与えると損になる?見返りを求める人が幸せになれない理由。与えると自分が貧しくなると考えるのは「非生産的」な性格

2024年4月4日(木)6時30分 婦人公論.jp


「与えると損になると思う人がいる」そうで——(写真提供:Photo AC)

文部科学省が発表した「21世紀出生児縦断調査(平成13年出生児)」によると、約6割が1ヵ月間で1冊も本を読まないそう。「自分の人生で経験できることには限りがあり、読書によって他者の人生を追体験することから学べることは多い」と語るのは、哲学者の岸見一郎先生。今回は、岸見先生が古今東西の本と珠玉の言葉を紹介します。岸見先生いわく、「与えると損になると思う人がいる」そうで——。

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与えることでつながる


それで おまえは、
いちばん きれいな さかなでは なくなるが、
どう すれば しあわせに なれるかが わかるだろう。
(マーカス・フィスター『にじいろの さかな』谷川俊太郎訳)

マーカス・フィスター『にじいろの さかな』は、青く深い遠くの海に住む「にじうお」と呼ばれる魚の話である。

にじうおは虹のように様々な色合いのウロコをつけていた。その中のキラキラ輝く銀のウロコを見た魚は1枚おくれというが、にじうおは断った。

〈ぼくの この とくべつな うろこを くれだって?
 いったい だれさまの つもりなんだ?〉 (前掲書)

この話が広まると、誰一人にじうおに関わろうとしなくなった。にじうおがくると、皆そっぽを向いた。にじうおは海中で一番寂しい魚になってしまった。

目も眩むような輝くウロコを持っていても、誰にもほめてもらえなければ何の役に立つというのか。困惑したにじうおはたこに相談した。

たこはウロコを1枚ずつ他の魚に与えるよう助言した。

〈それで おまえは、
いちばん きれいな さかなでは なくなるが、
どう すれば しあわせに なれるかが わかるだろう〉

輝くウロコがなくなったら、どうやって幸せになれるのか。にじうおは困惑したが、小さなウロコを1枚だけほしいといわれた時、小さな魚に与えた。すると、にじうおは不思議な気持ちに襲われた。

そして、その後も次々にウロコを分け与えた。「あげれば あげるほど、うれしく なった」(前掲書)のである。ついに、輝くウロコは1枚になったが、にじうおは幸せだった。

生命の象徴


与えると損になると思う人がいる。そのような人は、「与える」(give)ことは何かを諦める(give up)ことであり、与えると自分が貧しくなると考える(Erich Fromm, Man for Himself )。

そこで、そのように考える人は、他の人に何も与えようとしないか、与えるとしても見返りがある時にしか与えない。フロムはこのような人を「非生産的」な性格の人という。

アドラーは「天才と信じられている子ども、例外的に聡明な子どもたち」について論じている(『個人心理学講義』)。彼〔女〕らは称賛されるけれども、愛されない。成績が優秀でも、自分のことしか考えていないので好かれない。

アドラーは才能というものを認めず、すべては「自力で身につけられた創造力」であり、「天才とはただ勤勉である」というゲーテの言葉を引いているが(“Schwer erziehbare Kinder”)、優秀でも自分の能力をただ自分のためにだけ使う子どもがいるとしたら、教育の失敗である。

自分のためでなく、他者に貢献するために学び、自分の能力を他者に与えようと思ってほしい。

私は進学校で講演する時などに「自分のことしか考えないエリートは、有害以外の何ものでもない」と若い人に訴えてきたが、与えることは貧しくなることではないことを、大人は若い人に教えなければならない。

他方、「生産的」な性格の人は、与えることにまったく違う意味を見出す。「生産的」とはフロムの言葉で、「創造的」「自発的」という意味である。

生産的な性格の人は、与えるという行為によって、貧しくなるどころか、自分が強く、豊かで、力があることを経験する。

にじうおは初めは他の魚に与えることを拒んだが、与えることで自分の強さ、豊かさ、力を経験し、それにより喜びを感じるようになったのである。

にじうおは何を与えたのだろうか。

フロムは生産的な人は、自分自身、自分のもっとも重要なもの、つまり、「生命」を与えるという(フロム、前掲書)。

無論、これは文字通り生命を捧げることではない。自分の中に息づいている喜びは自分を活気づけるが、それを与えた他者をも活気づける。

にじうおの輝くウロコは生命の象徴である。

相手の中に愛を「生産」する


愛においては、相手の中に愛を「生産」する。フロムは、相手の中に愛を与える、つまり「生産」すれば自分に返ってくるというのだが、愛を物の授受のように考える人が言うような、「愛はギブ・アンド・テイクである」という意味とは違う。

