朝ドラ『ブギウギ』最終回では、梅丸少女歌劇団の皆も駆けつけて。モデル・笠置シヅ子が松竹楽劇部生徒養成所に入所し、初舞台に立つまでを振り返る
2024年3月29日(金)12時30分 婦人公論.jp
佐藤さん「静子は毎日、毎日、松竹座の楽屋口へ通い詰めた」(写真提供:Photo AC)
最終回を迎えた朝ドラ『ブギウギ』。引退宣言をしたスズ子のさよならコンサートに、古巣の梅丸歌劇団(USK)からも多くの仲間が駆けつけ、客席で声援を送りました。今回は、モデルである笠置シヅ子が、松竹楽劇部生徒養成所に入所したときを振り返った、2023年10月30日の記事を再配信します。
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10月2日から放送が始まったNHK朝の連続テレビ小説『ブギウギ』。その主人公のモデルである昭和の大スター・笠置シヅ子について、「歌が大好きな風呂屋の少女は、やがて<ブギの女王>として一世を風靡していく」と語るのは、娯楽映画研究家でオトナの歌謡曲プロデューサーの佐藤利明さん。佐藤さんは「静子は毎日、毎日、松竹座の楽屋口へ通い詰めた」と言っていて——。
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宝塚歌劇音楽学校を受験
1927(昭和2)年、小学校を卒業した静子は、近所の人や母の勧めもあって、宝塚歌劇音楽学校を受験した。一人、梅田から阪急電車に乗って宝塚新温泉にある宝塚音楽歌劇学校へ向かった。
黒地に臙脂(えんじ)色の花模様の大人びた着物姿の小柄な女の子は、他の受験生の少女らしい華やかさから、浮き上がった感じだった。学校の成績も良く、利発な静子は、一般常識の問題や口頭試問も難なく突破。
家族からも「あんたはきっと大丈夫や」と太鼓判を押され、自信があった静子だが、最後の体格審査で不合格となってしまった。
腹立たしさと悲しさがないまぜとなり、負けん気の強い静子は、家族には「落第した」とは言わずに「うち、あんなとこ、好かんさかいやめてきてしもた」と気丈なところを見せた。
かねてから、大阪の花街である南地の芸妓屋・中村屋からの奉公の話が来ており、芸妓になるのは気が進まなかった静子は「道頓堀の松竹楽劇部に入ろうと思ってるのや」と、帰りに願書を出してきたと、手回しの早いところを見せた。
松竹座の楽屋口へ通い詰めた
ところが「願書を出してきた」は咄嗟についた嘘だった。しかもその時は生徒を募集していなかった。度胸千両の静子は、伝もないまま松竹座の楽屋口へ向かった。楽劇部の事務員に、楽劇部に入りたい旨を話すと、当然のことながらケンもホロロ。追い返されてしまった。
しかし、このままでは芸妓屋に奉公しなければならない。なんとかせねばと、静子は毎日、毎日、松竹座の楽屋口へ通い詰めた。
数日後、静子の熱意、パワーに気圧された楽劇部の事務員は、奥の事務室に静子を案内した。そこには、痩身の中年紳士がいて、静子の話を聞いてくれた。その紳士は松竹楽劇部の音楽部長・松本四郎(四良)だった。
「わては宝塚でハネられたのが残念だんね。こうなったら意地でも道頓堀で一人前になってなんぼ身体がちっちょうても、芸に変わりはないところを見せてやろう思いまんね」と静子は思いの丈をぶちまけた。
松本部長は呆れ気味に、静子を見つめて「よう喋るおなごやな、そんなに喋れるのやったら、身体もそう悪いことないやろ。よっしゃ、明日から来てみなはれ」とその場で松竹楽劇部生徒養成所への入所が決まった。
5年間部屋子を務める
松竹が白亜のムービー・パレス、道頓堀松竹座開業を前に、松竹楽劇部を創設したのは、1922(大正11)年4月だった。もちろん宝塚歌劇団に対抗してのことである。
12月の中之島公会堂でのダンス披露、翌年2月の京都南座でのテスト上演を経て、1923(大正12)年5月、松竹座専属として「アルルの女」を上演した。
静子が入部した1927年9月に宝塚歌劇団が上演した、日本初のレビュー「モン・パリ 〜吾が巴里よ!〜」は、宝塚のオーナーである小林一三の命を受けて欧州を視察した劇作家・岸田辰彌が体感したパリや欧州の風景を再現。のちに「レビューの父」と謳われる白井鐵造が振付を手がけた。
この「モン・パリ」は日本で初めて「レビュー」という言葉が冠された作品だった。この大ヒットを受けて、松竹楽劇部でも洋舞を取り入れ、1928(昭和3)年の「春のおどり」でレビュー・スタイルが確立された。
松竹楽劇部の黎明期、押しの一手で入団した静子は、研究生として、安浪貞子、瀧澄子、若山千代、河原凉子、杉村千枝子たち幹部の部屋付きを命ぜられ、楽屋での雑用一切を切り盛りした。
先輩たちが楽屋に入ると、洗濯、縫い物、買い物をこなす(写真提供:Photo AC)
メンバーよりも2時間前に出勤して、幹部が楽屋入りするまでに、部屋を掃除して化粧前を整える。先輩たちが楽屋に入ると、洗濯、縫い物、買い物をこなす。
その間に、歌と踊りのレッスンをして、自分の化粧や着付けもしてステージに飛び出る毎日だった。
小柄で、要領良くチョコマカと動く静子を、先輩たちは「豆ちゃん」の愛称で可愛がった。よく気が付いて、なんでも器用にこなすので、新人が入ってきても「豆ちゃんでないとあかん、あかん」と重宝がられて、5年間も部屋子を務めることとなった。
初舞台
亀井静子の初舞台は、1927年夏、大阪毎日新聞社主催「日本新八景」レビュー「日本八景おどり」だった。ラストの華厳の滝の景で、岩に砕け散る水玉の役で踊ったという。
メイクの時に下地用の砥の粉(砥石を切り出すときに出来る土の粉)を使うのを知らずに、顔も身体も白粉で真っ白に塗って、ジョーゼットの衣装を着て舞台に出ると「なんや、その格好、白壁が歩いているようなもんや」と、看板スターの飛鳥明子に笑われたと、自伝「歌う自画像 私のブギウギ傳記」(48年・北斗出版社)で語っている。
ステージ・ネームは三笠静子。近所の知り合いが、本名の静子にちなんで「三笠静子」と命名した。
さて1928年8月、東京・浅草松竹座開場に伴い、大阪で誕生した松竹楽劇部が上京して「虹のおどり」を上演。
これが好評を博して10月には、東京松竹楽劇部が発足。その東京松竹楽劇部生徒養成所第1期生には、ターキーのニックネームで一世を風靡することになる水の江滝子がいた。
※本稿は、『笠置シヅ子ブギウギ伝説』(興陽館)の一部を再編集したものです。