、やや陽が落ちていたこともあったのでしょうが、あたりはひんやりした空気に包まれていました。
山門をくぐって中に進んでいくと、寺院の裏手に立派な墓石が。写真手前から信勝、真ん中が勝頼、奥が北条夫人の墓でした。
手前から信勝、真ん中が勝頼、奥が北条夫人の墓(写真:婦人公論.jp編集部)
信玄と勝頼の違い
参加者からの「なぜ終焉がこの地になったのか?」という質問に対し、先生は武田の菩提寺である天目山栖雲寺が近くにあったからでは、とおっしゃっていました。
かつて幕府から追討された信玄と勝頼の祖先・13代当主の武田信満も、実はこの天目山で自害。その栖雲寺に葬られているそうです。
また小山田信茂は裏切り者として悪名高いけれど、もともと甲斐は穴山や小山田ら領主が強い力を持っていた国で、状況を考えれば、武田を切り捨てても決しておかしくはない、といった説明もありました。「もし岩櫃城までたどり着けたとしても、あの真田昌幸が本当に受け入れたかな…」とも。
三人の遺骸を葬ったとされる地蔵尊。参加された方々がみな自然に手を合わせていたのが印象的でした(写真:婦人公論.jp編集部)
墓の周囲には三人が自刃したとされるそれぞれの生害石、さらに三人の遺骸を葬ったとされる地蔵尊なども。なお信勝は当時16歳。北条氏康の娘でもあった北条夫人は、まだ19歳だったと言われています。
甲斐武田家の繁栄から、終焉まで見届けた我々一行。各所ではみな、自然と手を合わせていました。
ここで先生からツアー全体の総括がなされました。
「領地をどんどん広げていた武田であれば、より石高が高かったり、戦いやすい拠点に移ることも可能だったはず。でもしなかった。それは信玄堤に象徴されるように、彼らがこの地や領民を愛していたことの表れのような気がします」
景徳院の静寂な森を前に、旅を総括する先生(写真:婦人公論.jp編集部)
さらに先生は続けます。
「信玄は偉大だけど、凡庸な勝頼が武田を滅ぼした、といった言われ方をしがち。でも、はたしてそうなのか。その足跡をたどって、あらためて二人の評価の差は、ちょっとした積み重ねの違いに過ぎないと感じました。所詮人ひとりは、ちっぽけな存在です。現代を生きる私たちは、ちっぽけ、ということを自覚しながら、ニコニコと楽しく毎日を送れたら、それでいいんじゃないかな」
以上「武田」をテーマとした今回の旅も、学びが多いものになりました。
帰宅後にホッと一息つきながら食す信玄餅の美味しさに、あらためて現代に生きる幸せを感じたり(写真:婦人公論.jp編集部)
参加された方々と関係者のみなさん、そして先生、本当にお疲れさまでした。また楽しい旅をご一緒させていただく日を心より楽しみにしております。
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