与えることはそれだけで完結する。愛をギブ・アンド・テイクとしか見られない人は、相手を愛しているのに愛されないと不満に思い、愛してくれない相手に怒りすら感じる。これだけのことをしたのに、何も返さないと思う人も同じである。

目に見えた仕方で返ってくるのでなくても、与えることが自己完結的であると知っている人は与えるだけで満たされる。それが「返ってくる」ということの本来の意味である。愛することの見返りがなくても、愛した人から愛されようが愛されまいが返ってくる。

子どもを愛する親は、子どもから愛されたいと思うが、子どもに愛されなかったら愛さないわけでもないだろう。これだけ子どもを愛しているのだから、子どもから愛されて当然と思って、子育てをすると落胆するはめになる。

何もしていなくても愛を与えている


親が「物を与えることが愛だ」と見てしまうのは問題である。フロムは次のようにいっている。

〈8歳半から10歳になるまでの大抵の子どもたちにとって、問題はもっぱら愛されること、ありのままの自分が愛されることである。この年までの子どもは愛されることに喜んで反応するが、まだ愛さない〉 (The Art of Loving)

親から愛されるばかりだった子どもは、やがて親を愛するようになる。「愛を生み出す」という新しい感覚が、自分自身の活動によって生まれるというのである。

〈子どもは、初めて母親(あるいは父親)に何かを「与える」ことや、詩とか絵とか何かを作り出すことを思いつく。生まれて初めて、愛という観念は、愛されることから、愛すること、愛を生み出すことへと変わる〉 (前掲書)

愛はこのように「何かを「与える」」という行為でなければならないと考える人は多いだろう。「何かを「与える」」という行為は愛の表現だが、愛することを目に見える行為と考える人は、愛だけでなく、他者に与えること、貢献することも行為として目に見えるものでなければならないと考えるだろう。

しかし、幼い子どもは、何もしていなくても親に愛を与えているのである。子どもを愛しているのに、子どもから返ってこないと落胆したり、将来、子どもに返してもらおうと思ったりする親は少ないのではないか。


幼い子どもは、何もしていなくても親に愛を与えているのである(写真提供:Photo AC)

子どもがたとえ言葉を発しなくても、子どもの顔を見るだけで親は癒される。子どもは行為ではなく、その存在で親に愛を与えているのである。この時、親は子どもから愛を与えられているが、親が子どもを愛したその見返りとしてではない。

子どもは何もしていなくても、周りの人に幸福を与え、生きていることで貢献している。そうであれば、大人も何もしていなくても、他者に貢献していると考えていけないわけはない。

しかし、そうは思えない人は多い。今の世の中は、何かを作り出すこと、生産性に価値があると考える人が多いからである。その上、ギブ・アンド・テイクに囚われ、与えられたものを返さないといけない。

しかも、目に見える形、行為で返さないといけない。そう考えてしまうと、他者に与え貢献できない、それどころか、他者に迷惑をかけてばかりいると思った人が、自分にはもはや生きる価値がないとまで思いつめてしまうことになる。

健全な社会の縮図


若い頃、ある精神科診療所で週に1日だけ働いていたことがある。その診療所には60人ほどの人が、社会復帰を援助するプログラムであるデイケアに通ってきていた。私が出勤する日は、皆で昼食を作ることになっていた。

朝、その日作るメニューをスタッフが発表し近くのスーパーに買い物に行くのだが、買い物に一緒に行く人は少なかった。診療所に戻ると料理を始める。その時も手伝うのは15人くらいで、後の人は手伝わなかった。

昼時になって料理ができたことを知らせると、診療所のどこからともなく皆が集まってきて、そろって昼食を食べた。

この診療所ではその日手伝わなかった人を責める人はいなかった。今日は元気だったので手伝えたけれど、もしも明日体調がよくなくて手伝えなくても許してほしいという暗黙の了解事項があったのである。

普通の社会であれば、「働かざる者食うべからず」というようなことをいう人がいるかもしれない。しかし、料理を作れる人がその日何もできない人のためにも料理を作るこの診療所は、働く人も働かない人も共存する健全な社会の縮図であると私は思った。

しかし、これとて働くことに価値があり、働けない人を働ける人が支えているとなると、働く側に回れない人は気兼ねすることになるかもしれない。

生まれたばかりの子どもに誰も働けとはいわないように、働く人もそうでない人も同じ価値があると思えるようになるためには、人間の価値を生産性でなく生きること自体にあるという真実を誰もが認める社会にしないといけない。

輝くウロコを持っていなくてもいいのである。

※本稿は、『悩める時の百冊百話-人生を救うあのセリフ、この思索』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。

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