八代亜紀さん、膠原病からの急速進行性間質性肺炎で急逝「婚姻届けの保証人は八代さん。人にも動物にもとことん〈優しい〉人だった」新田純一

2024年4月17日(水)12時29分 婦人公論.jp


八代さん専属のヘアメイクとして長い年月を共にした大内聡子さん(右)と、大内さんの夫で八代さんと長く親交があった俳優の新田純一さん(左)(撮影:藤澤靖子)

「雨の慕情」「舟唄」などで知られる《演歌の女王》八代亜紀さんが、2023年12月30日、急速進行性間質性肺炎で亡くなった。八代さん専属のヘアメイクとして長い年月を共にした大内聡子さんと、大内さんの夫で八代さんと長く親交があった俳優の新田純一さんが、八代さんを偲び語り合う(構成:平林理恵 撮影:藤澤靖子)

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<前編よりつづく>

八代さんが結婚の保証人に


新田 八代さんがいなかったら僕らは出会っていないよね。

大内 そう。八代さんがつないでくださった。

新田 僕はNHKの『レッツゴーヤング』で1981年に芸能界入り。26歳のとき、八代さんの座長公演にゲストで出していただいたことがきっかけで親しくなり、その後、旅番組やラジオ番組なども一緒にやらせていただきました。仕事以外でも、休演日にはゴルフに、公演後はバリ島へ連れて行っていただいたりなど素敵な思い出がいっぱいあります。

大内 私はもともと美容師で、派遣でヘアメイクの仕事をやっていました。和髪や着物の着付けの技術を身につけ、ある歌手の方のメイクを担当していたときに、八代さんの専属にと声をかけていただいたんです。

八代さんには、地方公演、海外公演はじめ、なかなかできない体験をたくさんさせていただきました。東日本大震災など大きな災害や、コロナ禍もあったけど、八代さんは大変な思いをしている方々のそばに行き、寄り添って、歌を届ける。世の中が止まっているときでも動いていらした。

30年近く一緒にいて、暇だった時間が思い出せないくらい、仕事をさせていただきました。

新田 僕たちは、ずいぶん前から現場や新幹線で一緒になったりしてたけど、僕のなかではずっと「ヘアメイクの大内さん」だった。それが変わったのは、八代さんと千昌夫さんの座長公演が新宿コマ劇場で行われた2002年。「一度飯でも行こうか」って話になったよね。二人とも子どもがいて、僕はもう離婚してたけど……。

大内 私は前の家庭のことで悩んでいた時期。食事中にその話をしたら、「子育てをしながら仕事もがんばって、すごく偉いよね」とわかってくれて。それからしばらくして付き合うことになったときに、八代さんのお部屋を二人で訪ねると、八代さんすごく喜んで、「応援するよ」って。

新田 そこから20年以上、事実婚状態だったけど、23年の5月、僕の60回目の誕生日に、自分で主催した還暦ゴルフコンペで、みんなの前でプロポーズ。

大内 私はそのままでもいいと思っていたんだけど、あんなふうに大勢の前で発表されちゃうと、断れない。(笑)

新田 けじめをつけたかったんだ。八代さんには、保証人として婚姻届にサインしていただきました。

大内 その前々年にご自身が離婚を経験なさっていたこともあって、八代さんからは「籍は入れちゃダメよ」と言われていたの。本音は反対だったんだと思う。でも、おめでとうって言ってくださった。

新田 そして、テレビ番組の収録のあと、八代さんがマイクをとり「新田くん、聡子さん、結婚おめでとう」。スタッフがぱっと花束を出して、わーっと拍手がわきおこり……。

大内 素敵なお祝いの演出を八代さんがしてくださいました。


八代亜紀さん

誰に対しても優しい人だった


新田 ヘアメイクをしているときって、八代さんと二人きりになるでしょう。僕にはわからない、二人だけの絆みたいなものがあったんだろうね。だからこそ、八代さんがあなたを離さなかったんだろうし。

大内 私にだけ見せてくださったお顔は、確かにあったと思いますが、とにかくいつも前向きでした。29年の間には、落ち込みそうな出来事も何度かあったのに、全部はねのけて、プラスに変えて。

新田 誰に対しても優しい人だった。高齢者施設を訪問したときは、カメラがまわっていない間も入居者の方の手をずうっと握って話し込んでいたし、信号待ちで近くに赤ちゃん連れがいたら、近寄って必ず声をかける。

大内 女性刑務所の慰問活動も長く続けていらした。お話を伺うと、「男にだまされた」とおっしゃる方が多いんですね。八代さんの歌には、尽くす女性や、女の哀しみを描いた曲が多い。それで八代さんが歌うと、受刑者たちが号泣して、刑務官も私たちもみな泣き出してしまう。

八代さんは、「卒業」という言葉を選んで、「ここを卒業されたら、私は全国で歌を歌っていますから会いに来てください」と語りかけていました。あるとき、コンサート会場の楽屋口で女性が待っていて、「卒業しました」と言ったんです。八代さんは、ピンときたのでしょうね。その方とお話をなさっていました。

口先だけではなく、いつも心動かされて行動し、人とかかわっていたように思います。

新田 人間が好きで、誰に対しても優しい。あ、人間だけじゃないか。保護猫や保護犬の活動にもとても熱心だった。

大内 そうそう、インタビューを受けて「一番好きなお花は?」と問われたとき、「私は、一番は決めません。決めちゃうとほかのお花がかわいそうだから」と答えていて。なんて優しいんだろうと思いました。

新田 ラジオ日本の玄関を入ったところに熱帯魚がいっぱいいる大きい水槽があって、そのなかに一匹だけ、ボロボロの熱帯魚がいるんです。八代さんはその子に「ドリー」と名付け、収録が終わると必ずそこに立ち寄って、「ドリー、元気?今日も会いに来たよー」と話しかけていました。

大内 私たちだけでなく、八代さんとかかわった人は、きっと誰もが、こういう思い出を持っているのでしょうね。

新田 そうだね。歌手としての八代さんは唯一無二の歌声を持ち、ジャズも歌えばロックも歌う。ジャンルを超えた存在である一方で、《演歌の女王》でもある。あれだけのヒット曲と歌唱力と人間性を持ち合わせた、まさに《女王》。そんな八代さんの弟分であることは僕の誇りです。

大内 私もそうです。共に過ごさせていただいた日々は私の一生の宝物。感謝しかありません。

婦人公論.jp

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